尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ベルイマン監督の映画-映画芸術の極北

2019年02月14日 22時55分44秒 |  〃 (世界の映画監督)
 スウェーデンの映画監督、イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman、1918.7.14~2007.7.30)は2018年に生誕百年を迎え、日本でも大規模な特集上映が行われた。東京では恵比寿ガーデンシネマだったので、真夏で駅から遠く2作見ただけ。数年前に「三大傑作選」と称して「第七の封印」「野いちご」「処女の泉」のデジタル版が上映された。最近、池袋の新文芸坐で特集があり数作品を見直した。もともと若いころにほとんど見ているんだけど、改めて見ると考え方も変わる。上映素材があるんだから、またどこかで上映もあるだろう。まとめて感想を書いておきたい。
 (ベルイマン監督) 
 ベルイマンにはいくつもの大傑作があり、映画史上のトップ10に入るような映画監督だ。特に初期の「野いちご」「処女の泉」は改めて「ほとんど完璧な映画」だと思った。僕が最初に見たベルイマン映画は多分「野いちご」(1957)。ATGで不入りの映画があって、過去の名作上映に切り替わった時に見たと思う。長年の功績に対し名誉学位を受ける老人が、ストックホルムから車でルンドまで向かう。その一日を息子の妻や途中で会った若者たちなどを通して描く。夢のシーンなどシュールレアリスム的な描写も印象的。思えばまだ30代で「老い」に関する映画をよく作れたものだ。たった91分なんだけど、もすごく豊饒な映画体験に浸れる。1962年キネ旬ベストワン
 (野いちご)
 日本公開が逆になったけど、「処女の泉」(1960)も驚くような強さを持つ映画。黒澤明「羅生門」の影響があるというが、中世を舞台にするモノクロ映画という共通点はあるが「処女の泉」はもっと雄渾で神話的な映画だと思う。近代以前の「自力救済」の世の中を生きる人々を圧倒的な力強さで描いている。1961年キネ旬ベストワン。その前の「第七の封印」(1957)は、これも中世を舞台に十字軍から帰る騎士が死神と命を懸けたチェスをする。およそ今までの映画でテーマとされたことのないような「哲学的映画」だった。今回は見る時間がなかったんだけど、文句のつけようのない完成度の「野いちご」「処女の泉」に比べて、多少判りにくい点も逆に面白くて魅力的だと思う。
 (処女の泉)
 そういう難しい映画を作ったベルイマン監督だけど、最初からそんな傑作は撮れない。初期にはスウェーデン映画に多い、リアリズムをもとにユーモアや社会性を加えた青春映画をたくさん作っていた。今回初公開の「夏の遊び」、昨年映画アーカイブで上映された「牢獄」「道化師の夜」、日本でも公開された(僕は未見)「不良少女モニカ」「愛のレッスン」など。「夏の遊び」(1951)はいかにもスウェーデンらしい風土性と編集の妙、青春のほろ苦さを描いている。98分の映画で、ベルイマンの初期映画はほとんど90分内外。いかに今の映画が「長すぎる」かがよく判る。

 110分ある「夏の夜は三たび微笑む」(1955)は初期には珍しく長い。これはまたユーモアたっぷりの艶笑コメディで、すごく面白い。よく出来ていて、カンヌ映画祭で受賞してベルイマンが世界に知られるきっかけになったという。そういうユーモアは中期には影をひそめるが、本当はベルイマンの本質にあるんだと思う。1982年に作られた畢生の大作「ファニーとアレクサンデル」は311分もあって、今回は体力的に見逃したんだけど、公開時に見たときの記憶は圧倒的だ。ある一族の悲しみと喜びを描きつくしたような至福の映画で、一種の大らかなユーモアがあった。その後、映画はやりつくしたと語り、舞台やオペラ演出に専念する。もともとベルイマン映画は舞台劇的なところがあって、日本でも公開されたモーツァルトの「魔笛」(1975)のテレビ映画も素晴らしかった。

 ベルイマン映画は「映画芸術の極北」だと思ってきた。この「極北」とは「物事が極限にまで達したところ」と言った意味で使っているが、イメージ的に寒い感じがベルイマン映画にはある。舞台がスウェーデンだし、風景は寒々しい。それもあるんだけど、人々が悩み傷つき傷つけあうさまを冷徹に描き出す。そんな映画は他にあるだろうか。僕はフェリーニヴィスコンティのような豊饒さ、時にはゴチャゴチャするぐらい盛りだくさんの映画の方が好きだ。厳しく削り続けるような映画、カール・ドライヤーロベール・ブレッソンなどはそれまでにもあった。でもベルイマンのように、「神の沈黙」をテーマにしたり、家族の憎しみあいを描いた映画監督はいない。

 初めて見た「鏡の中にあるごとく」(1961)は孤島にやってきた家族を見つめる。作家の父は狂気にいたる娘を冷徹の描写するが、なかなかドラマ的で興味深かった。しかし、続く「冬の光」(1962)、「沈黙」(1963)になると、もう付いていけない。昔見たときはもっと熱中できたように思うが、特に「冬の光」など多神教的風土に生きるものとしてはなんでこんなに悩んでいるのとつい思ってしまった。「神の沈黙」三部作と呼び、形而上的なテーマ設定といい、極限まで切り詰められた人物描写といい、今からみれば驚くほどつまらない。ウッディ・アレンなどに多くの影響を与えたが、今じゃもういいんじゃないか。「仮面/ペルソナ」(1968)も同様。

 僕が最初に見た同時代のベルイマン映画は「叫びとささやき」(1972)。これは初のカラー映画で、世界の主要監督では黒澤明「どですかでん」(1970)と並んで最も遅いカラー映画だろう。しかし全編にわたって「」をイメージカラーとして、異様なまでの様式的映像に興奮したものだ。今回久方ぶりに見て、映像以上に姉妹間の愛憎に驚かされた。後期のベルイマン映画は家族の争いを描くものが多い。「ある結婚の風景」(1973)や「秋のソナタ」(1978)などベストテンに入選したが、夫婦、親子間のいさかいをここまで突き詰めては、見ている側も見るのが辛い。人間存在の本質に孤独があるのは確かだが、ここまで傷つけあうかと正直思う。「秋のソナタ」はイングリッド・バーグマンが主演で、確かに見ごたえはある。(今回は上映権切れ。)
 (叫びとささやき)
 まだ見ている映画はあるが、もう大体書いたからいいだろう。イングマール・ベルイマン(そもそもベルイマンじゃなくべリーマンに近いとも言うが。イングリッド・バーグマンと同じ姓だが、バーグマンは英語読み)は確かにすごい芸術家だと思う。見てないと映画史の話ができない監督だ。このようなテーマや作り方があるんだと世界に示した意義は大きい。今見るとつまらないのも多いなと思ったが、60年代には意味があったのだろう。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イ・チャンドン監督「バーニ... | トップ | 「自治体の4割が自衛隊に個人... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

 〃 (世界の映画監督)」カテゴリの最新記事