菅原文太(1933~2014)が亡くなったと夕刊紙の大きな見出しで昨日知った。11月28日没、81歳。つい先ごろ、高倉健が亡くなったばかりではないか、と誰もが思う。菅原文太は前に病気も公表していたし、俳優はほぼ引退状態にあったが、その社会的活動、発言などは今の日本に必要な人だった。存在自体が「ある世代」を代表するような人物だったと思う。文化勲章などには縁遠く、国家から顕彰されなかったからこそ、民衆が記憶し続けていきたい。全く惜しいし、悲しい訃報である。
菅原文太と言えば、まず「仁義なき戦い」(1973)である。この作品で73年のキネマ旬報男優賞を受けた。1973年1月13日に公開され、面白いと評判になり大ヒットした。その評判は聞いていたが、高倉健の時に書いたように東映の映画館は高校生には敷居が高く、多分僕はその後に銀座並木座で見たと思う。第1作がつまらないわけではないが、特に第3作の「仁義なき戦い 代理戦争」、第4作の「仁義なき戦い 頂上作戦」の群像ドラマとしての完成度には驚いた。
菅原文太が印象に残るのは間違いないが、同じぐらい金子信雄、加藤武、小林旭などが印象に残った。その後、2回ほど連続で見ているが、やはり抜群に面白い。と同時に、監督の深作欣二、脚本の笠原和夫、主演の菅原文太それぞれにある、「戦後へのこだわり」が心に残った。深作は1930年、笠原は1927年に生まれている。この生年の違いは、当時としては大きいが、いずれも実際の戦争に参加する前に戦争が終わり、国家に裏切られた世代である。
1972年に藤純子が結婚して引退、記念映画としてマキノ雅弘の最後の作品「関東緋桜一家」が作られた。これが任侠映画の終わりを象徴した。1973年に「仁義なき戦い」がヒットして、東映は高倉健の時代から、菅原文太の実録映画時代となる。この転変は、後の時代から見ると、連合赤軍事件(1972)が起きて「60年代」が完全に終結し、73年にはベトナム和平協定が結ばれて米軍がベトナムを引き揚げ、日本でもべ平連が解散した。「仁義なき戦い」とその後の実録路線、そして「トラック野郎」シリーズの大ヒットのことはいろいろな人が語ると思うから、ここでは違うことを書いておきたい。
菅原文太は早大中退だが、在学中から演劇、映画など活動している。劇団四季の一期生でもある。しかし、一番大きな仕事は「男性モデル」だった。日本初の男性専門のモデルクラブを創設したのである。その時の仲間に岡田真澄がいる。そこから新東宝にスカウトされる。新東宝は東宝争議の時に分裂して生まれた会社だが、経営が苦しくなって、次第にトンデモ映画の宝庫のような会社になっていった。今では普通に名作とされる中川信夫「東海道四谷怪談」などもあるが、今見ても凄く変な映画も数多い。主演第一作だと思う「海女の化物屋敷」(1959)も多分そんな映画だろう。
(「海女の化物屋敷」)
僕が見ているのは、助演している「女王蜂の怒り」だけだと思う。「ハンサムタワーズ」などと言われていたが、まあブレークする前に会社がつぶれてしまった(1961年)。そこで松竹に移籍したが、女性映画の松竹では助演ばかり。僕の印象にあるのは、坂本九のヒット曲「見上げてごらん夜の星を」の映画化。定時制高校生の青春を描いたミュージカルだが、そのクラスの担任が菅原文太だった。木下恵介監督の名作などにも出ているが、やはり助演しか回ってこないから、結局1967年に東映に移った。
東映に移っても長い間、鳴かず飛ばずでヒットには恵まれなかった。長い下積みを経て、やっと自分のキャラクターを生かせるスタッフと題材にめぐり合ったのである。しかし、それにも前史がある。いわゆる「任侠映画」にはほとんど出ていないが、例外として緋牡丹博徒シリーズには時たま出ていて、特に「緋牡丹博徒 お竜参上」で今戸橋で純子が文太にミカンを渡す雪のシーンは、屈指の名場面として見たものの心に刻まれている。今、「任侠映画」と書いたのは、明治から昭和初期を舞台にし高倉健や鶴田浩二が着流しで出てくる映画のことである。
(「緋牡丹博徒 お竜参上」)
ずいぶん様々なシリーズが作られたが、そればかりでは番組は埋まらない。だから現代ヤクザの映画もかなり作られている。菅原文太は主にそういう映画に出ていた。「現代やくざ」とか「まむしの兄弟」などのシリーズである。そして、同じように長いキャリアがありながらヒットに縁遠かった深作欣二監督の作品によく出るようになる。特に1972年の「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が評価されたが、これらのテイストは「仁義なき戦い」とほぼ同じと言っていいだろう。
