南斗屋のブログ

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1810年代の大野村(現北斗市) ゴロヴニン「日本幽囚記」より

2022年09月10日 | 伊能忠敬測量日記
〈はじめに〉
ゴローニン事件で幕府に拘束されたゴローニンは、「日本幽囚記」という著作を残しており、岩波文庫に収められています(岩波文庫では著者を「ゴロヴニン」としているので、以下この表記で統一)。ゴロヴニンは国後島で拘束され、函館まで連行されるのですが、函館に近い大野村(現・北海道北斗市)のことを描写していますので、その記載をご紹介します。

【ゴロヴニン「日本幽囚記」より】
〈大野村はこれまで通過してきた村のうちでもっとも大きい。
周囲は25~30露里(2.6~3.2㎞)に及ぶ広大な渓谷の中にある。
村は三方を高い山に囲まれ、寒い風を防ぎ、南側には函館湾と津軽海峡がある。
渓谷には流れの早い多数の河川が灌いでいる。
大野村はいわば庭園の中にあるようなもので、どの家にも広々とした菜園や庭園がついている。
西洋の普通の野菜類のほかに、林檎や梨や桃のような果樹も見え、その上ところどころ大麻や煙草や稲も見えた。
大野は函館から約7露里(7.5㎞)のところにある。〉

(コメント)
・国後島から大野村まで連行されてきたゴロヴニンは、大野村がもっとも大きな村でったと記しています。函館にも比較的近く栄えていた村でありました。
・江戸時代に大野村と呼ばれていた地域は、昭和に大野町となりましたが、平成の大合併で北斗市となり、「大野」は地名としては消えてしまったようです。小学校の名前などに「大野」の名前が残っています。
・函館からの距離は、ゴロヴニンによると約7露里(7.5㎞)というのですが、函館元町公園(当時の箱館奉行所)〜大野小学校までは18キロあり、約7露里(7.5㎞)とは計算が合わないので、これはゴロヴニンの勘違いでしょうか。
https://maps.app.goo.gl/QVdWzi2R24U1PMhm9
・大野村は伊能忠敬も蝦夷地測量で通過しています。宿泊地でもありました。なお、忠敬は、大野村から函館までの道のりは五里(約20キロ)としています(9月11日条)。
寛政12年9月11日
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。



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