鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

死ぬに、死ねない・・・のは・・・。

2021-07-14 22:13:21 | Weblog

相変らずの空模様。

晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、また晴れたり・・・空が、とっても忙しい・・・。

 

一日24時間のうちで、或る一定の時間になると、母を思い出す。

特に、16時半から、母と私の夕食を作っていた時間、18時の夕暮れチャイムが、鳴るとき・・・そして、19時半頃、母の脚を、ホットパックで、温めたあと、手、脚、頭、顔などのマッサージをしていた20時半頃迄の間の時間。

この時間になると、胸が締め付けられるように、母が恋しい。

夜間に寝付けぬ(ほぼ毎日なのだけれど)とき。

 

私は、母のために生きていたんだな・・・と思う。

存在理由が他に見当たらなくなって、存在理由が、見当たらないなら、あの世から、さっさと迎えに来てくれないかな・・・。

この先は、不安しかないし、生きていても仕方が無いと思ったりする。

 

私には、やりたいこと・・・が、ない。

仕事をしていたときは、日々の糧のため、仕事を辞めたら、母のために、出来ることをしよう・・・と思って生きてきた。

でも、母の身体の不調が続くと、その世話でイライラし、何のために、生きているんだろうと思ったりした。

 

そう。この先・・・の不安。

コレが、今、凄く大きくて、考えると面倒になって、もういいや・・・コレ以上、生きていても、仕方が無いから、自ら、あの世へ行こうか・・・などと思ったりしている。

 

昔から、あまり積極的に生きて行こうを思ったことはなかったし、どうしても生きたい・・・という理由もなくて、或る意味、日常が、緩慢な自殺状態では、あったような気がしている。

生きていても、何もいい事はないし、何故だか、世の中、理不尽だし、運は悪いし、身体は、不調だし。

 

比較的、幼い頃から、『死』は身近にあって、いつも、『死』は、となりにいる友達?みたいに、毎日、意識していたような気がする。

『memento mori (メメント モリ)』人はいつか死ぬことを忘れるな・・・。

死ぬことを忘れていられるのは、幸福な状態なのかもしれない・・・とすれば、私は、いつも不幸だったのかも・・・。

 

そんな思考の中の『死』は、割と軽い部類の『死』で、最近、自殺者の2/3は、死ぬことに失敗して、身体に大きなダメージを残し、植物状態になったり、二度と自分で自殺することは不可能な身体状況になる・・・ということを知った。

死ぬに死ねないのか・・・。

コレは、意外な現実でもあった。

死ぬまで、出られない施設に収容され、毎日、死の足音を聴きながら、身体の自由を奪われ、あるひとは、植物状態になり・・・。

 

自殺の失敗は、やはり、死にきれない・・・生存本能みたいなものが、足を引っ張るのかもしれない。

自殺で、完全に死ねるひとは、或る意味、幸運???なのかもしれない・・・と思ったり。

自分で、人生の幕を引きたいのに、それが、叶わぬ・・・完全死より、怖い死にぞこない。

 

母は、心不全で、自然死だったから、その生を全うして、旅立った。

だから、お祝いをしなければならないのかも。

 

残された私は、死ぬに死ねず、生きるのも面倒・・・死にぞこないは、とてもイヤだし、何より、その死にぞこないの身体を養うために、高額な医療費(・・というか、生存費用)が、掛かるのも、なんだか、割りが合わないような気がする。

 

 


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