リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

やっと一大決心をした

2021年06月11日 | 日々の風の吹くまま
6月10日(木曜日)。☁☂☀☁。朝、起きたらちょっとだけ暖房が入っていた。何でも3、4日前の気温は6月としてはほぼ10年ぶりの低さだったんだそうで、公式の夏の始まりまであと10日ほどだってのに、コロナで世界の気候が狂ったわけじゃないだろうとは思うけど、夏、ちゃんと来るのかな。どこも行けないんだからどうでもいいやと思ってたけど、7月になれば劇場の灯が点り、家族や友だちと会えるとなれば、話はまったく別。

いつものごとく、仕事が終わって遊びモードにギアを入れ替えるのがすんなり行かなくてうろうろ。でも、だらだらしていると何となく気が急くような感じがするからいけないな。巣ごもりしているうちに、今「woke」を自認する若いリベラルの言動に偽善を感じたり、世間に吹き荒れている「cancel culture」にヘイトやいじめに通じるものを感じて背筋が寒くなったりして、今はワタシが書きたい芝居はお呼びじゃないという気がしていたところ。ワタシが「アジア人女性」であるというカードを切れば、世に出るチャンスはあると思う。でも、ワタシは同調集団に取り込まれたくない気持が強くて、最近のLGBTとかBIPOC(白人に対抗する、黒人、先住民、有色人種をひっくるめた集団)という呼称に見え隠れする「us versus them」(我ら対彼ら)のメンタリティに拒絶反応を感じてしまって、そのとっときの切り札を利用することには嫌悪感さえ持ってしまうから、詰まるところは走り去るバスを見送っているようなものかな。

でも、マーク・サカモトの『Forgiveness』をぼちぼちと読んでいるうちに、「創作」が必ずしも芝居でなければならない理由はないじゃないかと、はたと思い当たって、何だかやっと吹っ切れた気分。家の近くのカレッジでいわゆる成人学級の文芸コースに通い始めたのは、燃え尽きた自分を何とか立て直そうとしていた頃で、ちょうど20年前のこと。最初に取ったのがたまたま自分の心の奥に立ち入って心象風景を書き出す心理療法的な講座で、そこで長い間閉じ込められていた創作意欲が目を覚まし、その後、短編小説(2回)、長編小説、映画脚本、劇作(2回)と続けて行って、芝居のおもしろさに誘われて劇作こそ我が道とばかりに、(せりふを暗記するのが苦手だったので)即興演劇の講座を3回。そうなんだ、あのとき先生に見込みがあると言われた短編小説をまた書けばいいんだ。

コロナで巣ごもりしている間に、貴重な人生の1年を無駄にしたような気がしていたけど、自分なりにいろいろと考えていたからこそ、ちょっぴり情緒不安定なときがあったりしたんだろうな。まずは、ずっと書きかけのままの4本の脚本の糸をほぐして、いくつかの短編小説に編み直してみよう。公園のベンチで「青年」と「老人」が語り合うデジタル対アナログの世界観。人間観察が趣味の老犬Puddlesのつぶやき。「マンションあるある」的な騒動記。フランス革命その後を背景にした「時代の寵児」ベートーベンと「過去の人」モーツァルトの対話。何だかあるテーマが見える気もするな。『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし』。鴨長明には無常観の表現であっても、ワタシにとっては「未来へと前進あるのみ」というメッセージ。大空を行く雲のように・・・。