尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「35人学級」問題を通して日本を考える

2014年11月09日 22時44分57秒 |  〃 (教育行政)
 時事的な教育問題について、あまりにビックリしたので他の諸問題に先駆けて書いておきたい。「35人学級」問題と書いたのは、最近財務省が「35人学級を40人学級に戻して、予算を浮かせるべき」と「妄言」を言っている問題を指している。しかし、本当の「35人学級」問題とは、本来は学年進行で上級生にも適用されるはずだったのに、それが小学1年生に限定されてしまっているという方を指すはずである。少なくとも文科省だって、小学1年生に加え、2年生までは「35人」を実行することを考えている。今でも、文科省のホームページ上に「小学1・2年生における35人学級の実現」という資料が掲載されているのである。それは「少人数教育の実現」というコーナーの一番下に掲載されている。その資料を見ると、秋田県や山形県などの先進的事例と比較して、少人数の方が効果的とされている。民主党政権で少人数教育を実行していくはずだったが、自民党政権で凍結されたのである。

 さて、今回の問題は報道によれば以下のようになる。「財務省が、公立小学校の1年生で導入されている「35人学級」を見直し、1学級40人体制に戻すよう文部科学省に求める方針を固めたことが22日、分かった。教育上の明確な効果がみられず、別の教育予算や財政再建に財源を振り向けるべきだと主張している。これに対し、文科省は小規模学級できめ細かな指導を目指す流れに逆行すると強く反発しており、2015年度予算編成での調整は難航が予想される。財務省は27日の財政制度等審議会で見直し案を取り上げる考え。40人学級に戻せば、必要な教職員数が約4千人減り、人件費の国負担分を年間約86億円削減できるとの試算を提示する。」(共同通信)

 「少人数教育をすすめるべきか」は、教育関係者にとっては「決着済み」の問題だろう。予算の問題ではない。逆に考えると、「86億円で出来ること」なんだから、どんどん上級生にも適用していくべきである。自衛隊の戦闘機一機より安い。およそ「教育的ではない」議論をここで書いても仕方ない。もう「少なくとも小学校1年生の35人学級は維持すべきである」という以上に書くことはない。事々しく理由を書き連ねる必要もないだろう。「常識」の問題である。

 だから、僕が書きたいのは、この「常識」が通じない人々が権力を握っている日本という国は何なのだろうかということなのである。財務省によれば、戻しても構わない理由付けは以下のようなものである。「いじめなどの発生頻度が他の学年との比較で減ったかどうかを分析した。それによると、小学校で確認されたいじめのうち1年生の割合は、導入前の5年間の平均が10・6%だったのに対し、導入後の2年間は11・2%に上がった。暴力行為も3・9%から4・3%に、不登校も4・7%から4・5%と目立った改善は見られず、「厳しい財政状況を考えれば40人学級に戻すべきだ」と結論付けた。」というのである。

 僕はこの部分を知って、がく然とした。おいおい、君たちは統計を読めないのか。それとも私立学校の優等生で過ごしてきて、日本の学校というものを知らないのか。大体、いじめ統計自体が僕には大きな疑問がある。それは「いじめ「報告件数」が多すぎる」の記事で書いている。それはともかく、一応文科省の統計を使うとして、また財務省による「平均値」の件数を再確認していないのだが、それも信用することにする。

 その上で言うのだが、これは統計の読み方が逆である。「いじめ」というものは、見えにくいものである。学校で言えば、「ケンカ」はより見えやすく、「いじめ」はより見えにくい。社会の中でも、「薬物」「性犯罪」「汚職事件」などは、発覚しにくい犯罪とされる。一件の事件の背後に、「まだ見つかっていない」事件が控えている。どうしてかというと、「被害者がいない」か「被害者が名乗りを挙げにくい」タイプの犯罪だからである。だから、明るみに出た事件の他に、隠れている事件があると考え、それを「暗数」という。「いじめ」事件に関しても、学校が報告したものがすべてのいじめであるとは言えず、その背後に「教員が認知できなかった件数」があるはずである。

