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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・浜田知明と橋本忍ー100歳を生きて

2018年07月20日 23時02分39秒 | 追悼
 著名人の訃報が相次いでいる。劇団四季の浅利慶太が亡くなったが、7月のまとめで書きたい。海外ではフィギュアスケートのソチ五輪銅メダリスト、カザフスタンのデニス・テン選手が強盗に殺害されたという驚くべき悲報に驚かされた。映画脚本家の橋本忍が長命の末、100歳で亡くなったという報道に接し、これは書かないとと思った。しかし、それならつい先ごろ訃報が伝えられた日本を代表する版画家、浜田知明も100歳だった。合わせて追悼記事を書いておこうと思う。

 浜田知明(はまだ・ちめい、本名は「ともあき」、1917.12.23~2018.7.17)って言っても誰だという人もいるだろう。熊本を中心に活動し、作品数が少なく、日本政府からの国家的顕彰もなかったけれど、戦後日本を代表する何人かの版画作家の一人だという評価は定着している。フランス政府からは芸術文化勲章を受けている。(このフランス芸術文化勲章の日本人受賞者一覧がウィキペディアに出ている。ちょっとアレレと思う人もないではないが、日本の文化勲章では選ばれない人が相当数いてフランスらしいなと思う。)注意していれば、あちこちの美術館に収蔵されているし、2018年3月には町田市立国際版画美術館で回顧展が行われた。
 (浜田知明)
 僕がビックリしたのは、日中戦争の残酷な戦場を題材にした「初年兵哀歌」シリーズを見た時である。日本軍の残虐行為を描写しているではないか。そんな人がいたのかと思った。では「社会派」なのかというと、そうではない。ほとんどがエッチング(腐食銅版画)で、その特質を生かした乾いたブラックユーモアが忘れがたい。核兵器や現代社会の不条理をテーマにしながら、ユーモラスな風刺作品が多い。これほどの芸術家が同時代にいた。どこかで是非見て欲しい。
  (「初年兵哀歌」シリーズから)
 橋本忍(1918.4.18~2018.7.19)は、戦後日本を代表する脚本家である。近年もシネマヴェーラ渋谷や新文芸座で脚本家としての特集上映が行われた。脚本家の名前で今も特集される人は数少ない。長命すぎて最近の若い映画ファンには知らない人もいるかもしれないが、70年代にはとても有名な人だった。書き始めるといくらでも書けるから、簡単にしたいなと思う。橋本忍の出発点は黒澤明の映画だが、僕は「超大作」の作り手として名前を知った。
 (橋本忍)
 60年代の「白い巨塔」「日本のいちばん長い日」「風林火山」などに始まり、「人間革命」「日本沈没」「砂の器」「八甲田山」「八つ墓村」などと続いた。さすがに3時間は越えないけど、優に2時間半ほどにもなる映画が多い。当時の2本立て興行時代にはそぐわない。一本立てで、時には洋画系列で公開され、多くは大ヒットした。最近見直したら、さすがに「白い巨塔」や「日本のいちばん長い日」はうまく出来ているなあと思ったけれど、同時代にはどっちかというと嫌いな映画が多い。

 黒澤映画では「羅生門」から始まり、「生きる」「七人の侍」「隠し砦の三悪人」などの世界史的傑作に関わっている。黒澤映画の脚本は共作だけど、橋本忍が関わった「羅生門」から「悪い奴ほどよく眠る」までの時代は、全部が成功しているわけじゃないけれど、ダイナミックな映画世界が魅力的な作品が多い。よく言われるのは、橋本忍の世界は「論理的」「構成力」という点で、確かにそういう面はある。だからこそ、正木ひろし弁護士の原作をもとにした「真昼の暗黒」という優れた映画を成功させたと思う。これは世界映画史上に例がない、裁判に並走した冤罪告発映画である。

 その方向性の最高傑作は小林正樹監督による「切腹」だと大方が認めている。これは日本のシナリオ史に残る大傑作。一方、橋本にはもう一面にセンチメンタリズム(感傷主義)があって、70年代の大作群にも「いかにもヒット狙い」という感じで、うまく感傷性が取り入れられている。テレビで評判になり、自身で監督もした「私は貝になりたい」もBC級戦犯問題を論理性より感傷的な描き方で「涙を誘った」わけである。そのような論理性と感傷性をともに兼ね備えていて、だからこそ人気があったのが松本清張である。

 だから「清張映画」を橋本忍が手掛けると成功することが多い。「張込み」(1957)に始まり、「黒い画集 あるサラリーマンの証言」「ゼロの焦点」「霧の旗」「影の車」「砂の器」と続いて、みんな今でも傑作とされている。どうも嫌な話が多いけど、それも清張の特徴。はっきり言って、原作より面白い。さすがに原作をうまく映画にしている。だけど「張込み」以外は二度と見たくないような映画だな。「ゼロの焦点」に典型的だけど、これはテレビの2時間ドラマのミステリーの元祖と言ってもいい。いろんな意味で戦後日本の大衆文化を考えるときに重要な人だった。浜田知明ともども、まだ訃報が聞かれないから存命なんだと思っていたが、やはり人間は死ぬわけだ。
  (どっちも脚本家の名が大きく出ている。)
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1 コメント

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橋本忍の業績では (さすらい日乗)
2018-07-28 08:23:51
私は、日本映画界に回想場面の利用を定着させたのが大きいと思っています。
『羅生門』以来、この人の映画はほとんど回想でドラマが成り立っています。回想にすると余計な場面を省略でき、劇を濃厚にすることができます。
ただ、1950年代まで、日本映画界では、回想場面は使ってはいけない手法でした。理由は、見るものが混乱するからだったそうです。
また、オムニバスドラマもやってはいけない手法で、これもよくわからないことがあるからだったそうです。
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