遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   きのうはカタリカタリのワークショップだった。日程が変わったため カタリカタリのメンバーは1/2しか参加できなかたったが 幸手の演劇グループとトムの会 ミクシイのメンバーからと寄せ集めでワークショップは成立したのだ。

   わたしはガス欠でもうひとりが故障とアクシデントはあったがほぼ定刻にはじめることができた。寄せ集めと思えないほど昼食タイムは和気藹々としたものだった。それは松本永実子さんのおひとがらもあろうし エクササイズの楽しさもあったと思う。あっという間に密度の濃い時間はたってゆき 感想によればそれぞれが自分について、コミュニケーションについて、また感覚と身体の関係性について気づくことができたようだ。

   自分なりにおもしろかったのは’開く’ということについて RADAで学んだ西洋的な定規での開くと川瀬さんが言う東洋的な’開く’は少なくとも感覚的に違うのだと気づかされたことだ。感覚を開くとは蛇口を開くことに似ている。水道がきていても蛇口をひらかなければ水は出ない。扉や窓を開くのにも似ている。 風が吹く 雨が吹き込む 木々の匂いとひとつになる。一方 東洋的な’開く’は自分が一本の木になったような感じ、屋根と床がなくなる。天と地をつなぐ一本の木になる。ミクロコスモスとマクロコスモスがつながる。

   今まで数多くの講座 レッスン WSに参加してきたが 自分の語りについて かたちが見えてきたのは目白ゼミと銀座ゼミだった。ふたつとも実践の講座で六年前目白でまだほやほやの語り手のたまごだったわたしは市川さん 君川さん 今井さんというはっきりした個性を持つ経験豊かなメンバーのなかでシェイクされた かなり強烈な思い出がある。銀座も少人数で語り手ではない方が多く 実践のなかで 初心者の方の新鮮な感覚のほうが長年の経験よりインパクトがあったりして興味深かった。講師は両方とも櫻井先生で今思えば贅沢な講座だったが 数回で終ってしまった。
 
   そのあとは語りの講座より他の分野で学んだことが覚醒させてくれたし 語りとはなにか かえって明確に見えてきたように思う。大気圏を出てはじめて 青い丸い地球のすがたが見えるように...。すべてのものはつながっている。そういう意味で語り手のための包括的な学びの場はまだない。語り手たちの会のセミナーさえもっと充実してもらえたら...と思う。しかし これは各々の 語り手の意識によるのだ。まなぼうとするなら学ぶ場はそれこそ無限なのだから。

   それにしても今急務なのは底辺拡大もさりながら 中核を成すであろう語り手たちの育成である。 必要なのは互いに切磋琢磨する場、語る場である。さまざまな分野のある意味で一流の講師を招き 少人数でゼミ形式にすれば 才能は開花するであろうが それにはお金がかかる。それだけの投資を自分にするひとはどれだけいるだろうか。

   演劇同様 語りを学ぶことは 生きるとはなにか 自分とはなにか 学ぶことでもある。このような自分への投資ほど 間違いなく自分にもどるものはない。それは自分が個・孤ではなくたくさんのもの、たくさんのひととつながっているということを教えてくれるし 自分をも含めてあらゆるものへ働きかけることが めぐりのものを確実に変えてゆけるのだという自信を与え ゆく道を照らしてくれる。




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