時々つながる不思議なネット接続、つながってない間にワールドカップは終わってしまった。日本代表に関してはもっと書きたいことがあったが、もういいかな。西日本の集中豪雨に関しては、また後で。まずはオウム真理教の死刑執行の問題点について書きたい。
オウム真理教幹部7名の死刑が執行されてだいぶ経ったけれど、僕にはいくつもの疑問点がある。日本政府は死刑制度存続に固執し、21世紀に入ってからも毎年執行してきた。執行の人数や順番は秘密とされ、誰がいつ執行されるのかはよく判らない。大まかには死刑の確定時期をもとに、再審、恩赦の請求の有無などによって判断されるが、今までにもまだ順番にならないはずの死刑囚が執行されたことも多い。
その意味では、今回のオウム真理教の場合も、一般的な日本政府の「死刑執行に関しては秘密にする」方針から外れているわけじゃない。だから「疑問」なんてないという考え方もあるだろう。単に共犯者の裁判が終わって順番が来ただけだと。だが、7名もの大量執行の人数はどうして決まったのか。麻原彰晃(松本智津夫)の遺体はなぜ拘置所側が火葬したのか。当日朝の大々的な報道ぶり(僕は見てないが)は何故可能になったのか。それらは僕にとって疑問である。
死刑の執行命令は7月3日(火)に上川陽子法相が署名した。実際の執行は6日(金)で、その前日夜に「自民党酒場」が開かれていた。5日夜から西日本の集中豪雨が激しくなっていて、(麻原処刑後の)6日から各地で大きな被害を出した。そんなときに「宴会」かと批判されているが、この席に上川法相が出席していた。それも普通だったら、死刑執行を命じている最中に宴席に出るだろうかと思う。部下が明日の死刑執行を控えているんだから、上司が飲んでる場合じゃないだろう。
オウム真理教事件は普通、「狂信的なカルト宗教によるテロ事件」と思われている。それに間違いないけれど、オウムの主観ではちょっと違うんじゃないか。普通のテロ事件の場合、「自分でもテロと判っている」。2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ」の場合、実行犯は自分も死ぬことが判っていた。だから、その事件がどういう結果をもたらすかは、後に残る仲間に託す問題である。自分がアメリカ大統領になって世界を変えるつもりなど最初からないわけである。
一方、オウム真理教の場合、あまりにもチャチで拙劣な団体だったから、誰も本気にはしなかったけれど、日本政府に戦争を仕掛けているという意識だったのではないか。だから「自爆テロ」はしない。自分たちは国家に準じた組織を持ち、既成の日本政府にとって代わる存在なのだから。もともとオウム事件は「内乱罪」で裁くべきなのではないかという主張があった。麻原彰晃の主観にあっては、それは確かに「内乱」だったのかもしれない。日本政府もそれを判っていて、一種の「国事犯」と考えたのではないだろうか。
現在の日本の憲法では、特別法廷は作れない。オウムも「単なる殺人犯」以上のものではなく、現行の法体系のもとで死刑判決を受けた。だが当時はオウム信徒は何か理由を付けて「微罪逮捕」された。日本は事実上の「緊急事態宣言」のもとにあった。当時を知る人なら、そもそもそれを覚えているだろう。だから、事実上の「オウム特別法廷」で裁かれたとも言える。そこでは事前に決められていたかのように、地下鉄サリン事件実行犯は死刑、送迎役は無期懲役になっている。刑事責任上、それは当然とも見えるけれど、何だかどこかで基準があったような気もする。
そういうことを考え合わせてみると、今回の死刑執行の疑問が解けてくる。これは一種の「内乱勝利宣言」だったのではないか。だから事前に執行をリークして、一部のテレビは刑務官が出勤してくるところを映像で撮影した。そんなことは事前に知らなきゃできない。そして麻原執行をいつもの死刑執行よりずっと早くリークして、大々的な報道を可能にした。執行されたのが7人だったというのは、たまたま幹部級の数だったという以上に、「極東軍事裁判」(東京裁判)の死刑執行数を意識していたのではないかと思う。占領下の戦犯裁判の「屈辱」を晴らすことを念願とする安倍政権だから、きっと同数の処刑を考えたのではないか。
麻原彰晃(松本智津夫)の遺体をめぐる問題はもっと深刻である。拘置所側は4女へ渡すという「遺志」があったとする。でもこの4女は昨年、家裁に父との相続関係を断つ申し立てを行い認められた。相続は「財産」「負債」だけではなく、遺体(遺骨)、遺品も「相続」者が受け継ぐべきものだ。死者の財産を受け継ぐ代わりに、葬祭も担当するのが普通だろう。だから相続権を放棄した人には、もともと遺体、遺骨の引き取り資格はないはずだ。他に遺族がないのならともかく、引き取りを申し出ている他の遺族がいるにもかかわらず、拘置所側で火葬したのは何故か。
