尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

命令の奴隷になるなー映画「シャトーブリアンからの手紙」

2014年12月01日 00時32分45秒 |  〃  (新作外国映画)
 「シャトーブリアンから手紙」という映画を上映している。(東京では、渋谷のシアター・イメージフォーラムで12日まで。)この映画は、第二次世界大戦中のドイツ占領下のフランスで起きた「捕虜収容所での虐殺」を扱った映画である。監督は、日本で13年ぶりの新作公開となる、ドイツの巨匠フォルカー・シュレンドルフ。こういう「社会派」の歴史映画は、歴史教師だった商売柄できるだけ見逃さないようにしてきた。今回もそういう「現代史」に材を取った映画だからということもあるが、特にドイツ人監督がフランスでナチスの蛮行を映画にしたという経緯が非常に心に響いた。日本人の映画監督が、中国で三光作戦を映画化するようなことが、現在の東アジアで可能だろうか。
 
 この映画は、時間が91分と最近の映画には珍しく短い。これだけ複雑な出来事を映画化すると、細かく説明したり、感傷的なシーンを加えたりしたくなるものだが、気持ちいいぐらいサクサク進む。「ある出来事」をめぐり、様々な人間がどのように対応したか、簡潔に描写されていく。だからと言って、説明不足や描写不足はなく、非常に多くのことを考え、心を強く揺さぶられる。一言で言えば「巨匠の技」である。さすがにシュレンドルフ、健在なりと感銘深く見た。

 監督の話は後でするとして、映画の内容を先に。シャトーブリアンと言うと、歴史ではフランス革命からナポレオン、ウィーン体制の時代に活躍したロマン派の作家、政治家の名前を僕は思い出す。ただ、その名を検索すると、「シャトーブリアン・ステーキ」がいっぱい出てくるが、その名の由来となった人である。でも、プログラムを読んで知ったのだけど、元々は地名で、シャトーブリアンという人もそこの伯爵家だった。場所はフランスの西北部に突き出たブルターニュ半島の南端、ナントの近くにある。フランスを占領したドイツは、そこに政治犯収容所を作った。フランスの南半部は「ヴィシー政権」が出来て、ドイツに協力したが、北半部はドイツ軍による占領地帯である。

 さて、1941年10月20日、地下の共産党活動家が、ナント地区ドイツ軍司令官を暗殺した。ヒトラーは激怒し、ドイツ人の血に対して、フランス人150人の処刑を要求した。パリのドイツ軍司令部は命令を実行すれば、フランスの人心が離反することを恐れるが、とりあえずまず50人、犯人が見つからなければ次の日に50人、と「分割繰り延べ」にすることぐらいしかできない。そこで、ドイツ軍政の下で行政を行っていたフランス人官僚に、処刑政治犯リスト作りが命じられる。副知事はいったんは拒否するが、「良いフランス人を犠牲にしていいのか」と迫られ、結局はリスト作りを受け入れる。その間、収容所内のようすも描かれるが、そこは「共産党関係者収容棟」で、中には親が共産党員で、駅でビラをまいて捕まった17歳のギィもいる。ギィは隣の女性収容所のオデットに恋をし、年長者はラジオで情勢をつかもうとしている。

 10月22日、リストが承認され、処刑の日となる。副知事はリストに17歳のギィや、その日釈放予定のクロードなどが入っていることに気づき、これは恐るべき間違いで修正すべきだとドイツ軍に迫るが、「では代わりを選べ」と言われて黙るしかない。「すでに決まったことだ」とことは進んでしまい、収容所では昼食が中止にさせられ、リストにある名前が呼ばれ始める。最後にモヨンという神父も呼ばれるが、彼は副知事に「何で加担しているのか」と問い詰めると、副知事は「公務員の義務」と言う。話をやめろと言うドイツ人軍人にも「命令の奴隷になるな。良心の声を聞きなさい」というのだった。神父は「あなたたちと考えは違うが、最後の手紙を預かろう」と呼びかける。ギィも家族にあてた手紙を書く…。

