リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

することがないなら何もしなくてもいいじゃないの

2021年05月31日 | 日々の風の吹くまま
5月30日(日曜日)。☁☁☀。ぱっとしない天気だけど、寒くない(暑くもない)のは大いにけっこう。何にもしなくてもいい日はほんとに何にもしなくてもいいんだよねと自分に言い聞かせて、それが我が家の「普通の日常」なんだと自分で納得。リフォーム中の3ヵ月半はあっという間だったような気がするけど、長かったなあという気もして、コロナの1年のおかげで、時間の流れの感覚がすっかりあやふやになってしまっているような感じ。ワタシとしては刺激的で楽しかった「思い出」の時間ということになりそうだけどね。

きのう(義)弟のデイヴィッドと3人で電話でおしゃべりしていて、先々週生まれた孫にまだ対面できていないという話から、デイヴィッドが「1年という貴重な時間を無くしたような気がする」と言って、そうそう、ワタシもそう感じていたの。人生の残り時間が砂時計のように減って行くシニア世代にとっては、社会人の第1線を退いて、これからは自分の時間を楽しもうというときに、コロナで外食に行けず、旅行に行けず、家族に会いに行くこともできない、望まない巣ごもりを1年以上も強いられて来たわけで、終点が見えている人生から貴重な時間を奪われたようなものだと思う。時間は前にしか進まないから、失われた時間は取り戻す術もない人生の空白。古希を過ぎれば、それまでいろいろな制約でしたくてもできなかったことを楽しめる時間があとどれだけ残っているのか考えざるを得ないのに、あと10年、20年とだとしたら、コロナが残した「1年の空白」はまさに「奪われた時間」。

コロナ下での行動規制が徐々に解かれる見通しが立って来たところで、この1年にできなかったことがだんだんできるようになるわけで、あれもこれもやりたくて前のめりになってしまうのが人間というものなんだろうな。でも、それはたぶん空白の時間が残して行った「心の空白」が見えているうちだけじゃないのかな。何もすることがないから何もやらないとか、することはあるけど敢えてやらない、あるいはやりたくないからやらないというのは、「普通の日常」という時間がそういう選択肢を与えてくれているからできることで、「やらせてもらえない」とできないことをとにかくやりたくてたまらなくなり、やるかやらないかの選択肢が与えられれば、今度はついつい自分にとって一番楽な選択に流れてしまうのも、これまた人間というものなんだと思う。

まあ、「やるべきこと」がたくさんあるのと、「やりたいこと」がたくさんあるのとでは、選択上の判断にも大きな違いがあるだろうし、当然「やれること」と「やれないこと」の仕分けという厄介なプロセスもあるし、大きなはしけを引いてフレーザー川を下っていく小さなタグボートを眺めながら、はてさて・・・。