南斗屋のブログ

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森長英三郎弁護士と1930年代の弁護士

2021年04月26日 | 歴史を振り返る
森長英三郎(1906年1月10日 - 1983年6月1日)は、日本の弁護士。
 その経歴は
「1936年、弁護士登録。治安維持法違反事件を担当、戦後は自由法曹団に参加、労働事件を担当。三島由紀夫「宴のあと」訴訟でプライバシー権を提起、大逆事件の再審請求も担当。」
と書かれている(ウィキペディア)。
 ウィキペディアによるこの経歴では、戦前、戦後直後の著名事件について触れられていないのであるが、当時の森長の訃報記事では、森長が担当した事件を「戦前は宮本顕治共産党議長のスパイ査問事件の弁護人を務めたほか、戦後はプラカード事件など著名な事件を担当」と紹介されている。

 森長の大逆事件の再審請求をとりあげたのが、田中伸尚著「一粒の麦死してー弁護士森長英三郎の『大逆事件』」(岩波書店)である。田中伸尚は、ノンフィクション作家であり、大逆事件に関する著作が複数ある。本作は、大逆事件に関する連作の第4作とされている。
 
 この本の中に当時の弁護士の状況が、少し書かれている。
 1936年当時、弁護士数は6000人弱であったようである。1912年までは弁護士数は2000人前後で、1923年の弁護士法改正により弁護士が大幅に増員となった。 また、昭和恐慌による不況により弁護士もさらされ、弁護士の経営は楽ではなかた。
 森長は弁護士登録当初、今の言葉で言えばイソ弁ーいや軒弁かもしれないとして事務所に籍を置かせてもらおうと、つてをたどって事務所回りをするのだが、なかなか雇ってもらえない。そこで、これも今の言葉だが、即独、すなわち登録したと同時に独立をして一人で弁護士活動を行っていくのである。
 森長の弁護士登録時は修習がなかった時代である。修習が義務化されたのは、1936年4月からで、当時の修習期間は1年6ヶ月で無給というのも、なかなかに大変だが、修習も受けずに、いきなり即独するのもこれまた大変である。
 
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