遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



身体のゆがみにきづく・なおす

ひきつづき阿部さんのワークショップ 2日目 14名参加 ビジター5名

① 足指 骨盤のエクササイズ
② 姿勢の確認 調整
③ あなた・わたしのゲーム2種
④ スクエアに歩く 各自前のひととの間隔をキープするゲーム
⑤ hoをサークルで発声 意識をひらく 聴く 自分の声を聴く
⑥ 天真五相 母音とumの発声
⑦ 鈴木メソッド
⑧ 高瀬舟の輪読
⑨ 阿部さんの実演

    テーマはきのうにつづき
A自分の身体を知る(強いからだは自由なからだ)
B意識をひらく
C発声・母音
D身体に起きたことを発声する

 2日 特別参加のふゆきちゃん 女の子生後6ヶ月と阿部さん


   ワークショップの集大成としての輪読は考えさせられることが多かった。一概に声がよければというものではない。過剰と不足とどちらがいいかといえば、不足よりは過剰のほうがよいのかもしれない。情景の見える読みはあまりなかった。これはなぜだろうと思うに、課題である句読点を自分でかんがえる、息継ぎの直後の段落のはじめは必ず高低を変える..という約束事に気をとられイメージまであたまがまわらなかったためからかもしれない。

   しかし課題が高度に過ぎたのか、一部でもできたひとはごくわずかだった。おもしろいと思ったのは、若手でやる気があってそこばくの野心を持っているひとの読み...というのは似ているのだった。そして、わたしはそれがきらいではなかった。そののぞみがきらきらとものがたりに精彩を放っている....しかしそれはまたあきらかにものがたりにとっては余分で....もしはずしてしまったら あとになにが残るだろうとも考えた。

   また、自分の世界を持っていて、誠実にものがたりにむきあった読みをしているひともいて、それはそれで好感がもてた。自力整体にとりくんでいるメンバーの声が格段によくなったのに驚き、読み聞かせの講師をはじめたメンバーがうまくなったのに驚いた。ステージはひとをつくる。ともかく 語りも読みも読み手をうつしだしてしまう鏡である。

   わたしは阿部さんの課題にしたがって喜助の台詞の出だしを読んだ。句読点、声の高低、視線の遠近、時間、身体で感じたことをことばにしようとしたが、弟が血まみれで苦しんでいる修羅場はタフでなければ無理である。最後は気を抜いた。阿部さんからお褒めのことはいただいたが、それが限定つきであることも承知している。わたしとしてははじめから終わりまで身体で感じたままを語る....のはむつかしいと思っている.....なぜなら語り手の身がもたない。それに聴いているひともきついと思う。ついでにいうなら、その身体の感覚というのが登場人物の時間経過とともに変わっているはずだし、あえて押し殺すときだってあるのではないか......

   ものがたりを生きる.....語り手にとってそれがいちばん楽しいし、聴き手のみなさまにもものがたりを生きていただく近道である。ときどきいらっしゃる「やってるわたしがステキ..」がすきな方々は、もろもろのものを貼り付けて ひとつのコラージュをつくりあげ、”やった感を”求めるのであるが、語りにしろ、読みにしろ、実態は実にシンプル、ものがたりと読み手・語り手まるのままなのである。そうでない道もあるにはあるが、すべてをなげうった長い長い修練と努力が必要なのだ。常人にできることではない。

   ものがたりを生きるにあたって、身体で感じることはたいせつだが、それがすべてではない。要所要所でつかえればいい....とわたしは感じている。身体を鍛えることはだいじだが、歩けないから語れない....というものでもない。ものがたりを語るのは”ひと”である。その精神と身体と感覚と魂....とでもって語る、背後には人生....勇気と夢、希望と絶望、かなしみとよろこび.....がある。そしてわたしたちは遺産を受け継ぎ受け渡すものであり、宇宙とつながるものである。そのすべてのつながりを持って語るのである。

   畢竟 それはつけたすことではなく、余分なものを削ぎとることで近づけるとわたしは思う。その余分なものに気づくためにワークショップはあるといっても過言ではない。


    今回のワークショップで私が突きつけられたことは三つある。
1 仕事をとるか、カタリをとるか
2 指導者としてどうするか
3 語り手としてこのままでいいのか


   ワークショップは仕事の修羅場のさなかにあった。わたしはひとの手を借りてなんとかできることはすべてしたけれど、いつもそういうわけにはいくまいと思う。あしたはいつ終わるかわからない....という覚悟を持って臨もうと決めた。8/1から3日にわたるワークショップは指導者としての実践のワークショップである。得ることはあるだろう。こうしてみたい、あぁしてみたいという試案はいくつかある。みながついてきてくれるのであれば。ともあれ、できるところまで行く。

   阿部さんの語りは阿部さんの、堀井さんの朗読は堀井さんの......壌さんのは壌さんのもの......わたしにはわたしの方法がある......もういいではないか.......いただいたものはありがたく糧にしてわたしはわたしの語りをしよう。やっている実感がほしいのではない、生きた証とかそういうのでもない......己と宇宙、他者と自分がとけあって 永遠が見える一瞬.........かつていたところ、憧憬とイタイほどのなつかしさ.....かぎりなくゼロに近い一瞬に惹かれる。......子どもたちの笑顔や高齢者のあったかい手や、それだけではなくて。

   ものがたりの真髄をつかみとる、棄てるところは棄て去る、そのエッセンスが自分のうちなるものとひびき、遙かななにかとひびきあい。聴き手のうちなるものに響いたときにゆるされる一瞬がある。


 振り向いて 刀を振り下ろし つぎなる相手を声でたおす
「ア」「カキクエバカネガナルナリホウリュウジ」



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