災害の多い日本とはいえ、7月上旬に西日本各地で起こった集中豪雨による洪水、土砂災害には驚かされた。ここ数年、毎年のように起こっている集中豪雨だけど、その災害地の広さ、200人を超える犠牲者はかつて経験したことがない規模だ。いつになく豪雨が降り続け、その後はものすごい猛暑である。日本だけでなく、恐ろしい気候変動の時代になってしまった。
ここ数年に起こった豪雨災害を振り返ると、2017年7月には福岡県朝倉市を中心にした「九州北部豪雨」で死者40名。2016年8月下旬には台風10号で死者・不明27名。この時は岩手県岩泉の高齢者施設で9名の死者が出た。また北海道の水害が翌年のポテトチップス生産に大きな影響を与えた。2015年9月上旬には茨城県常総市に大きな被害を与えた「関東・東北豪雨」で死者20名。2014年8月には「広島豪雨」で大規模な土砂崩れが発生して、死者77名。2013年9月には、伊豆大島で大規模土石流が発生し、死者・不明39名。毎年起こっているのである。
この間に2014年には御嶽山噴火、2016年には熊本地震が起こった。2011/3/11以後、日本では毎年大災害のニュースばかり聞いている。まあ、大地が揺れ、火山が火を噴き、天空から雨が降ってくること自体は、大自然の営みというしかない。それ自体を恨んでも仕方ないんだけど、それをただ「天災」として済ませるわけにはいかない。こういう災害が毎年のように起こることは事前に判っている。だから、避難の指示や方法が適切だったか、様々な施設・設備が適切に作られていたかが問題になる。東日本大震災でも多くの訴訟が起こっている。
水害の場合はどう考えるべきだろうか。もちろん大雨が降ることは誰にも止められない。国や地方自治体に責任があるわけじゃない。だけど、ただ川があふれたわけじゃない。堤防やダムは人間が作ったものである。大昔のままの河川なんか、今じゃどこにもない。改修工事が行われ、堤防が築かれ、その結果として地域の住民も安全意識を持っている。それなのに川の水が堤防を越え、あるいは決壊し大きな災害をもたらすとしたら、それは「行政の責任」とは言えないか。
そのように考えた人は前にいて、かつて多くの水害訴訟が起こされた。先陣を切る形で提訴したのが、大阪府大東市で1972年に起こった水害に関して国家賠償を求めた「大東水害訴訟」である。その災害では大東市内の谷田川(たんだがわ)が氾濫し床上浸水が発生した。それは急激に狭くなった谷田川未改修部分が原因だった。住民は改修を長年放置してきた行政の責任を問う裁判を起こしたのである。74年1月に提訴、1976年2月の大阪地裁判決は住民側主張を全面的に認めた。2審の大阪高裁も77年12月の判決で、改修を5年以上も放置していたのは行政の責任だと住民側勝訴の判決を下した。
この大東水害訴訟に続いて、全国各地で多くの水害訴訟が起こされた。それは41にものぼり、多くの裁判では住民側が勝訴した。河川管理に関しては、国の責任を幅広く認めることが判例になりつつあった。それがガラッと変わったのは、1984年1月26日の大東水害訴訟の最高裁判決である。それは河川管理の責任を限定的に解釈し、大阪高裁に裁判を差し戻した。
(最高裁判決を報じる新聞記事)
その判決では、完全に人間が作った道路と違って、河川は自然のものだから制約が多くなるとし、過去の水害、頻度、原因、自然条件、社会的条件等を総合判断する必要があるとした。そのうえで「その計画に不合理な点がなく、後に変更すべき特段の事情が発生しない限り、未改修の部分で水害が発生しても、河川管理者たる国には損害を賠償する責任はない」とするのである。こうして新たに最高裁で作られた「大東基準」によって、ほとんどの水害訴訟は一転して住民敗訴に終わってしまった。今では全国各地で様々の水害訴訟が起こされたことも忘れられている。
2015年の常総市の水害に対して、8月7日に国賠訴訟が提訴されるという。新聞記事によれば、「土地の改変を行う際に国の認可が必要となる「河川区域」の指定を国が怠ったため、民間業者が自然堤防だった場所の一部を掘削し、水があふれた」という主張という。大東水害以後で、最高裁で住民側勝訴となったのは多摩川水害訴訟だけである。テレビドラマ「岸辺のアルバム」でも有名な1974年の水害である。このケースでは、すでに河川改修が行われ、雨量も想定範囲内だったのに堤防が決壊した。そういう特殊事例に関しては最高裁も国の責任を認めた。
常総水害に関してはどうなるか判らないが、今のところ全国の行政は「大東基準」をベースに、多摩川訴訟を例外と考えて河川改修にあたっている。つまり、国も地方も財政難の中で「総合的判断」で河川改修を先送りしても責任は問われない。しかし、部分的に改修して結果的に被害が出れば責任を問われかねない。そう考えているんじゃないだろうか。最高裁の大東判決は、今から考えると、近年頻発する水害被害をもたらすものだったのではないか。避難のありかたの問題以前に、「河川管理の国家責任」をもう一度問い直す必要があるように思う。(ダム放流の問題も大きいが、それは別の問題になるのでここでは省く。)