それが「故人の遺志」だということになっているが、拘置所側の説明はあいまいだ。口頭で表示があったというが、後々揉めないためには書面による指示が必要だったと思う。それは可能なはずだ。「心神喪失」状態なら死刑は執行できないんだから、執行時は心身喪失じゃなかった。だったら書面で指示できるはずだ。僕が想像するには、多分麻原彰晃は執行時にはっきりとした意思を明かさなかったのではないか。拘置所側が4女でいいかと問いかけ、はっきりしないまま「いいんだな」となったのかもしれない。
麻原が自覚して4女を指定したとは考えにくい。相続を断った子どもに遺体を渡すとは普通理解できない。拘置所側が「誘導」しないとそうはならないと思う。そう思われないためには、本人の自筆の書面さえあればいい。心身喪失じゃないんだったら、可能なはずである。でもそれはないというなら、逆に考えて「心神喪失」状態にあったと疑われても仕方ない。4女指定という中に、僕は心神喪失状態の死刑囚を無理やり執行してしまったという事態を想定してしまう。
その結果、「麻原遺体の神格化を避ける」の名目で、4女側が遺骨を海に散骨すると言われている。遺骨の「奪還」「襲撃」が予想されるとして、国家がやってくれと弁護士が要請している。これはまずいんじゃないか。それでは「国葬」である。引き取りたいという遺族がいたら、引き渡せば良かったのではないかと思う。それが神格化に利用されたとしても、そのことが「可視化」された方がいい。見えない「伝説」になるより、ずっといいと思う。
「日本国対オウム真理教」の戦争だったら、当然のことだが僕は日本国の側に立っている。しかし、その日本国が現行の法規を守らないで、無理やり死刑を執行したように思える。それでは「法治」ではなくなる。安倍政権はいろいろな場面で「立憲主義」「法治主義」をないがしろにしてきた。また原発など多くの問題で「世界の情勢」を無視してきた。そういう安倍政権ならではの死刑執行だった。政治利用を考えたところに、集中豪雨が重なった。その日の夜のニュースでは、死刑執行は二番目のニュースだった。もう「麻原死刑の日から大雨が続いた」という印象しか残らない。
オウム真理教幹部7名の死刑が執行されてだいぶ経ったけれど、僕にはいくつもの疑問点がある。日本政府は死刑制度存続に固執し、21世紀に入ってからも毎年執行してきた。執行の人数や順番は秘密とされ、誰がいつ執行されるのかはよく判らない。大まかには死刑の確定時期をもとに、再審、恩赦の請求の有無などによって判断されるが、今までにもまだ順番にならないはずの死刑囚が執行されたことも多い。
その意味では、今回のオウム真理教の場合も、一般的な日本政府の「死刑執行に関しては秘密にする」方針から外れているわけじゃない。だから「疑問」なんてないという考え方もあるだろう。単に共犯者の裁判が終わって順番が来ただけだと。だが、7名もの大量執行の人数はどうして決まったのか。麻原彰晃(松本智津夫)の遺体はなぜ拘置所側が火葬したのか。当日朝の大々的な報道ぶり(僕は見てないが)は何故可能になったのか。それらは僕にとって疑問である。
死刑の執行命令は7月3日(火)に上川陽子法相が署名した。実際の執行は6日(金)で、その前日夜に「自民党酒場」が開かれていた。5日夜から西日本の集中豪雨が激しくなっていて、(麻原処刑後の)6日から各地で大きな被害を出した。そんなときに「宴会」かと批判されているが、この席に上川法相が出席していた。それも普通だったら、死刑執行を命じている最中に宴席に出るだろうかと思う。部下が明日の死刑執行を控えているんだから、上司が飲んでる場合じゃないだろう。
オウム真理教事件は普通、「狂信的なカルト宗教によるテロ事件」と思われている。それに間違いないけれど、オウムの主観ではちょっと違うんじゃないか。普通のテロ事件の場合、「自分でもテロと判っている」。2001年9月11日のいわゆる「アメリカ同時多発テロ」の場合、実行犯は自分も死ぬことが判っていた。だから、その事件がどういう結果をもたらすかは、後に残る仲間に託す問題である。自分がアメリカ大統領になって世界を変えるつもりなど最初からないわけである。
