尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「花影」をめぐる人々-大岡昇平を読む②

2015年10月04日 00時13分23秒 | 本 (日本文学)
 大岡昇平の「花影」(かえい)は1961年に刊行され、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受けた。銀座で働いていたある女性の自殺に至るまでの人間模様(というか「男遍歴」)を描いているが、読んで非常に感銘を受けた。傑作だと思う。大岡の小説で言えば、(ジャンル小説である法廷ミステリーの「事件」などを除けば)、やはり「野火」と「花影」の完成度が図抜けている。昔は新潮文庫に入っていたが、今は講談社文芸文庫しかない。ちょっと高い(1200円)けど、解説が面白い(小谷野敦)。

 この小説は①で書いたように、本来は高校時代に読んでいたはずなんだけど、そこへ至る前に挫折したので、今回初めて読んだ。1961年12月に映画化され、主人公の足立葉子を池内淳子が演じている。川島雄三監督による東宝作品で、長いこと見たいと思ってきたが、あまり上映がなかった。ところが、最近になって川島雄三の評価が高くなり、特集上映がよくあるので、2回見た。判るようで、今一つ判らないような映画だが(映画自体は判りやすいが、登場人物の心理がつかみにくい)、原作を読むと、川島雄三による人物造形が原作のポイントをつかんでいることが判る。それに解説で知ったことだが、ほとんど大岡昇平周辺のモデル小説であり、そもそも主人公の葉子は大岡自身の愛人であった過去がある。そうと知ると、鑑賞もいくぶん変わってくる。

 この小説は、もう死ぬことを決めている銀座のバー「トンボ」の足立葉子(池内淳子)の物語である。40を過ぎて、もう女盛りを過ぎた感じだが、今も葉子を求める男は多い。長いこと、大学で西洋美術史を講義している松崎(池部良)の世話になってきたが、別れ話がまとまる。その後も、弁護士や若いテレビプロデュ―サーなどと関係を持つが、いろいろあって続かない。その度に、何かと相談に行くのが、美術評論家の高島(佐野周二)である。手を握り合ったこともない関係だが、お互いに信頼している。しかし、今は親の遺産がもめていて、生活は窮迫している。

 そんな時、店に野方(三橋達也)が現れた。昔若い頃に葉子に憧れていた客で、今は甲州で葡萄酒会社の社長をしている。再会して、気持ちが再燃した野方は葉子の世話をしたいと申し出て、父の愛人だった女性にやらせている湯河原の温泉宿に誘う。葉子は高島先生と温泉に逗留するが、それが宿の女将には気になって、旅館を任せる話がまとまらない。結局、高島先生が野方から預かった骨董品をめぐって詐欺のようなことがあり、怒った野方は話をなかったことにする。映画を見てしまうと、読むときにも影響されてしまう。時間の順序が少し違うが、ほぼ原作通りの映画化だった。

 筋を読んだだけでは、ほとんど判らないだろう。葉子は何人もの男に愛されるのに、結局「高島先生」なる人物がつきまとって、人生をメチャクチャになる。だが、葉子は最後まで「高島先生」を大切に扱う。ここにリアリティがあるか、どうか。最初に映画を見た時は、これは何だろうと思わないでもなかった。でも、佐野周二の不思議な存在感がだんだん説得力を持ってくる。この「高島先生」のモデルは青山二郎(1901~1979)で、葉子のモデルは坂本睦子(1915~1958)だという。坂本睦子はウィキペディアに項目もあり、久世光彦「女神」(じょしん)というモデル小説もある。坂本睦子の死後、白洲正子が文藝春秋に追悼文を書いているという。また、白洲は「いまなぜ青山二郎なのか」という本を著し、この間の経緯を書き残している。
  
