尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ジュリアン」、フランスのDVを描く

2019年02月08日 22時23分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 フランス映画「ジュリアン」は、日本で言えば家庭裁判所みたいな場所で親権を争う元夫婦のシーンから始まる。母のミリアムは、二人の子どもと暮らしている。姉のジョゼフィーヌは18歳を超えているので、自分で決めていい。弟のジュリアンは11歳なので、父のアントワーヌ共同親権と面会権を求めている。ジュリアンは会いたくないと手紙を書いているんだけど、双方が弁護士を立てて言い分を主張する。裁判官は決定を一週間後に送ると言って終わる。

 日本だったら「母親の親権」になるんじゃないかと思う。離婚の理由がDVらしいし、子どもも会いたくないと言っている。日本でも「共同親権」の方がいいという意見もあるし、父親が子供に会いたいのは理解できる。映画を見ていると、次のシーンでアントワーヌがジュリアンに会いに来るので、面会が認められたことが判る。その理由は示されないが、はっきりとした暴力、傷害などが認められない段階では、多分フランスでは普通の判断なのではないかと思う。

 文字だけで読む時、つまり新聞記事や小説等で「暴力」「虐待」を読む場合、事案の真相がよく判らないことも多い。でも映画だと、まあフィクションではあるけれど、現実の人間の様子を観客が「解釈」できる。僕はチラシやポスターでジュリアンの顔を見て、これはなんなんだろうと思った。やっぱり本当に父と会うのを嫌がっている顔としか思えない。実際に面会の場面を見ると、暴力を振るわれるわけではないけど、言葉で問い詰められていってとてもつらい。

 ミリアムと子どもたちは住所も変えて、それをアントワーヌには教えない。(面会の時は親の家を利用する。)しかし、そのことに気付いた父はジュリアンを執拗に問い詰める。その様子が非常にリアルで怖い。学校での「指導」の場合もそうだけど、実際の暴力を伴わない場合でも、言葉で追い詰めていくことがもっと怖いこともあると思う。アントワーヌの方も親元に戻っていて、ジュリアンは父方の祖父母と食事したりする。そこでもアントワーヌが激高してしまい、親子ケンカになる。アントワーヌ本人にも問題があるが、その成育歴にも問題があったように思う。

 ラスト、驚くような「暴発」が待っているが、そこはあえて書かない。今後どうなるか、気になる。ジュリアンを通して描くので、そもそも父母はどうして結婚したのか、父の内面はどうなっているのかなどは語られない。そのためサスペンス映画みたいな展開になる。演出力は確かだが、事態の全体像を見せてくれるわけではない。脚本、監督はグザヴィエ・ルドラン(1979~)という新人監督で、これが初の長編。2017年のヴェネツィア映画祭銀獅子賞(監督賞)を受賞した。(この年のヴェネツィアは大豊作で、「スリー・ビルボード」が脚本賞、「判決、ふたつの希望」が男優賞だった。僕の評価では「ジュリアン」が両作より上なのは過大評価ではないか。) 

 外国映画でもDV(家庭内暴力)や児童虐待の映画が多くなったと思う。日本でも現実の事件として、毎年のように悲劇的なニュースが届く。虐待やDVは増えているのだろうか。それは精神疾患や発達障害の場合にも言えるが、実際に増えているという説と、社会的なアンテナが敏感になったため多く認知されているという説があると思う。どちらもあり得るだろうが、現在のような「グローバル化」「情報社会化」が進み、地域社会や会社、職能団体、労働組合などの包摂力が落ちている社会では、「家庭」が直接「世界」に向き合ってしまう

 「父が家族を守る」という価値観を保つ男性は、自分より弱い存在の妻や子どもを押さえつける。それが「外向的父親」の場合で、「内向的父親」の場合は自殺や失踪などになる。家庭崩壊の両極に狭間に、多くの破たんを抱えながら何とか続いている家庭がある。そう考えると、世界のあり方が大きく変わらない限り、DVや虐待は大きな問題であり続ける可能性が高いと思う。
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