一方、オウム真理教の場合、あまりにもチャチで拙劣な団体だったから、誰も本気にはしなかったけれど、日本政府に戦争を仕掛けているという意識だったのではないか。だから「自爆テロ」はしない。自分たちは国家に準じた組織を持ち、既成の日本政府にとって代わる存在なのだから。もともとオウム事件は「内乱罪」で裁くべきなのではないかという主張があった。麻原彰晃の主観にあっては、それは確かに「内乱」だったのかもしれない。日本政府もそれを判っていて、一種の「国事犯」と考えたのではないだろうか。
現在の日本の憲法では、特別法廷は作れない。オウムも「単なる殺人犯」以上のものではなく、現行の法体系のもとで死刑判決を受けた。だが当時はオウム信徒は何か理由を付けて「微罪逮捕」された。日本は事実上の「緊急事態宣言」のもとにあった。当時を知る人なら、そもそもそれを覚えているだろう。だから、事実上の「オウム特別法廷」で裁かれたとも言える。そこでは事前に決められていたかのように、地下鉄サリン事件実行犯は死刑、送迎役は無期懲役になっている。刑事責任上、それは当然とも見えるけれど、何だかどこかで基準があったような気もする。
そういうことを考え合わせてみると、今回の死刑執行の疑問が解けてくる。これは一種の「内乱勝利宣言」だったのではないか。だから事前に執行をリークして、一部のテレビは刑務官が出勤してくるところを映像で撮影した。そんなことは事前に知らなきゃできない。そして麻原執行をいつもの死刑執行よりずっと早くリークして、大々的な報道を可能にした。執行されたのが7人だったというのは、たまたま幹部級の数だったという以上に、「極東軍事裁判」(東京裁判)の死刑執行数を意識していたのではないかと思う。占領下の戦犯裁判の「屈辱」を晴らすことを念願とする安倍政権だから、きっと同数の処刑を考えたのではないか。
麻原彰晃(松本智津夫)の遺体をめぐる問題はもっと深刻である。拘置所側は4女へ渡すという「遺志」があったとする。でもこの4女は昨年、家裁に父との相続関係を断つ申し立てを行い認められた。相続は「財産」「負債」だけではなく、遺体(遺骨)、遺品も「相続」者が受け継ぐべきものだ。死者の財産を受け継ぐ代わりに、葬祭も担当するのが普通だろう。だから相続権を放棄した人には、もともと遺体、遺骨の引き取り資格はないはずだ。他に遺族がないのならともかく、引き取りを申し出ている他の遺族がいるにもかかわらず、拘置所側で火葬したのは何故か。
それが「故人の遺志」だということになっているが、拘置所側の説明はあいまいだ。口頭で表示があったというが、後々揉めないためには書面による指示が必要だったと思う。それは可能なはずだ。「心神喪失」状態なら死刑は執行できないんだから、執行時は心身喪失じゃなかった。だったら書面で指示できるはずだ。僕が想像するには、多分麻原彰晃は執行時にはっきりとした意思を明かさなかったのではないか。拘置所側が4女でいいかと問いかけ、はっきりしないまま「いいんだな」となったのかもしれない。
麻原が自覚して4女を指定したとは考えにくい。相続を断った子どもに遺体を渡すとは普通理解できない。拘置所側が「誘導」しないとそうはならないと思う。そう思われないためには、本人の自筆の書面さえあればいい。心身喪失じゃないんだったら、可能なはずである。でもそれはないというなら、逆に考えて「心神喪失」状態にあったと疑われても仕方ない。4女指定という中に、僕は心神喪失状態の死刑囚を無理やり執行してしまったという事態を想定してしまう。
その結果、「麻原遺体の神格化を避ける」の名目で、4女側が遺骨を海に散骨すると言われている。遺骨の「奪還」「襲撃」が予想されるとして、国家がやってくれと弁護士が要請している。これはまずいんじゃないか。それでは「国葬」である。引き取りたいという遺族がいたら、引き渡せば良かったのではないかと思う。それが神格化に利用されたとしても、そのことが「可視化」された方がいい。見えない「伝説」になるより、ずっといいと思う。
「日本国対オウム真理教」の戦争だったら、当然のことだが僕は日本国の側に立っている。しかし、その日本国が現行の法規を守らないで、無理やり死刑を執行したように思える。それでは「法治」ではなくなる。安倍政権はいろいろな場面で「立憲主義」「法治主義」をないがしろにしてきた。また原発など多くの問題で「世界の情勢」を無視してきた。そういう安倍政権ならではの死刑執行だった。政治利用を考えたところに、集中豪雨が重なった。その日の夜のニュースでは、死刑執行は二番目のニュースだった。もう「麻原死刑の日から大雨が続いた」という印象しか残らない。
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