露の玉垣シリーズの第3作。
清冽な武士の姿を描く、というシリーズである。
乙川優三郎については、これまで敬遠してきたのであった。
その理由は、なんだか「軟弱そう」だからである。
その印象は、乙川優三郎、という名前と、挿絵、そして説明というか惹句である。
それだけでこれまで読まないでいた。
しかし、6月号より始まった「露の玉垣」シリーズを読んでみたら、ちょいと印象が変わった。
第1話で「これはいいかな」と思って、第2話で「ちょっとなあ」となり、今回第3話を読んだら「これはいい」と思った。
第3話は「自分は、たぶん侍よりも百姓の血が濃い」と思っている男の話である。
遠藤吉右衛門は、新発田藩の百姓の4男に生まれた。百姓といっても先祖は上杉景勝のころからの地侍である。
従って、百姓と侍のつまり侍としての兵法と学問そして百姓としての耕作を学んだ。
彼が13歳のとき武家奉公にだされ下僕となり、7年後には帯刀を許され若党になった。
主の久保田新五左衛門は学問を学ぶことに寛容で、吉右衛門に蔵書を写すように仕向け学ばせた。
そして、庭に畑を作らせた。
「おまえは野に出て働き、鋤鍬を手に学問をするのがよいかもしれんな」
といっていた、新五左衛門が亡くなると、吉右衛門はお先手の足軽に召しだされた。
それから22年たち、足軽は代官となった。しかし、仕事という仕事はなく、それゆえに念願の畑仕事に精を出している。
「遠藤さまは庄屋になるべきです、きっと御代官より似合うでしょう」「・・・百姓は自分たちのことを案じてくれる人の言葉を信じます・・・」
などといわれ、吉右衛門は、代官になっても百姓半分の中身を自覚している。
そうして、吉右衛門は新五左衛門の嫡男の竹右衛門に嫁いできて離縁されていった「橘(きつ)」を思い出し、見舞いに行く。
事件があるわけでもなく謎があるわけでもないが、身の程に生きるということが波乱万丈に生きることより実は難しく幸せなんではなかろうか、ということを感じさせてくれる。
明るいわけではないが、冬の薄日のような暖かさが感じられる物語であった。
清冽な武士の姿を描く、というシリーズである。
乙川優三郎については、これまで敬遠してきたのであった。
その理由は、なんだか「軟弱そう」だからである。
その印象は、乙川優三郎、という名前と、挿絵、そして説明というか惹句である。
それだけでこれまで読まないでいた。
しかし、6月号より始まった「露の玉垣」シリーズを読んでみたら、ちょいと印象が変わった。
第1話で「これはいいかな」と思って、第2話で「ちょっとなあ」となり、今回第3話を読んだら「これはいい」と思った。
第3話は「自分は、たぶん侍よりも百姓の血が濃い」と思っている男の話である。
遠藤吉右衛門は、新発田藩の百姓の4男に生まれた。百姓といっても先祖は上杉景勝のころからの地侍である。
従って、百姓と侍のつまり侍としての兵法と学問そして百姓としての耕作を学んだ。
彼が13歳のとき武家奉公にだされ下僕となり、7年後には帯刀を許され若党になった。
主の久保田新五左衛門は学問を学ぶことに寛容で、吉右衛門に蔵書を写すように仕向け学ばせた。
そして、庭に畑を作らせた。
「おまえは野に出て働き、鋤鍬を手に学問をするのがよいかもしれんな」
といっていた、新五左衛門が亡くなると、吉右衛門はお先手の足軽に召しだされた。
それから22年たち、足軽は代官となった。しかし、仕事という仕事はなく、それゆえに念願の畑仕事に精を出している。
「遠藤さまは庄屋になるべきです、きっと御代官より似合うでしょう」「・・・百姓は自分たちのことを案じてくれる人の言葉を信じます・・・」
などといわれ、吉右衛門は、代官になっても百姓半分の中身を自覚している。
そうして、吉右衛門は新五左衛門の嫡男の竹右衛門に嫁いできて離縁されていった「橘(きつ)」を思い出し、見舞いに行く。
事件があるわけでもなく謎があるわけでもないが、身の程に生きるということが波乱万丈に生きることより実は難しく幸せなんではなかろうか、ということを感じさせてくれる。
明るいわけではないが、冬の薄日のような暖かさが感じられる物語であった。
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