 これらの本によると、坂本睦子は「むうちゃん」と呼ばれていた。ちょっと驚くような「昭和文学史の裏面に生きた女性」である。複雑な出生があり、三島で血のつながらない祖母に育てられ、東京に出た。16歳で文春の入っていたビルの地下にあるカフェに勤めたが、最初の日に、直木三十五に「暴力的に処女を奪われた」と書いてある。直木の死後、文春社長の菊池寛が囲い、それから20歳の頃に小林秀雄と親しくなり結婚の約束をするも、五輪の十種競技の選手と京都に駆け落ち。戦争中は小林の友人の河上徹太郎と関係を持ち、戦後になって「文壇」が復活すると、帰還してきた大岡昇平と8年近く愛人関係にあった。なんで、このように「男遍歴」をするかは、久世の本に憶測がある。大岡昇平の「花影」では、松崎が大岡に当たるが、小林秀雄や河上徹太郎に当たる人物は出てこない。ほぼ「高島先生」に対する筆誅に特化している。
 (坂本睦子)
 それは違うと、睦子側から青山を弁護するのが、白洲正子や宇野千代「青山二郎の話」である。宇野によれば「青山さんに接して青山さんを好きにならない人は一人もゐない」という。白洲正子は坂本睦子と親友で、一緒に外国映画を見たりしていた。女から見ても妖しい魅力があり、ものすごい美人でもないのに多くの男が惹かれていく。その「妖しさ」が大岡の小説にはないと非難している。だけど、大岡昇平はそういうことを書きたいのではないのである。冒頭に外国語のエピグラフがあり、翻訳も注もないから、意味が判らない。解説を見ると、それはダンテ「神曲」から取ったもので、「思い出してくださいませ、ピーアでございます。シエーナで生まれ、マレンマで死にました」というものだそうだ。解説にある青娥書房の限定版あとがきによると、「わがヒロインはその生まれと性情の自然の結果として自殺するのですが、そのきっかけは、彼女の保護者で、父代わりである高島が、黄瀬戸の盃を二重売りして、彼女を裏切ったためでした。(略)もし高島にモデルがあるなら、私の想像はその人を傷つけることになるでしょう。」とあるという。

 青山二郎という人は、小林秀雄や河上徹太郎に「骨董」趣味を教えた人で、大岡昇平も戦前から知っていた。多くの人が集まるようすを、大岡昇平が「青山学院」と名付けた。青山は東京の大地主の出で、母親からほぼ自由にお金をもらっていたのだそうだ。母親の死後、生活に窮するが、一度も正規の職業に就かなかった。小説や映画では、高島先生に妻の姿はないが、生涯に4回結婚した。二度目は有名な日本舞踊家の武原はん。お金にこだわらないというか、自由人というか、一種不可思議な人物で、借りた金を返さないことは常にあったようだ。これはいいと言って、2万円で盃をもらってきて、カネは払わず、文句を言われて返してくれというと、自分が持っていたということで価値が出ると逆に4万円を払えと言う。それでも持って帰ると、その盃が8万円で売れたという話が出てくる。青山の手元にある間には、煮だしたりして「時代付け」をして、価値を高めているのである。僕は正直言って、この青山二郎という人物がよく判らなかった。やっぱりまずいんじゃないか。

 だから、大岡昇平には別れた愛人に対する哀惜の念があふれて、義憤を抑えられないところがあったのだろう。いつもは、もっと冷静に書く大岡昇平である。例えば「武蔵野夫人」なんか、神の目で冷徹に登場人物を動かしていた。(溝口健二監督、田中絹代主演で映画化したのは大惨事だったが。)「花影」では葉子が作者に背いて、高島に寄り添って、最後は死んでしまう。そこが小説として生きている。青山二郎は坂本睦子が好きなタイプだったらしいが、結局は男女関係にはならなかった。「骨董品」として見ていたのではないか。名品はコレクターは変わっても、多くの人に愛でられて、ますます価値が増す。自分はその過程を見つめて、名品として推奨するという感覚かもしれない。

 大岡は、戦争で大きな傷を負い、それは小林や河上との交友が復活しても癒えない。文学上の立場も違ってしまった。だけど、昔の友人を知る坂本睦子といる時には、一瞬の癒しが訪れたかもしれない。そういう睦子とは、妻が自殺未遂したりして別れざるを得なくなるが、青山の生き方には憤懣が募ったのだろう。まあ、いろいろな見方ができるし、語られていない話もあるのではないかと思う。関係者がほとんど亡くなっている現在、判らないことは残る。だけど、とにかく、以上に触れた本の中で、大岡昇平の「花影」が圧倒的に面白いのは間違いない。(2017.11.27改稿)
コメント (1)
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