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伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、提出(寛政12年12月21日)

2022年12月21日 | 伊能忠敬測量日記
#伊能忠敬測量日記 より
寛政12年12月21日(1800年)
伊能忠敬、江戸から蝦夷地の地図を作成し、御勘定所坂本傅之助に渡す。大絵図21枚及び小絵図1枚は高橋至時に届けるために浅草の天文台に持って行かせた。同絵図は、天文方高橋至時から若年寄堀田摂津守に直々に渡されるからである。

(絵図作成の経緯)
 伊能忠敬測量隊は10月21日に江戸に着き、その後所用をこなしていましたが、11月初めから図面の作成にとりかかりました。
 12月20日に図面をしあげ、21日に御勘定所に提出。天文方高橋至時が若年寄堀田摂津守に直々に渡すための絵図も、同日に浅草天文所にもっていかせています。
 伊能忠敬測量日記の該当箇所には次のように書かれています。
<蝦夷地から日本の地図の作成に11月初めから昼夜取りかかった。津宮の久保木太郎右衛門、門倉隼太、平山郡蔵、栄などが手伝ってくれた。ようやく12月20日ころまでに出来上がり、21日に御勘定書に持参して、坂本傅之助に渡した。
 大絵図21枚(11枚は日本で、10枚は蝦夷地)及び小絵図1枚(日本から蝦夷を合わせた図で大絵図の十分の一)は、高橋先生から堀田摂津守にお揚げになるというので、21日に浅草(の天文所)へ遣わした。>

(コメント)
 伊能忠敬は10月21日に江戸に戻ってから、のんびりする間もなく地図作成に取りかかっています。
作成は「昼夜」にわたり、1ヶ月半ほどで大絵図21枚、小絵図1枚を作成していますから、かなりの突貫作業であったと思われます。
図面作成を手伝った人の名前が記されています。
・津宮の久保木太郎右衛門:久保木清淵(くぼき せいえん;1762年~1829年)のことではないかと思います。津宮村(香取市津宮)は佐原村の近隣の村です。
・門倉隼太:伊能忠敬と共に蝦夷地測量に同行したメンバーの一人。高橋至時の弟子なので、忠敬とは兄弟子、弟弟子の関係になります。蝦夷地測量隊のメンバーは、伊能忠敬以外に4名いますが、その中では唯一地図作成に加わっています。
・平山郡蔵:伊能忠敬の親戚。平山群蔵の弟の平山宗平が蝦夷地測量に同行したメンバーでした。地図作成には兄の平山郡蔵が参加しました。郡蔵は第2次測量からは測量メンバーの一人となっています。
・栄:伊能忠敬の四番目の妻。長年にわたり謎の人物とされてきましたが、1990年代に女流漢詩人大崎栄であることが研究により判明しました。


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