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色川三中が過大な債務を負っていた理由

2023年06月19日 | 色川三中
色川三中が過大な債務を負っていた理由

〈文化13年の土浦の大火〉
「色川家の経営は文化4年( 1807)頃から 困難な様相を呈し始めていましたが、文化13年2月 、土浦の城下町をほぼ焼き尽くした 大火 に大きな打撃を受けました。 田宿町の薬種店は全焼、川口町の醤油蔵も類焼 しました 。」「火事後すぐに営業を始めたものの復興投資のため 借財は 2400から2500両にも上った といいます 」
(『次の世を読み解く 色川三中と幕末の常総』)

色川家は土浦の町中に二つの店を出していました。一つが薬種商(田宿町)、もう一つが醤油蔵(川口町)です。田宿町の薬種店も川口町の醤油蔵も文化13(1816)年の大火により被害を受けました。この大火を三中は「子年の火事」と呼んでいます。
この大火のときに経営を行っていたのは、三中の父親であり、三中はこのときまだ満年齢で15歳でした。
この大火により、店が焼けてしまったので、再建しなければなりません。この費用が2400〜2500両に上りました。
 一方、事業自体もすぐに従前どおりというわけにはいきません。雇用していた従業員に暇を出し、再雇用できない者がいました(家事志;文政10年9月24日条)。
 借金は膨れ上がったのに、マンパワーは低下したのですから、経営が苦しくなるのは明らかです。
 
〈三中の父親の死〉
経営再建に奔走していた三中の父親ですが、土浦大火の9年後である文政8年(1825)に亡くなります。48歳という若さでした。
父親が死去したときの借金は1600〜1700両。うち利付のものが1200両でした。大火の際の借入れからは債務額が減少しているのは、三中の父親が有給資産を売却し、返済にあてたからです。
三中が家業を継がざるを得なかったのは、このような状況下でした。ときに三中24歳(満年齢)。まだまだ若く、家業を建て直しつつ、この膨大な債務を整理していかなければなりません。
三中の日記(『家事志』)に債務整理の記事が多く出てくるのはこのような事情によるものなのです。




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