「トラック野郎」シリーズは、後になって数本見ているが、同時代的には見たことがない。最近になって面白いと再評価の声が高いが、今年監督の鈴木則文も亡くなってしまった。確かに面白いし、菅原文太の意気込みはものすごいんだけど、数本見ると飽きてしまう。1977年に寺山修司が東映に招かれて撮った「ボクサー」は、老いた元ボクサーが新人を鍛えるボクシング映画の定番だけど、その無国籍的なムードが寺山映画そのもので良かった。「太陽を盗んだ男」や「ダイナマイトどんどん」にも出ているが、80年代以後は日本映画界の衰退もあり、あまり作品に恵まれていない。
(「トラック野郎 御意見無用」)
むしろ、テレビの印象が強く、大河ドラマの「獅子の時代」(1980)や「徳川慶喜」などが思い出される。特に「獅子の時代」は明治期の庶民を描いた異色の大河ドラマで、菅原は会津藩の下級武士がたどる苦難の人生を演じた。僕は見てないのだが、講談社現代新書「新しい左翼入門」で、著者の松尾匡が熱く熱く論じている。最後は「声優時代」で「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」「おおかみこどもの雨と雪」などに出ているから、若い世代にはむしろ声優として認識されているかもしれない。
俳優としては珍しく社会的発言をした人だが、僕の知る限り一番最初は1974年参議院選挙の東京地方区に出た作家野坂昭如の応援演説ではないだろうか。その時の演説を収めた「辻説法」というレコードを持っている。そこには小沢昭一の応援は収められているが、菅原文太はない。でも僕は確かにこの耳で聞いたように思うのである。残念ながらまだ有権者じゃなかった年齢なんだけど、聞きに行ったように思う。そこでは「自分のようなやくざばっかりやってる役者が応援していいのかと思いますが…」とか言っていた。聴衆から「いいよ」と声援が贈られていた。
近年は有機農業に力を入れ、ほとんど「農民」だった。特に「3・11」以後は原発反対、集団的自衛権容認反対など、様々な活動に参加していた。11月1日には、沖縄で知事選の翁長元知事の応援に行っていたから、病の中での「本気度」がうかがわれる。その心中にあるものは、仙台一高で一期下の井上ひさしと共振するものがあったと思う。「農」への思い、「戦争反対」への思いである。井上ひさしや小沢昭一を通して、僕は戦争がいかに悲惨であり、強いものにではなく弱い者に厳しくのしかかってくるかを学んだ。歴史を専攻したんだから当時の様々な史料を読んでいるし、映画ファンとして多くの戦争映画からも学んだ。と同時に、ラジオ、テレビ、雑誌、映画などの大衆的な娯楽メディアを通して伝わってきた「深い思い」は大きい。「戦争を経験した世代の思いを聞いた世代」として、それを伝えてつないでいく責任がある。そういう意味で、菅原文太の思いを伝えていかないといけない。
菅原文太と言えば、まず「仁義なき戦い」(1973)である。この作品で73年のキネマ旬報男優賞を受けた。1973年1月13日に公開され、面白いと評判になり大ヒットした。その評判は聞いていたが、高倉健の時に書いたように東映の映画館は高校生には敷居が高く、多分僕はその後に銀座並木座で見たと思う。第1作がつまらないわけではないが、特に第3作の「仁義なき戦い 代理戦争」、第4作の「仁義なき戦い 頂上作戦」の群像ドラマとしての完成度には驚いた。
菅原文太が印象に残るのは間違いないが、同じぐらい金子信雄、加藤武、小林旭などが印象に残った。その後、2回ほど連続で見ているが、やはり抜群に面白い。と同時に、監督の深作欣二、脚本の笠原和夫、主演の菅原文太それぞれにある、「戦後へのこだわり」が心に残った。深作は1930年、笠原は1927年に生まれている。この生年の違いは、当時としては大きいが、いずれも実際の戦争に参加する前に戦争が終わり、国家に裏切られた世代である。
1972年に藤純子が結婚して引退、記念映画としてマキノ雅弘の最後の作品「関東緋桜一家」が作られた。これが任侠映画の終わりを象徴した。1973年に「仁義なき戦い」がヒットして、東映は高倉健の時代から、菅原文太の実録映画時代となる。この転変は、後の時代から見ると、連合赤軍事件(1972)が起きて「60年代」が完全に終結し、73年にはベトナム和平協定が結ばれて米軍がベトナムを引き揚げ、日本でもべ平連が解散した。「仁義なき戦い」とその後の実録路線、そして「トラック野郎」シリーズの大ヒットのことはいろいろな人が語ると思うから、ここでは違うことを書いておきたい。
菅原文太は早大中退だが、在学中から演劇、映画など活動している。劇団四季の一期生でもある。しかし、一番大きな仕事は「男性モデル」だった。日本初の男性専門のモデルクラブを創設したのである。その時の仲間に岡田真澄がいる。そこから新東宝にスカウトされる。新東宝は東宝争議の時に分裂して生まれた会社だが、経営が苦しくなって、次第にトンデモ映画の宝庫のような会社になっていった。今では普通に名作とされる中川信夫「東海道四谷怪談」などもあるが、今見ても凄く変な映画も数多い。主演第一作だと思う「海女の化物屋敷」(1959)も多分そんな映画だろう。
