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嘉永6年6月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月15日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年6月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年6月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
入野村の佐左衛門殿と共に湊川の借家へ行く。家主の留守居の母様より、雪をもらったので一同賞翫した。 
(コメント)
「佐左衛門」は石毛佐左衛門。香取郡入野村(旭市入野)の百姓です。入野村は、大原幽学が居住した長部村からは4キロほどの距離です。五郎兵衛は長沼村(成田市長沼)で入野村からはかなり離れていますが、大原幽学の同門なので、交流があって親しくなったのでしょう。
入野-大原幽学記念館

入野 to 大原幽学記念館

入野 to 大原幽学記念館



嘉永6年6月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
・湊川の借家へ行く。荒海村の差添えが、作左衛門殿に交替。
・村の運営がうまくいかないとの便りが届く。大原幽学先生に申し上げると、「そんなことだから困る。しっかりと御代官様や御手代衆へもご相談をすべきだ。」とのコメント。
(コメント)
江戸時代の裁判は裁判の当事者だけではなく、村から付添人(差添え)を出さなければなりませんでした。差添人は江戸にいる限り村での仕事ができませんから、今回の記事のように時々交替しています。荒海村は、現在の成田市荒海。五郎兵衛の長沼村の隣村です。

嘉永6年6月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。幽学先生から「日々を漫然と過ごし、自分の行いを省みないのは災いとなる。この世は変化するので、その変化についていかなければならない。そのように心法を立て、勤行すべき。」
(コメント)
大原幽学先生の教え。「この世は変化する。変化についていかなければならない」と柔軟な思考も見せています。偶然にも本日嘉永6年6月3日はペリーが来航した日です。激動の幕末が切っておとされました。
五郎兵衛日記でも今後異国船への言及がありますので、お楽しみに。

#ペリー来航
嘉永6年6月3日(1853年)
・正午。彦根藩の三崎陣屋に「4隻の異国船が城ヶ島沖を航行している」との情報が届く。三崎町の漁師からの情報。
#ペリー来航
・ペリー艦隊、浦賀に到着。午後5時過ぎ、浦賀沖に錨を下ろし、町に搭載砲を向ける。
#ペリー来航
・与力中島三郎助が通詞堀達之助と共に小船でサスケハナ号に赴き、副官コンティ大尉と交渉。コンティは国書を渡すことが目的と来航の目的を明らかにする。中島は艦隊を長崎に開航することを求めるが、コンティは拒否。
#ペリー来航
・午後10時、浦賀からの早船による報告が浦賀奉行井戸弘道の江戸屋敷に着く。井戸は直ちに老中阿部正弘の屋敷に届けを持参。
阿部は老中、若年寄を招集し、江戸城内で協議。協議は夜を徹して行われた。

嘉永6年6月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。平右衛門殿(荒海村)が田安家の御代官様に会いに行ったところ、「領地の百姓が潰れるのを、奉行所も良しとはしないだろう。村が難渋していることを申し上げれば帰村はかなうのではないか」とのお話しがあった由。
(コメント)
荒海村(成田市荒海)の領主は田安家(御三卿の一つ)。同家の代官磯部は、大原幽学の教えには同情的です。教えそのものより、村が繁栄して年貢を順調に納めてくれることを重視していたのかもしれませんが。百姓が潰れてしまうと、年貢の取立てがそれだけ減ってしまいますから。大原幽学裁判は領主の利害にも関わるものとなっているのです。

#ペリー来航
嘉永6年6月4日(1853年)
・午前7時、与力香山栄左衛門が通詞とともにサスケハナ号へ。香山は「国書受領は浦賀ではできない。受領の回答も長崎で行う」と述べたが、拒否される。
#ペリー来航
・なお、香山は与力に過ぎなかったが、「浦賀奉行であり、浦賀最高位の役人」と身分を偽っていた(浦賀奉行戸田の指示による)。
#ペリー来航
・浦賀奉行戸田は香山に、江戸に行き、幕閣に報告するよう命じる。香山は直ちに江戸に向かう。
#ペリー来航
老中阿部正弘を中心とした協議が終了。夕刻、浦賀在勤の浦賀奉行に宛てて対処方針が送られる。

嘉永6年6月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。平右衛門殿(荒海村)は、今日も田安家の御代官様の御屋敷に行った。平右衛門の案に代官様がご加筆。代官様からは、これを清水家へ差し出すようにとのお指図とのこと。思召し誠にありがたい。
(コメント)
田安家の代官(磯部様)は大原幽学の裁判にだいぶ肩入れしています。幽学個人というよりも村の存立、発展を重視してのことでしょうが。それにしても、書面への加筆やアドバイス等は本来の代官の仕事を超えているといえましょう。このような心ある代官が味方についていることは心強いことです。


#ペリー来航
嘉永6年6月5日(1853年)
・幕府の異国船来航の対処方針が浦賀奉行戸田氏栄に届く。対処方針は「穏便専要」。即ち、穏便が第一というものであり、戦闘を避けることが重要視された。乗組員が日本に上陸して民家に立ち入っても、乱暴をしなければ放置してもよいとも。もっとも、国書受領については指示はいまだなし。
#ペリー来航
・江戸城にて国書受領の是非についての評議。夜に、老中首座阿部正弘は徳川斉昭に、書簡でペリー来航への良策を求める。



嘉永6年6月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 湊川の借家へ。書付の件で、良左衛門君はいかにも弱腰なので、幽学先生はご立腹。書付は外川屋(公事宿)に任せ、村が潰れそうになることを強調して書いてもらった。
(コメント)
「良左衛門君」は、長部村の名主の息子遠藤良左衛門。五郎兵衛の方が年上なので、五郎兵衛日記では君付で呼ばれています。名主の息子なのに放蕩して親を困らせていた過去あり。今回もガツンとぶつかっていかなければならないのに弱腰。幽学先生にまで叱られています。しかし、幽学死後に、幽学教団の二代目となるのですから、わかりません。


