スウェーデンの作家、ヘニング・マンケルの訃報に接して「追悼ヘニング・マンケル」を書いておいた。(10月7日)その中で、最新の邦訳である「北京から来た男」は読んでないと書いたが、地元の図書館にあるのは前から知っていたので、この機会に読んでみた。上下2巻もあるのでかなり長いけど、一気読みしてしまうミステリーである。もっとも、ミステリーとしての興趣というよりも、国際情勢などを考え込みながら読む本なので、紹介しておきたい。

原作は2008年に出ていて、邦訳は2014年。昨年の「このミステリーがすごい」の10位に選ばれている。邦訳はマンケルの中では早い方だけど、それでも少し時間が経っている。これ以上遅くなると、原作の持つ意味が薄くなるから、クルト・ヴァランダーシリーズの翻訳を置いても、こっちの翻訳が先に出たのだろう。それは「中国とどう向き合うか」というテーマだからである。
冒頭で、スウェーデンの寒村で恐るべき犯罪が起きる。その恐ろしさは、かつて読んだどんなミステリーをも超えるようなものである。普通だったら、そんな恐るべき犯罪は、誰が(フーダニット)、どうして(ホワイダニット)、起こしたのかを中心に物語が進行するだろう。まあ、この小説だって、ある程度はそうなんだけど、途中でそういう謎は後景に退いてしまう。この小説で謎を追うのは、スウェーデンの女性裁判官である。もう50代後半で、体調が悪く、短期の休職中。事件の写真を見ていて、今は亡き母親の故郷ではないかと思い、調べ始める。現地にまで行って、謎の中国人の映像を見つける。ホテルに捨てられていた中国語のパンフも入手し、長年会ってなかった旧友の中国学者に読んでもらう。
というところまで進むと、突然19世紀中国の若者3兄弟の苦難を語る章に飛ぶ。彼らは農村出身で地主の横暴で両親が自殺し、子どもだけで広東を目指す。そこで一人は殺され、残った二人はアメリカに強制的に連行され、大陸横断鉄道の労働者として、奴隷のような仕事をさせられる。その章は、まさに「“ニガー&チンク”」と題されている。(「チンク」は中国人の蔑称。)アメリカの鉄道敷設に中国人労働者が大量に動員されたことは有名だが、このようにすさまじい辛苦に満ちたものだということは具体的にはよく知らなかった。読めば、一読忘れられないものである。
だけど、ミステリー的には、なんでこのエピソードに飛ぶのかと考えると、具体的には判らないが、やはり「謎の中国人」が鍵なんだろうなと、ここで判ってしまう。まあ、それでいいんだという小説なんだと思う。なぜなら、そんな昔の中国人の苦難が現代にどう関係するのかが主たるテーマになることで、この小説の目的は「中国について考える」ことだと読者に示しているのである。
女性裁判官の友人は、おりしも始皇帝に関する学会での発表のため、北京を訪れる。一緒に行かないかと誘って、ここで突然北京旅行になる。そこで写真をもとに「謎の男」を聞いてしまったために、今度はその女性裁判官が「巻き込まれ型」のスパイミステリーみたいになってくる。この二人の友人は、60年代末期に過激な革命運動に参加していて、「毛沢東語録」を手にして文化大革命に憧れていた。北欧にもマオイストがいたのである。そんな二人は、かつての革命運動を振り返り、自分たちがいかに幼く、運動の中で恐怖感にとらわれていたかを語り合う。ここが一番面白いと言ってもいい。日本でも「60年代の変革」を振り返る動きがあるが、北欧の女性という設定でどう語られるだろうか。
そこに、今度は「アフリカ」が出てくる。ヘニング・マンケルはモザンビークが第二の祖国という作家である。自身が激動の青春を送り、南部アフリカにあってポルトガルから独立後も長く内戦が続いたモザンビークで文化活動を行ってきた。そういうマンケルにとって、中国がアフリカに「進出」することの意味を考えないわけにいかないのだろう。その「進出」は「友好的」なものなのか、それともかつては半植民地の苦しみを受けた中国が今度は「新植民地主義」としてアフリカに君臨するのか。この小説の真のテーマはここにある。ここで描かれる中国のアフリカ戦略は、かなり衝撃的なもので、どの程度現実性があるのか判らない。
だけど、「経済大国となった中国をどうとらえるか」という大問題は日本にとっても重大問題に違いない。ミステリーだから、そこはそれ、面白く出来過ぎているし、いくらか「中国脅威論」に近いかもしれない。だけど、北欧のリベラルな立場を代表するようなマンケルが、そういう小説を書いた意味は大きい。まあ、リベラルな価値感からすれば、軍事偏重の警察国家とも言える今の中国に批判的なスタンスになるのも理解はできる。それに中国のアフリカ戦略に胡散臭いものを感じるというのも、モザンビークに警告したいということかもしれない。ミステリー的興趣以上に、国際問題を理解するための本。


