韓国の巨匠イ・チャンドン監督の8年ぶりの新作「バーニング 劇場版」が公開中。これはNHKが村上春樹の短編をアジア各国で競作する企画の一つだったらしい。「バーニング」は村上春樹の初期短編「納屋を焼く」が基になっている。劇場版と呼ぶのは、テレビ版があるからで、NHKで年末に放映された。僕は少しだけ見ていたんだけど、その時にはイ・チャンドン監督や村上春樹の作品だとは何も知らなかった。テレビ版は95分で、劇場版は148分である。
原作は1984年に刊行された「蛍・納屋を焼く・その他の短編」(新潮社)に収録されている。僕は初版を持っていて、買ってすぐ読んだと思う。もう35年も前になるから細部はすっかり忘れてしまったので、今回読み直してみた。「蛍」は後に「ノルウェイの森」に発展する短編として知られる。一方、「納屋を焼く」はその後長編に書き直されなかった。しかし、村上春樹の短編というのは「世界を切り取った」感じが強く、小説の外にもっと物語が広がっている印象を持つことが多い。
イ・チャンドンは原作を「現代の韓国」に移した他、登場人物の人物設定を変えている。しかし、最大の変更点は後半の展開で、原作が途中で終わっている話の先を描いている。また原作は「納屋を焼く」なのに対し、映画は「ビニールハウスを焼く」になっている。韓国だからか、時代の変化だからか。今の日本でも「納屋」と言われるよりも「ビニールハウス」と言う方が伝わるかもしれない。その「納屋を焼く」ということの象徴的意味は何だろうか。イ・チャンドンがこの映画で描いたのは、それが正しい解釈かどうかは別にして、すごい「深読み」を提示していると思う。
作家を目指している若者イ・ジョンス(ユ・アイン)はある日、町で幼なじみのシン・ヘミ(チョン・ドンソ)に出会う。パントマイムを習っていて、ミカンを食べる動きを見せる。(これは原作にある。)アフリカへ行きたいと行って、その間の猫の世話を頼まれる(が猫は彼には姿を見せない)。突然アフリカから帰ってきて、向こうで知り合ったというベン(スティーヴン・ユァン)と一緒に行動するようになる。ベンは貿易業だというが、非常に裕福らしく家も車も立派である。ジョンスはヘミに「ギャツビーだ」と言うが通じない。「韓国にはギャツビーが多すぎる」。
ある日、近くまで来たと言ってベンとヘミが彼の故郷までやってくる。そこは38度線(軍事境界線)に近く「北」からの放送が聞こえる。ジョンスは父が村の役人に暴れて逮捕されているため、家に戻って牛の世話などをしなければならない。ヘミは昔井戸に落ちたというが、ジョンスは記憶にない。ベンがマリファナのタバコを勧めてくると、ヘミは眠くなってすぐに寝てしまう。その間にベンはジョンスに、自分は時々ビニールハウスを焼くと話す。次のビニールハウスは近くだと。
原作では「僕」は31歳で結婚している。「彼女」は20歳で、どこかの結婚パーティで出会って友だちになった。「僕」はもう小説家になっていて、「彼」と「彼女」を「観察」する。映画ではジョンスとヘミは幼なじみだから年齢も同じ。再会して仲良くなり、性的関係も持つ。だからベンが登場して、ヘミとベンの関係はよく判らないけど(ベンは年長で、妻子もいるらしい)、ジョンスから見れば「三角関係」というか、嫉妬の感情を持つ。彼の家に来た日に、ヘミは裸で踊り、それをジョンスは非難してしまう。以後連絡が取れなくなり、ジョンスはベンを付け回す。サスペンス的な展開になる。
もちろん原作を変えること自体は良くも悪くもない。それが本質的に意味があるかどうかだけである。「バーニング」は原作を現代に移すことで、若い世代の焦燥をあぶりだすことに成功していると思う。映像も美しく、スリリングな展開に目を奪われる。韓国は日本以上に「財閥」が強大で、格差感覚も大きいと思う。そんな社会を背景して、この映画では後半を創作した。それは原作の一つの読み方であるが、僕らにとって「より良い読み方」なのか。ラストは刺激的な展開で心を奪われるが、それが今の我々にとって「良い読み方」なのかは判断が分かれるだろう。
イ・チャンドン(1954~)は、最近は「冬の小鳥」「私の少女」などのプロデューサーなどをして、監督は久しぶり。「グリーン・フィッシュ」「ペパーミント・キャンディ」「オアシス」(ヴェネツィア映画祭銀獅子賞)、「シークレット・サンシャイン」(カンヌ映画祭主演女優賞)、「ポエトリー アグネスの詩」(カンヌ映画祭脚本賞)に続く6作目である。この間ノ・テウ政権で文化観光部長官に就任した。作品数は少ないが、いずれも韓国を舞台に現代社会を鋭く追及する作品ばかりだ。社会性だけでなく、独自の詩情をたたえる作品性の高さが印象的。「バーニング」は最高傑作ではないと思うが、十分刺激的な作品。
(イ・チャンドン監督)
映画に関係ないけど、久しぶりに原作を読み直して、80年代はケータイ(スマホ)がなかったんだなあと改めて思った。「めくらやなぎと眠る女」なんて題名自体が今では無理か。その短編では病院に看病に行って、タバコを食堂で吸えている。新潮社の「新刊案内」がはさまれていたけど、「ユーモアの感性光る青春のドラマをメルヘン世界に転化させた新文学」と紹介されていて驚いた。全然間違っているじゃない。青春メルヘンだと思われていたのか。「納屋を焼く」では主人公が近くの納屋をジョギングして見て回る。この頃から走っていたんだな。