(「海女の化物屋敷」)
僕が見ているのは、助演している「女王蜂の怒り」だけだと思う。「ハンサムタワーズ」などと言われていたが、まあブレークする前に会社がつぶれてしまった(1961年)。そこで松竹に移籍したが、女性映画の松竹では助演ばかり。僕の印象にあるのは、坂本九のヒット曲「見上げてごらん夜の星を」の映画化。定時制高校生の青春を描いたミュージカルだが、そのクラスの担任が菅原文太だった。木下恵介監督の名作などにも出ているが、やはり助演しか回ってこないから、結局1967年に東映に移った。
東映に移っても長い間、鳴かず飛ばずでヒットには恵まれなかった。長い下積みを経て、やっと自分のキャラクターを生かせるスタッフと題材にめぐり合ったのである。しかし、それにも前史がある。いわゆる「任侠映画」にはほとんど出ていないが、例外として緋牡丹博徒シリーズには時たま出ていて、特に「緋牡丹博徒 お竜参上」で今戸橋で純子が文太にミカンを渡す雪のシーンは、屈指の名場面として見たものの心に刻まれている。今、「任侠映画」と書いたのは、明治から昭和初期を舞台にし高倉健や鶴田浩二が着流しで出てくる映画のことである。
(「緋牡丹博徒 お竜参上」)
ずいぶん様々なシリーズが作られたが、そればかりでは番組は埋まらない。だから現代ヤクザの映画もかなり作られている。菅原文太は主にそういう映画に出ていた。「現代やくざ」とか「まむしの兄弟」などのシリーズである。そして、同じように長いキャリアがありながらヒットに縁遠かった深作欣二監督の作品によく出るようになる。特に1972年の「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が評価されたが、これらのテイストは「仁義なき戦い」とほぼ同じと言っていいだろう。
「トラック野郎」シリーズは、後になって数本見ているが、同時代的には見たことがない。最近になって面白いと再評価の声が高いが、今年監督の鈴木則文も亡くなってしまった。確かに面白いし、菅原文太の意気込みはものすごいんだけど、数本見ると飽きてしまう。1977年に寺山修司が東映に招かれて撮った「ボクサー」は、老いた元ボクサーが新人を鍛えるボクシング映画の定番だけど、その無国籍的なムードが寺山映画そのもので良かった。「太陽を盗んだ男」や「ダイナマイトどんどん」にも出ているが、80年代以後は日本映画界の衰退もあり、あまり作品に恵まれていない。
(「トラック野郎 御意見無用」)
むしろ、テレビの印象が強く、大河ドラマの「獅子の時代」(1980)や「徳川慶喜」などが思い出される。特に「獅子の時代」は明治期の庶民を描いた異色の大河ドラマで、菅原は会津藩の下級武士がたどる苦難の人生を演じた。僕は見てないのだが、講談社現代新書「新しい左翼入門」で、著者の松尾匡が熱く熱く論じている。最後は「声優時代」で「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」「おおかみこどもの雨と雪」などに出ているから、若い世代にはむしろ声優として認識されているかもしれない。
俳優としては珍しく社会的発言をした人だが、僕の知る限り一番最初は1974年参議院選挙の東京地方区に出た作家野坂昭如の応援演説ではないだろうか。その時の演説を収めた「辻説法」というレコードを持っている。そこには小沢昭一の応援は収められているが、菅原文太はない。でも僕は確かにこの耳で聞いたように思うのである。残念ながらまだ有権者じゃなかった年齢なんだけど、聞きに行ったように思う。そこでは「自分のようなやくざばっかりやってる役者が応援していいのかと思いますが…」とか言っていた。聴衆から「いいよ」と声援が贈られていた。
近年は有機農業に力を入れ、ほとんど「農民」だった。特に「3・11」以後は原発反対、集団的自衛権容認反対など、様々な活動に参加していた。11月1日には、沖縄で知事選の翁長元知事の応援に行っていたから、病の中での「本気度」がうかがわれる。その心中にあるものは、仙台一高で一期下の井上ひさしと共振するものがあったと思う。「農」への思い、「戦争反対」への思いである。井上ひさしや小沢昭一を通して、僕は戦争がいかに悲惨であり、強いものにではなく弱い者に厳しくのしかかってくるかを学んだ。歴史を専攻したんだから当時の様々な史料を読んでいるし、映画ファンとして多くの戦争映画からも学んだ。と同時に、ラジオ、テレビ、雑誌、映画などの大衆的な娯楽メディアを通して伝わってきた「深い思い」は大きい。「戦争を経験した世代の思いを聞いた世代」として、それを伝えてつないでいく責任がある。そういう意味で、菅原文太の思いを伝えていかないといけない。