ここ数年に起こった豪雨災害を振り返ると、2017年7月には福岡県朝倉市を中心にした「九州北部豪雨」で死者40名。2016年8月下旬には台風10号で死者・不明27名。この時は岩手県岩泉の高齢者施設で9名の死者が出た。また北海道の水害が翌年のポテトチップス生産に大きな影響を与えた。2015年9月上旬には茨城県常総市に大きな被害を与えた「関東・東北豪雨」で死者20名。2014年8月には「広島豪雨」で大規模な土砂崩れが発生して、死者77名。2013年9月には、伊豆大島で大規模土石流が発生し、死者・不明39名。毎年起こっているのである。
この間に2014年には御嶽山噴火、2016年には熊本地震が起こった。2011/3/11以後、日本では毎年大災害のニュースばかり聞いている。まあ、大地が揺れ、火山が火を噴き、天空から雨が降ってくること自体は、大自然の営みというしかない。それ自体を恨んでも仕方ないんだけど、それをただ「天災」として済ませるわけにはいかない。こういう災害が毎年のように起こることは事前に判っている。だから、避難の指示や方法が適切だったか、様々な施設・設備が適切に作られていたかが問題になる。東日本大震災でも多くの訴訟が起こっている。
水害の場合はどう考えるべきだろうか。もちろん大雨が降ることは誰にも止められない。国や地方自治体に責任があるわけじゃない。だけど、ただ川があふれたわけじゃない。堤防やダムは人間が作ったものである。大昔のままの河川なんか、今じゃどこにもない。改修工事が行われ、堤防が築かれ、その結果として地域の住民も安全意識を持っている。それなのに川の水が堤防を越え、あるいは決壊し大きな災害をもたらすとしたら、それは「行政の責任」とは言えないか。
そのように考えた人は前にいて、かつて多くの水害訴訟が起こされた。先陣を切る形で提訴したのが、大阪府大東市で1972年に起こった水害に関して国家賠償を求めた「大東水害訴訟」である。その災害では大東市内の谷田川(たんだがわ)が氾濫し床上浸水が発生した。それは急激に狭くなった谷田川未改修部分が原因だった。住民は改修を長年放置してきた行政の責任を問う裁判を起こしたのである。74年1月に提訴、1976年2月の大阪地裁判決は住民側主張を全面的に認めた。2審の大阪高裁も77年12月の判決で、改修を5年以上も放置していたのは行政の責任だと住民側勝訴の判決を下した。
この大東水害訴訟に続いて、全国各地で多くの水害訴訟が起こされた。それは41にものぼり、多くの裁判では住民側が勝訴した。河川管理に関しては、国の責任を幅広く認めることが判例になりつつあった。それがガラッと変わったのは、1984年1月26日の大東水害訴訟の最高裁判決である。それは河川管理の責任を限定的に解釈し、大阪高裁に裁判を差し戻した。

その判決では、完全に人間が作った道路と違って、河川は自然のものだから制約が多くなるとし、過去の水害、頻度、原因、自然条件、社会的条件等を総合判断する必要があるとした。そのうえで「その計画に不合理な点がなく、後に変更すべき特段の事情が発生しない限り、未改修の部分で水害が発生しても、河川管理者たる国には損害を賠償する責任はない」とするのである。こうして新たに最高裁で作られた「大東基準」によって、ほとんどの水害訴訟は一転して住民敗訴に終わってしまった。今では全国各地で様々の水害訴訟が起こされたことも忘れられている。
2015年の常総市の水害に対して、8月7日に国賠訴訟が提訴されるという。新聞記事によれば、「土地の改変を行う際に国の認可が必要となる「河川区域」の指定を国が怠ったため、民間業者が自然堤防だった場所の一部を掘削し、水があふれた」という主張という。大東水害以後で、最高裁で住民側勝訴となったのは多摩川水害訴訟だけである。テレビドラマ「岸辺のアルバム」でも有名な1974年の水害である。このケースでは、すでに河川改修が行われ、雨量も想定範囲内だったのに堤防が決壊した。そういう特殊事例に関しては最高裁も国の責任を認めた。
常総水害に関してはどうなるか判らないが、今のところ全国の行政は「大東基準」をベースに、多摩川訴訟を例外と考えて河川改修にあたっている。つまり、国も地方も財政難の中で「総合的判断」で河川改修を先送りしても責任は問われない。しかし、部分的に改修して結果的に被害が出れば責任を問われかねない。そう考えているんじゃないだろうか。最高裁の大東判決は、今から考えると、近年頻発する水害被害をもたらすものだったのではないか。避難のありかたの問題以前に、「河川管理の国家責任」をもう一度問い直す必要があるように思う。(ダム放流の問題も大きいが、それは別の問題になるのでここでは省く。)
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