近頃本を読むのに気分が違ってきている。
「気分」といっていいのか、と思うが、そんなカンジなのである。
つまり、何かを読んでいて「何かを得よう」という気分が底にある。それに気づくと自分で自分が「いらやしく」なってしまう。
若い時分には「ただ読む」だけでよかった。本を読んで何かを得ようなんて思ってもいなかった。面白ければよかった。そして面白ければ何回も読んだ。
それが今は・・・堕落したなあと思うのである。
さて「世に棲む日日」である。
コレを若いときに読んでいたら「人生観」が違っていたんだろうなあ、と思った。
「竜馬が行く」を読んだときにも思ったのだが、坂本竜馬と高杉晋作に影響を受けていたら、どうなったいたんだろう。
何かを「ぶっ壊す」或いは「自分中心」という考え方でいても、高杉晋作や坂本竜馬は魅力的だよなあ。
それなのに若い頃読んで憧れたのは、勝海舟と土方歳三だものなあ。
それはそれでいいんだけれど、今となってみると、高杉晋作や坂本竜馬もいいかなあと・・・
「世に棲む日日」は前半が<吉田松陰>が後半は<高杉晋作>が主人公である。
吉田松陰は純粋な「思想家」であり、高杉晋作は松蔭の弟子であってその思想を具現化する「現実家」である。
吉田松陰の魅力は、自らの思想を実現しようとするのに、徹底して「純粋」であり「技」を使わないことである。これって、現実的能力の欠如であるように思うのだが「思想家」はそうでなければならないと思う。
つまり、自らの考えや目的を実現するためには自らの考えや目的に反した手段をとってはならない、という「生きかた」である。
だからこそ美しい。
しかし、その行動は成功しない。成功しないから美しい。そしてだからこそその思想の高尚さが更に際立つ、のだと思う。
それに反して、高杉晋作は目的を果たすためには「手段」を選ばない。
手段を選ばないのに高杉晋作も美しい。
それは、彼が権力とか金に執着しなかったことによる、そしてそのことは「生まれと育ち」による。
で、現実的にはどちらとも「おつきあい」はしたくない。
どっちも「大変な人」だなあ、と思う。
そして、彼らの周りにいる「非天才」たちのほうに眼が行ったりして「こんなヤツいるよなあ」なんて思ったりする。
高杉晋作たちが長州藩の革命に成功したとき、彼らに味方についたのは「中間派」であった。
このくだりで、突如として読書の世界から現実に戻ったりした。
このあたりが、若い頃の読書と違うところである。
『そうなんだよな。こういうやつらが結局得したりしてんだよなあ』
と、ガッカリなんかして・・・
幕末期の長州というのはキライ、薩摩がスキ、というのが、コレまでの考え方であったが、40歳をすぎた頃から、長州のほうが理屈っぽいけれどわりと正直で扱いやすく、薩摩のほうが男っぽさを売りにして真っすぐのようだけど実はウラがあって扱いにくい、のではないかと思うようになってきた。
今回、この小説を読んで薩摩はどうあれ長州の正直さがわかってきた。
これまで、いわれなき嫌悪感があったのだが、なんとなく長州もいいかな、と思うようになり、防長を旅してみることもこれからの選択に入れてみようと思っているのである。
「気分」といっていいのか、と思うが、そんなカンジなのである。
つまり、何かを読んでいて「何かを得よう」という気分が底にある。それに気づくと自分で自分が「いらやしく」なってしまう。
若い時分には「ただ読む」だけでよかった。本を読んで何かを得ようなんて思ってもいなかった。面白ければよかった。そして面白ければ何回も読んだ。
それが今は・・・堕落したなあと思うのである。
さて「世に棲む日日」である。
コレを若いときに読んでいたら「人生観」が違っていたんだろうなあ、と思った。
「竜馬が行く」を読んだときにも思ったのだが、坂本竜馬と高杉晋作に影響を受けていたら、どうなったいたんだろう。
何かを「ぶっ壊す」或いは「自分中心」という考え方でいても、高杉晋作や坂本竜馬は魅力的だよなあ。
それなのに若い頃読んで憧れたのは、勝海舟と土方歳三だものなあ。
それはそれでいいんだけれど、今となってみると、高杉晋作や坂本竜馬もいいかなあと・・・
「世に棲む日日」は前半が<吉田松陰>が後半は<高杉晋作>が主人公である。
吉田松陰は純粋な「思想家」であり、高杉晋作は松蔭の弟子であってその思想を具現化する「現実家」である。
吉田松陰の魅力は、自らの思想を実現しようとするのに、徹底して「純粋」であり「技」を使わないことである。これって、現実的能力の欠如であるように思うのだが「思想家」はそうでなければならないと思う。
つまり、自らの考えや目的を実現するためには自らの考えや目的に反した手段をとってはならない、という「生きかた」である。
だからこそ美しい。
しかし、その行動は成功しない。成功しないから美しい。そしてだからこそその思想の高尚さが更に際立つ、のだと思う。
それに反して、高杉晋作は目的を果たすためには「手段」を選ばない。
手段を選ばないのに高杉晋作も美しい。
それは、彼が権力とか金に執着しなかったことによる、そしてそのことは「生まれと育ち」による。
で、現実的にはどちらとも「おつきあい」はしたくない。
どっちも「大変な人」だなあ、と思う。
そして、彼らの周りにいる「非天才」たちのほうに眼が行ったりして「こんなヤツいるよなあ」なんて思ったりする。
高杉晋作たちが長州藩の革命に成功したとき、彼らに味方についたのは「中間派」であった。
このくだりで、突如として読書の世界から現実に戻ったりした。
このあたりが、若い頃の読書と違うところである。
『そうなんだよな。こういうやつらが結局得したりしてんだよなあ』
と、ガッカリなんかして・・・
幕末期の長州というのはキライ、薩摩がスキ、というのが、コレまでの考え方であったが、40歳をすぎた頃から、長州のほうが理屈っぽいけれどわりと正直で扱いやすく、薩摩のほうが男っぽさを売りにして真っすぐのようだけど実はウラがあって扱いにくい、のではないかと思うようになってきた。
今回、この小説を読んで薩摩はどうあれ長州の正直さがわかってきた。
これまで、いわれなき嫌悪感があったのだが、なんとなく長州もいいかな、と思うようになり、防長を旅してみることもこれからの選択に入れてみようと思っているのである。