原作は1984年に刊行された「蛍・納屋を焼く・その他の短編」(新潮社)に収録されている。僕は初版を持っていて、買ってすぐ読んだと思う。もう35年も前になるから細部はすっかり忘れてしまったので、今回読み直してみた。「蛍」は後に「ノルウェイの森」に発展する短編として知られる。一方、「納屋を焼く」はその後長編に書き直されなかった。しかし、村上春樹の短編というのは「世界を切り取った」感じが強く、小説の外にもっと物語が広がっている印象を持つことが多い。
イ・チャンドンは原作を「現代の韓国」に移した他、登場人物の人物設定を変えている。しかし、最大の変更点は後半の展開で、原作が途中で終わっている話の先を描いている。また原作は「納屋を焼く」なのに対し、映画は「ビニールハウスを焼く」になっている。韓国だからか、時代の変化だからか。今の日本でも「納屋」と言われるよりも「ビニールハウス」と言う方が伝わるかもしれない。その「納屋を焼く」ということの象徴的意味は何だろうか。イ・チャンドンがこの映画で描いたのは、それが正しい解釈かどうかは別にして、すごい「深読み」を提示していると思う。
作家を目指している若者イ・ジョンス(ユ・アイン)はある日、町で幼なじみのシン・ヘミ(チョン・ドンソ)に出会う。パントマイムを習っていて、ミカンを食べる動きを見せる。(これは原作にある。)アフリカへ行きたいと行って、その間の猫の世話を頼まれる(が猫は彼には姿を見せない)。突然アフリカから帰ってきて、向こうで知り合ったというベン(スティーヴン・ユァン)と一緒に行動するようになる。ベンは貿易業だというが、非常に裕福らしく家も車も立派である。ジョンスはヘミに「ギャツビーだ」と言うが通じない。「韓国にはギャツビーが多すぎる」。
ある日、近くまで来たと言ってベンとヘミが彼の故郷までやってくる。そこは38度線(軍事境界線)に近く「北」からの放送が聞こえる。ジョンスは父が村の役人に暴れて逮捕されているため、家に戻って牛の世話などをしなければならない。ヘミは昔井戸に落ちたというが、ジョンスは記憶にない。ベンがマリファナのタバコを勧めてくると、ヘミは眠くなってすぐに寝てしまう。その間にベンはジョンスに、自分は時々ビニールハウスを焼くと話す。次のビニールハウスは近くだと。
原作では「僕」は31歳で結婚している。「彼女」は20歳で、どこかの結婚パーティで出会って友だちになった。「僕」はもう小説家になっていて、「彼」と「彼女」を「観察」する。映画ではジョンスとヘミは幼なじみだから年齢も同じ。再会して仲良くなり、性的関係も持つ。だからベンが登場して、ヘミとベンの関係はよく判らないけど(ベンは年長で、妻子もいるらしい)、ジョンスから見れば「三角関係」というか、嫉妬の感情を持つ。彼の家に来た日に、ヘミは裸で踊り、それをジョンスは非難してしまう。以後連絡が取れなくなり、ジョンスはベンを付け回す。サスペンス的な展開になる。
もちろん原作を変えること自体は良くも悪くもない。それが本質的に意味があるかどうかだけである。「バーニング」は原作を現代に移すことで、若い世代の焦燥をあぶりだすことに成功していると思う。映像も美しく、スリリングな展開に目を奪われる。韓国は日本以上に「財閥」が強大で、格差感覚も大きいと思う。そんな社会を背景して、この映画では後半を創作した。それは原作の一つの読み方であるが、僕らにとって「より良い読み方」なのか。ラストは刺激的な展開で心を奪われるが、それが今の我々にとって「良い読み方」なのかは判断が分かれるだろう。
イ・チャンドン(1954~)は、最近は「冬の小鳥」「私の少女」などのプロデューサーなどをして、監督は久しぶり。「グリーン・フィッシュ」「ペパーミント・キャンディ」「オアシス」(ヴェネツィア映画祭銀獅子賞)、「シークレット・サンシャイン」(カンヌ映画祭主演女優賞)、「ポエトリー アグネスの詩」(カンヌ映画祭脚本賞)に続く6作目である。この間ノ・テウ政権で文化観光部長官に就任した。作品数は少ないが、いずれも韓国を舞台に現代社会を鋭く追及する作品ばかりだ。社会性だけでなく、独自の詩情をたたえる作品性の高さが印象的。「バーニング」は最高傑作ではないと思うが、十分刺激的な作品。
(イ・チャンドン監督)
映画に関係ないけど、久しぶりに原作を読み直して、80年代はケータイ(スマホ)がなかったんだなあと改めて思った。「めくらやなぎと眠る女」なんて題名自体が今では無理か。その短編では病院に看病に行って、タバコを食堂で吸えている。新潮社の「新刊案内」がはさまれていたけど、「ユーモアの感性光る青春のドラマをメルヘン世界に転化させた新文学」と紹介されていて驚いた。全然間違っているじゃない。青春メルヘンだと思われていたのか。「納屋を焼く」では主人公が近くの納屋をジョギングして見て回る。この頃から走っていたんだな。
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