 だから、「いじめ報告件数」が増えたというなら、少人数学級により教師がより目配りできるようになり、「いじめ認知」が増えたと理解するべきものである。「少人数教育が成果を挙げた事例」になるのである。もっとも、財務省の例示によれば、暴力行為も増え、不登校も減っている。要するに、それほど大きな変化はないというべきかもしれない。それも当然だろう。小学校1年生なんだから、報告すべき問題行動そのものが少ないだろう。高学年になり、さらに中学生になるほど多いと予想されるので、本来は中学生まで35人学級にした上で比較しなければわからないというべきだろう。ところで、いじめなどの問題行動は、たまたま起きたりする偶発性も大きいので、その報告件数だけで「少人数学級」を論じても仕方ない。「常識」さえあれば、多すぎても少なすぎても「教育的効果」は薄れると判るはずである。そして「40人」は諸外国と比べても多すぎるということも。

 もう一つの重大な問題は、「もし全国の学校で、小学校一年のいじめ件数を過少報告したら、どうなるのだろう」ということである。そうすると、「少人数学級は効果があった」という判断になるのか。そうすると、「教育現場を守るためには、ウソの報告をした方がいいのか」ということである。これでは江本じゃないけど、「ベンチがアホやから」と言いたくなるではないか。日本の中央官庁はそういう発想をするところなのである。どうなっているんだろうか。
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追悼・桂小金治

2014年11月07日 23時22分41秒 |  〃  (旧作日本映画)
 桂小金治が亡くなった。11月3日没。88歳。僕には非常に思い出深い人だけど、若い人だと判らないかもしれない。ネットのニュースで最初に知ったが、「落語家の桂小金治」が死んだと出ていた。これはおかしいのではないかと思う。落語家は「真打」になって、初めて師匠と呼ばれる。小金治は「二つ目」の時に映画界に飛び込んだ。よって、最後まで「真打」にはならなかった。もっとも晩年にはホール落語などで高座に上ることがあったというが、この人の最大の業績は落語ではない。まあ、本人はその方がうれしいかとも思うが、「落語家」と言ってしまうのはどうなのか。
 
 では何と呼ぶべきかと言えば、「テレビ司会者、映画俳優」であり、そこに「落語家出身」ということになる。桂小金治はある時代には、「日本人なら誰でも知っている」長嶋や大鵬のような存在だった。それは映画に出たからではなく、テレビに出たからである。テレビの「ワイドショー」が個人名で語られていた時代だった。「木島則夫モーニングショー」であり、「桂小金治アフタヌーンショー」である。木島則夫の名前も知らない人が多くなったと思うが、NHKからNET(今のテレビ朝日)に移籍し、モーニングショーで知名度を上げ、民社党から参院選東京地方区に立候補、2回当選した。桂小金治は選挙に出たわけではないが、テレビの司会者にはそれだけの知名度と集票力があったのである。

 「テレビの黄金時代」は60年代中頃から70年代頃だと思う。テレビがほぼ全家庭に行き渡ったのは64年の東京五輪の頃(ちなみに当然、白黒テレビ)である。その前後から新しい試みがどんどん出てきて、「テレビ」が毎日の話題となった。新聞が現れ、映画が現れ、ラジオが現れ、戦後15年経ってテレビが普及する。ケータイ、スマホ、パソコンはない時代である。テレビが最新のメディアだったわけである。その時代をタレントとして、あるいは製作側から支えた人々がどんどん亡くなっている。テレビで有名だった人は、出なくなると急に忘れられる。だから、桂小金治を知らない人も多くなっていく。

 桂小金治は、テレビで最初「怒りの小金治」と言われ、次に「泣きの小金治」と言われた。今はそういう風に番組内で感情を爆発させると批判されるのではないか。「小金治だから許された」部分もあると思うけど、それが人々の共感を呼んだのである。誰もが歌えるヒット曲があった時代、「国民的な共感」という感情の基盤が今よりずっとしっかりしていた時代だったんだと思う。僕は子どもながらに、そういう小金治が実は好きではなかった。というか、嫌いだった。感情の押し付けみたいなとこが。でも、この人は何故か憎めなかった。感じ方、考え方はなんか違うんだけど、なんだか判る気がしちゃう…そういう人がいるもんだけど、この人は僕にとってそういう人だった。