 以後は書かないが、ドイツ軍人の中にもさまざまな人がいたことも示される。処刑の「予行練習」も行って、処刑準備を進めるが、私には出来そうもないと申し出る兵士もいる。(後のノーベル賞作家、ハインリヒ・ベルがモデルだという。)実際の暗殺犯も描かれ、ドイツ軍上層部のようすも描写される。このように重層的に「ひとつの事件」を描くのだが、処刑する側、処刑される側を問わず、「決定的な時期に、どのように対処したか」を的確に描いている。その結果、モヨン神父の言葉が心に残り続け、理性的にも感情的にも「自分ならどうできただろうか」を自省せざるを得ない映画になった。

 フォルカー・シュレンドルフ(1939~)は、ファスビンダー、ヘルツォークなどと並ぶ、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手だった人で、何と言っても大傑作「ブリキの太鼓」で知られる。ギュンター・グラスの大長編を巧みに映画化し、カンヌ映画祭最高賞、米アカデミー外国語映画賞、キネマ旬報ベストワンと世界のどこでも最高の評価を受けた。その成功を受けてのことか、次作でプルーストを映画化した「スワンの恋」を作ったけど、その後はアメリカで作ったりしていた。ちなみに昨年日本でも評判を呼んだ「ハンナ・アーレント」を作ったマルガレーテ・フォン・トロッタと結婚している。

 今まで知らなかったが、シュレンドルフは17歳の時、学生交換事業でフランスに留学している。その後、パリで大学に通いながら、映画作りに関わるようになる。特にルイ・マルと知り合い、「地下鉄のザジ」や「鬼火」「ビバ!マリア」などの助監督をした。他にもアラン・レネの「去年、マリエンバードで」などに関わっていたのである。10年間のフランス生活が終わって、ドイツに帰って映画を作るようになり、すぐ認められた。つまり、監督の青春はフランスにあったのである。しかし、この事件のことは詳しくは知らなかったらしいが、関係書を渡され心が動いたという。ポーランドの話なら撮らなかった、フランスでの事件だから映画化したと述べている。

 この事件で犠牲になったギィ・モケは、その手紙の心打つ内容とともに、後に非常に有名となり、英雄として神話化され、パリの地下鉄の駅名になっているらしい。共産党系として処刑されたため、特にフランス共産党のレジスタンス神話に使われてきたらしいが、サルコジ前大統領が高校生全員にギィの手紙を読むように指示を出したという。このように今も「政治的に利用される」中で、ドイツ人監督が映画化することには反対もあったというが、できてみたら大好評だった。そのため、早くもフランスでの第2作、同じく占領中を扱った「パリよ、永遠に」が作られ、日本でも2015年3月に公開が予定されている。

 戦後の長い時間をかけた「独仏和解」が若い世代の地道な交流から進んで行ったということが、感動的である。50年以上経って、このような成果を生む。ドイツはナチス時代を克服し「歴史認識」をめぐって隣国と争うようなこともない。日本とは大きく状況が違う。それにしても「歴史認識」の重要性を思い知らされる。また、あえて「戦争」などと大状況を持ち出さなくても、日々の暮らしの中でも「命令だから、仕方ない」「もう決まったことだから、どうしようもない」と考えてしまうことが多いはず。東京で教員をしてきたから、「もう決まった」「命令だから」は聞き飽きるぐらい聞いた。昔は「日の丸・君が代の強制は許すな」などと先頭に立っていた人が、いつの間にか管理職になっていて、「通達が出たから」「もう決まったことだから」「仕方ないから」と盛んに言っていたものだ。「中高一貫化」とか「主幹教諭」「主任教諭」、「教員免許更新制」と、もう決まっちゃんだから仕方ない、命令だからやむを得ない、自分の立場ではやむを得ない…などという訳である。全く、よその国の昔の出来事として見てられなかったですよ
コメント (1)
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