#ペリー来航
嘉永6年6月6日(1853年)
・徳川斉昭は書簡で、「今となっては外国船を打ち払えとはいえない、評議に委ねるほかなし」と回答。
・老中首座阿部正弘が将軍徳川家慶にペリー来航を上申。家慶は、外国のこと、実に国家の大難であり、徳川斉昭と協同して事に対処せよとの指示をだす。
・浦賀沖に停泊していたペリー艦隊のうち、ミシシッピ号が東京湾の内側に進行。
・江戸城での評議で、一時の権策として国書受領方針を決定。



嘉永6年6月7日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生のお話し「女性のことは、よほど心得て置かないと色情の念ばかり出てしまうぞ。情愛をもって世話が行き届くようにするのだ。常に心の運びを考えて、すこしでも甘ったるい根性ではないようにしていかなければならないぞ」
(コメント)
幽学先生、ご結婚はされていないのですが、過去にいろいろあったのでしょうか、今日は女性についての教えを五郎兵衛らににぶっています。「色情」という言葉は「若者が色情に走るのも怖いので、大学、中庸くらい読むのは良い」と以前もいっていましたから、お気に入りの言葉なのかも。



#ペリー来航
嘉永6年6月7日(1853年)
・浦賀奉行が、東京湾警備にあたっていた四藩に、「明後日国書受領、久里浜の警備をせよ」と命令する。
・午後、与力の香山栄左衛門がサスケハナ号に向かい、ブキャナン中佐は「明後日に国書を久里浜で受領する」ことを伝える。
#ペリー来航
・会談後、香山は砂糖入りのリキュールを飲みながら、ブキャナン中佐と雑談。ペリー側は、香山の洗練されたマナーと西洋の科学や世界の地理に対する知識の高さに驚く。
#ペリー来航
・幕府、万一に備えて東京湾の警備を増強する。熊本藩他六藩に東京湾の防衛を命じる。なお、ペリー来航の6年前から四藩(川越、彦根、会津、忍)が東京湾警備にあたっていた。
・幕府が、船を繰り出して艦隊に接近して見物することを禁止する触書を出す。好奇心で艦隊に近づく船が後をたたなかったため。

嘉永6年6月8日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
元俊と共に湊川の借家へ。平右衛門殿は、清水様のお役所に行き、願書を提出。清水様から、「早々にその筋に訴えでる」とのお言葉があったとのこと。
夜、高松様が山形屋にお出でになり、深夜までお話し。この日泊まり。
(コメント)
「清水様」は御三卿のうちの一つ清水家。大原幽学の重要拠点である長部村(旭市)は清水家の所領であるので、願書は清水家に提出されています。裁判を担当する奉行所とも掛け合ってくれるとの好意的な返事です。田安家代官の根回しがあってのことでしょう。

「高松様」は高松彦七郎のこと。御家人で御小人目付として幕府に勤めています。高松様が山形屋(元俊医師と五郎兵衛の公事宿)に来ることは珍しく、深夜までの話し、しかも泊まり。6月3日にペリーが来航したこととも関係があって元俊医者と話したかったのでしょうか。

#ペリー来航
嘉永6年6月8日(1853年)
・与力の香山(米国には浦賀奉行を詐称)がサスケハナ号に赴き、国書受領の詰めの会談を行う。
・幕府が触書で、定火消しに、ペリー艦隊が江戸に接近した場合は、半鐘を打ち鳴らすように命じる。
#ペリー来航
・町奉行所が達書で、町火消に、半鐘が打たれた場合は持ち場につき、与力・同心の指示に従うよう命じる。

嘉永6年6月9日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
昨夜泊まられた高松様は早朝小石川にご帰宅。昼前に元俊と共に湊川の借家へ。
平右衛門の話しでは、磯部様(田安家の代官)は「今般の異国船騒動のことは決して人に聞いたり、語ったりしてはならない。どんなことがあっても驚いてはならない。」と仰っていたとのこと。
(コメント)
「異国船騒動」としてペリー来航が初めて五郎兵衛日記に登場。ペリー来航は6月3日。9日には人々の噂になっていたのでしょう。田安家の代官からの口止めとも取れる言葉が日記には綴られていますが、既に「騒動」となっているのに、人に聞いたり、話したりしてはダメといわれても無理でしょう。

#ペリー来航
嘉永6年6月9日(1853年)
・午前9時ころ、ペリー、久里浜に上陸。幕府、急造の応接所でフィルモア大統領からの国書を受領。
「単なる受領であって、交渉ではない」という立場を幕府がとったため、会話らしい会話もなく、国書受領の式典は終了。

嘉永6年6月10日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判
湊川の借家へ。異国船の話しでもちきり。諸大名・御旗本が各所に陣取り、今日明日中にも戦となるかもしれぬとのこと。
(コメント)
湊川の借家へ行くと、既に異国船の話しでもちきり。「今日明日中にも戦となるかもしれぬ」と書いていますが、五郎兵衛日記にさしたる緊張感はなく、好奇心的が先立っている記事となっています。
五郎兵衛日記に記載されている江戸の様子。
・御府内は町方まで合図の鐘が鳴り響いている。
・十人火消しは配置につき、火事があってもよいようにとのお触れ。
・諸大名・御旗本は、今や今やと合図の鐘を待っている。
・出立の際は、水酒盃の覚悟を致すほどとのこと。

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