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大統領となったアジェンデは、次々と社会主義的な政策を実行した。農地改革、銀行・鉱山・大企業の国有化、対外債務の支払猶予と不履行の宣言、健康保険などの社会保障整備、教育の拡充、ミルクの無料配給、給与の引き上げと消費財の価格統制、そしてソ連やキューバとの友好等々。チリ経済は著しい発展を始めた。アジェンデの任期の最初の年に経済成長率は10%を超え、インフレは沈静化し、失業率は低下した。
チリの鉱山や製造業や金融業を支配していた合衆国は、それらの企業が国有化されたことに激怒した。さらにチリが冷戦下、共産圏と接近し始めたことに危機感を募らせた。そしてなにより、「共産主義者は暴力を信奉している」と主張してきた合衆国にとって、チリが平和的な手段で社会主義的な道を歩み始めたことは都合が悪かった。CIA長官は「アジェンデ政権転覆のためならどんな手段を使ってもいい」と指示を出した。
合衆国の意を受けて、西側諸国は経済封鎖でチリを締め上げた。そして銅の国際価格が操作され、銅の輸出に頼るチリ経済に深刻な打撃を与えた。
西側資本をバックにつけて、依然としてチリの国内市場を支配者していたのは、旧権力者たちだった。彼らはその支配力を使って、自国の国民経済を破壊することに血道を上げた。資金の引き揚げ、売り惜しみ、闇市場の形成、等々。サボタージュやストライキの煽動にはCIAが資金を出した。
それらの状況下、アジェンデ大統領は成果を急がざるを得なかった。しかし一挙に拡大した社会諸資本への投資は、締め上げられたチリ経済に対してさらに過重な負担を強いることになった。
インフレと物資不足。チリ経済は困窮していた。チリの国民大衆は、それが西側諸国の経済封鎖と国内旧支配者の妨害によるものだと知っていた。人々は地主や資産家たちを「裏切り者」と非難した。どうせやつらの家にはたんまりと金や食糧が貯め込まれているんだろう。それに対し、地主や資産家の奥方たちは、空の鍋釜を持ってデモ行進し、「アジェンデのせいで今や自分たちもすっからかんだ」とアピールした。’73年の議会選挙では、人民連合が勝利した。それはアジェンデ大統領の政権基盤を強化し、西側諸国と旧支配者によって作り出された困難な状況を跳ね返し、有権者に約束した政策を力強く推進するための有利な条件となるものだった。
旧権力者たちの意を受けた右派のテロが荒れ狂った。放火、爆破、狙撃。鉄道やパイプ・ラインが破壊され、送電線が切断された。工場の操業は停止し、首都サンチャゴは停電した。チリ経済は壊滅状態に陥った。反アジェンデ派によるクーデター未遂事件。それに対するアジェンデ支持者100万人の抗議デモ。チリは騒乱の中で揺れた。
アジェンデは国民投票で自らの政策に対する信を問おうと、9月に公示を予定していた。しかし合衆国はそれを許さなかった。バルパライソの港に合衆国の軍艦が集結した。茶番劇の舞台はそろった。「アジェンデによって困窮させられたチリ国民を救え!」。CIAと旧支配者に後押しされ、アウグスト・ピノチェト将軍が率いるクーデターによって、チリ現職大統領サルバドール・アジェンデは殺され、人民連合政府は崩壊した。
アジェンデは死に直面しながらも、ラジオ放送を通じて、自らの信念を貫く最期の演説を行った。1973年9月11日のことである。
チリ・クーデターについては、それをテーマにしたさまざまな映画や文学作品がある。ここで事件の詳細を描写することは、とてもできない。殺された者数万人、逮捕・拷問された者はその数倍、行方不明者は数知れず、国民の5人に1人が亡命せざるを得なかったという、未曾有の規模だった。しかし、たったひとつ、歌手であったビクトル・ハラが大勢の人民連合政府支持者とともに殺されたことについては、触れておきたい。彼は5千人の人々とともにスタジアムに閉じ込められ、二度とギターが弾けないように手を砕かれ、それでも歌うのを止めなかったから銃殺された。
以上
元記事にアシェンデの最後の演説があります。
アメリカのやり方はすこしばかり 上品になりましたが 中身はかわりません。自国はおろか 他国の国民なんぞの命は虫けらにひとしいのです。どれだけ多くの政権が」倒され 国民が死んだことでしょう。しかし ベトナムではアメリカは負けました、間違いなくひとびとに敗れ去り すごすごと出て行かざるを得ませんでした。
アメリカその背後の国際資本が世界を牛耳り わがもののようにしています。10人に9人のひとがテレビや新聞にだまされ 寄生虫に食われても 彼らはたぶん わらって死んでゆくのでしょう。10人にひとりのあなた 覚醒したあなたはいったい どうしますか?隠忍自重して 嵐が過ぎるのを待ちますか? 吸い尽くされるまで。