原作は2008年に出ていて、邦訳は2014年。昨年の「このミステリーがすごい」の10位に選ばれている。邦訳はマンケルの中では早い方だけど、それでも少し時間が経っている。これ以上遅くなると、原作の持つ意味が薄くなるから、クルト・ヴァランダーシリーズの翻訳を置いても、こっちの翻訳が先に出たのだろう。それは「中国とどう向き合うか」というテーマだからである。
冒頭で、スウェーデンの寒村で恐るべき犯罪が起きる。その恐ろしさは、かつて読んだどんなミステリーをも超えるようなものである。普通だったら、そんな恐るべき犯罪は、誰が(フーダニット)、どうして(ホワイダニット)、起こしたのかを中心に物語が進行するだろう。まあ、この小説だって、ある程度はそうなんだけど、途中でそういう謎は後景に退いてしまう。この小説で謎を追うのは、スウェーデンの女性裁判官である。もう50代後半で、体調が悪く、短期の休職中。事件の写真を見ていて、今は亡き母親の故郷ではないかと思い、調べ始める。現地にまで行って、謎の中国人の映像を見つける。ホテルに捨てられていた中国語のパンフも入手し、長年会ってなかった旧友の中国学者に読んでもらう。
というところまで進むと、突然19世紀中国の若者3兄弟の苦難を語る章に飛ぶ。彼らは農村出身で地主の横暴で両親が自殺し、子どもだけで広東を目指す。そこで一人は殺され、残った二人はアメリカに強制的に連行され、大陸横断鉄道の労働者として、奴隷のような仕事をさせられる。その章は、まさに「“ニガー&チンク”」と題されている。(「チンク」は中国人の蔑称。)アメリカの鉄道敷設に中国人労働者が大量に動員されたことは有名だが、このようにすさまじい辛苦に満ちたものだということは具体的にはよく知らなかった。読めば、一読忘れられないものである。
だけど、ミステリー的には、なんでこのエピソードに飛ぶのかと考えると、具体的には判らないが、やはり「謎の中国人」が鍵なんだろうなと、ここで判ってしまう。まあ、それでいいんだという小説なんだと思う。なぜなら、そんな昔の中国人の苦難が現代にどう関係するのかが主たるテーマになることで、この小説の目的は「中国について考える」ことだと読者に示しているのである。
女性裁判官の友人は、おりしも始皇帝に関する学会での発表のため、北京を訪れる。一緒に行かないかと誘って、ここで突然北京旅行になる。そこで写真をもとに「謎の男」を聞いてしまったために、今度はその女性裁判官が「巻き込まれ型」のスパイミステリーみたいになってくる。この二人の友人は、60年代末期に過激な革命運動に参加していて、「毛沢東語録」を手にして文化大革命に憧れていた。北欧にもマオイストがいたのである。そんな二人は、かつての革命運動を振り返り、自分たちがいかに幼く、運動の中で恐怖感にとらわれていたかを語り合う。ここが一番面白いと言ってもいい。日本でも「60年代の変革」を振り返る動きがあるが、北欧の女性という設定でどう語られるだろうか。
そこに、今度は「アフリカ」が出てくる。ヘニング・マンケルはモザンビークが第二の祖国という作家である。自身が激動の青春を送り、南部アフリカにあってポルトガルから独立後も長く内戦が続いたモザンビークで文化活動を行ってきた。そういうマンケルにとって、中国がアフリカに「進出」することの意味を考えないわけにいかないのだろう。その「進出」は「友好的」なものなのか、それともかつては半植民地の苦しみを受けた中国が今度は「新植民地主義」としてアフリカに君臨するのか。この小説の真のテーマはここにある。ここで描かれる中国のアフリカ戦略は、かなり衝撃的なもので、どの程度現実性があるのか判らない。
だけど、「経済大国となった中国をどうとらえるか」という大問題は日本にとっても重大問題に違いない。ミステリーだから、そこはそれ、面白く出来過ぎているし、いくらか「中国脅威論」に近いかもしれない。だけど、北欧のリベラルな立場を代表するようなマンケルが、そういう小説を書いた意味は大きい。まあ、リベラルな価値感からすれば、軍事偏重の警察国家とも言える今の中国に批判的なスタンスになるのも理解はできる。それに中国のアフリカ戦略に胡散臭いものを感じるというのも、モザンビークに警告したいということかもしれない。ミステリー的興趣以上に、国際問題を理解するための本。