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加波山事件と千葉重罪裁判所

2022年12月19日 | 歴史を振り返る
(はじめに)
 明治時代に起こった加波山事件をもとに当時の刑事法等を考えてみたいと思います。

(加波山事件とは)
 加波山事件とは、1884(明治17年)9月に発生した民権激化事件の一つです。加波山は茨城県にある山で、同所等で事件が起こったのですが、被疑者らは逃走し、千葉県内で逮捕されたのが、同事件の首謀者の一人である富松正安(とまつ まさやす)でした。
 富松は、同年11月2日に逃走先の姉崎(現・市原市姉崎)で逮捕されました。富松の判決及び刑の執行は次のとおりです。
1885(明治18)年3月 予審終結言渡
1886(明治19年)7月 一審(千葉重罪裁判所)で死刑判決。
同年8月 大審院が被告人側の上告を棄却し、死刑判決確定。
同年10月5日 寒川監獄で死刑執行。

(加波山事件当時の法)(注1)
 加波山事件に適用されたのは、1880(明治13)年に布告された刑法です(注2)。この刑法の施行日は1882(明治15年)1月からです。
 また、同事件に適用された刑事手続法は治罪法です(注3)。治罪法というネーミングは今となっては馴染みがないですが、フランス治罪法の影響を受けて制定されたものです。現代では刑事訴訟法に相当しますが、裁判所の構成についても規定していました。治罪法も明治13年刑法と同じく1882(明治15年)1月から施行されております。
 加波山事件が起きたのは、これらの法律が施行されてから3年目のことでした。
(注1)以下、本項の記載は新井勉外『ブリッジブック近代日本司法制度史』(信山社、2011年)に依拠しています。
(注2)明治13年第36号布告。明治13年刑法や旧刑法といわれます。
(注3)明治13年第37号布告。

(千葉重罪裁判所)
 富松正安に対する一審判決は、『日本政治裁判史録明治後』(注4)に収録されています。
 一審の審理及び判決言渡しは、千葉重罪裁判所でなされています。「重罪裁判所」というのは、当時の独特の制度です。
 治罪法により裁判所の種類は以下のようになりました。
・治安裁判所←現代の簡易裁判所相当
・始審裁判所←現代の地方裁判所相当
・控訴裁判所←現代の高等裁判所相当
・大審院←現代の最高裁相当
 これとは別に、重罪裁判所と高等法院がありました。重罪裁判所は、控訴裁判所又は始審裁判所で重罪事件を裁判するもので、フランス治罪法の影響を受けて規定されたものです(注5)。
 重罪裁判所の判決は、控訴裁判所に控訴をすることはできず、大審院に上告することのみ許されていました。現在は三審制といって、3回審理を受ける機会がありますが、当時の重罪事件では2回しか審理を受ける機会がなかったのです。富松が一審判決を受けた後、大審院に上告したのは、このような制度的な理由によります。
(注4)我妻栄他『日本政治裁判史録明治後』(第一法規、1980年)
(注5)フランスでは「重罪院」と呼ばれています。常設ではなく、臨時に構成されるます。裁判長1名(司法大臣が任命)、陪席判事2名(控訴院長が任命)、陪審員12名が裁判体を構成する。重罪院は一審かつ終審であり、破棄院への破棄申立てのみ許されていました(前掲『ブリッジブック近代日本司法制度史』154頁)。

(裁判の公開)
 治罪法には裁判の公開が規定されたため、1882(明治15年)1月からは法廷での審理及び判決の言渡しは公開で行われています(同法263条)。富松正安の事件も同様に扱われたものと思われます。

(加波山事件は国事犯とは扱われなかった)
 明治13年刑法は「国事に関する罪」(国事犯)というものを規定しており(同法第2編第2章)、国事犯は高等法院で裁くこととしていました(治罪法83、84条)。
 しかし、その後1883(明治16)年12月に、通常裁判所において裁判をすることができるとの布告がなされています(注6)。
 加波山事件はこの布告に基づいて、通常裁判所(重罪裁判所)で裁判が行われました。
(注6)明治16年12月28日太政官第49号布告。同布告は、自由党員福島事件判決(政府側には不利な判決)を契機としてなされたものです。

(代言人)
 江戸時代、刑事事件に弁護人は認められていませんでした。明治初期もしかり。弁護人選任権が与えられたのは、治罪法の施行(1882=明治15年)によるものでした。この時期は弁護士、弁護人とは呼ばれておらず、「代言人」と呼ばれていました(注7)。 
 重罪事件では代言人を選任するべきことが定められており(治罪法378条2項)、富松正安の事件では板倉中という代言人が選任されました(注8)。
(注7)代言人は1882(明治15年)時点で全国に914人しかおらず、代言人の数がごく少数しかいない県もありました(鹿児島県1名、山口・青森・函館3名)(前掲『ブリッジブック近代日本司法制度史』90頁)。
(注8)「板倉中裁判関係資料-加波山事件書類」(茂原市立図書館『茂原の古文書史料集』1999年)

(予審)
当時は予審制度がありました。予審制度は、公判前に予審判事が必要な事項を取り調べ、事件を公判に付するか否かを決める手続きであり、治罪法で初めて規定され、
現行刑事訴訟法の施行(1949年1月1日)により廃止となるまで存続していました。 #加波山事件
 富松の予審は千葉軽罪裁判所で行われています。予審終結言渡しがなされたのは、1885(明治18)年3月16日です(注9)。同月18日には予審故障趣意書が提出されています。 

 (注9)前掲『日本政治裁判史録明治後』51頁。なお、富松への予審終結言渡しは、他の被告人との関係で行われていた東京、栃木、甲府の各裁判所での予審と同時に言渡されました。

(富松正安の審理にあたった裁判官)
 千葉軽罪裁判所で予審にあたったのは、岩倉重武判事補です(注10)。
 また、富松正安を千葉重罪裁判所で審理し、一審判決を言渡した裁判官は、裁判長が河村幸雄判事、陪席が安藤守忠判事補及び鈴木一判事補です。裁判官3人の合議であったことが分かります。
 重罪裁判所は、治罪法では5人の裁判官の合議制と定められていますが(73条)、施行前の布告により、3人の合議制とされていました(注11)。本件の判決書からもこの布告どおり3人の裁判官で審理、判決が行われています(注12)。

(注10)岩倉重武判事補の名は、富松正安の予審調書により確認できます。前掲「板倉中裁判関係資料-加波山事件書類」
(注11)前掲『日本政治裁判史録明治後』に一審判決が収録されています。
(注12)明治14年9月20日太政官第46号布告

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