 その後、50年代、60年代の日本映画をよく見るようになって、桂小金治がいかに映画に出まくっていたかを知った。最初は松竹にいた川島雄三が寄席(いまはなき人形町末広亭)を見て、映画出演を持ちかけた。1952年の「こんな私じゃなかったに」という映画が初出演。次の「明日は月給日」では落語家の役で実際に寄席でやってる場面があったと思う。俳優業が好評で、映画出演の方がはるかに経済的に恵まれることから、どんどん引き受けているうちに松竹と専属契約を結ぶようになる。

 その後も川島作品には出続けた。後に東宝、日活に移籍、非常にたくさんの映画に出た。ベストテンに入るような映画はほんの少しで、大部分はプログラムピクチャーの脇役である。それもこれも、どう見てもサラリーマン役は無理で、商店の御用聞きとか、ドジな兵隊とか、そんな役がはまり役なのである。当時の日本映画では、そういう役をそつなくこなせる俳優が不可欠で、実に達者に日本社会の下積みの人々を演じてきた。それはほとんど評価されていないけど、ずっと見ていけばとても面白い戦後社会論になるのではないか。

 川島雄三は、「幕末太陽傳」という傑作を除き、それ以外の作品は「怪作」が多い。今見てもとんでもない映画が多いが、そういう映画に決まって桂小金治が出ている。「グラマ島の誘惑」では、森繁久彌とフランキー堺が皇族軍人兄弟で、桂小金治がお付きの武官。船が難破して、報道班員の女性や慰安婦たちと無人島に流れ着くというすごい設定で、軍隊と天皇制を風刺している。桂小金治はもちろん軍命に忠実なタイプを巧みに演じている。「貸間あり」という映画では、大阪の不思議なボロアパートに奇人変人が集結。フランキー堺が4か国語を話せる何でも屋、隣人の小金治はこんにゃくとキャベツ巻きを売っている。そういうヘンテコな映画が最近はわりと上映の機会があり、川島映画に不可欠の俳優として再評価する必要がある。変人ぞろいの中では、「その中では常識人」役を割り当てられることが多かった。今思うと、桂小金治は「日本の庶民」を全身で表現していたのではないか。それは演技を超えた部分だったかもしれない。そして絶対にこの人でなければ出来なかったのが、「アフタヌーンショー」だったように思う。
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2014年10月の訃報

2014年11月05日 21時32分35秒 | 追悼
 今日になって、桂小金治の訃報が伝えられたが、また別に書く機会を作りたいと思う。10月の訃報では、赤瀬川原平の追悼を書いたが、首都圏では千葉と町田でもともと予定されていた展覧会が開かれている。品切れになっていた文庫本も是非増刷して欲しいなと思う。

 僕の心に残る人として、山下道輔さんが死去した。(10.20没、85歳)朝日に訃報が載ったけれど、掲載されなかった新聞の方が多い。朝日でも「肩書き」は「国立ハンセン病療養所多磨全生園入所者」となっている。これは「肩書き」と言えないが、公的な役職に就いた人ではないので他に書きようがないのだろう。山下さんは、全生園でハンセン病図書館に拠って、ハンセン病資料を集め続けた人である。各地の自治会資料や新聞記事などを丹念に集めて、散逸しないように努めた。ハンセン病関係の知名人という場合、療養所の自治会活動、あるいは国賠訴訟の原告団活動、さらに小説や詩や俳句が評価されるとか、ハンセン病問題を当事者として告発するとか…。山下さんは直接そういう活動を起こしたわけではないが、「縁の下の力持ち」的に図書館を守り続けた。大きな集会があると、集会で皆に呼びかける方ではなく、ロビーの書籍売り場で本を売った。そういう形で「ハンセン病問題」を残した人である。ハンセン病問題に関心を寄せる人なら、大体は名を知っているような人で、多くの人に慕われていた。心に残る人である。

 三浦綾子さんの夫だった三浦光世さんが死去した。(10.30没、90歳)この人は一応「三浦綾子記念文学館長」という肩書がある。「歌人」であり、「著述家」ということにもなる。でも、結局この人の人生は、キリスト者となり、脊椎カリエスの三浦綾子と知り合い、結婚して病妻の文学を支えたということにつきる。「評点」は綾子自身の記述だが、「塩狩峠」以後の作品はすべて「口述筆記」だったというから、驚くしかない。三浦綾子は北海道・旭川に住み続け、キリスト教に基づく人間愛の小説を書いたベストセラー作家だったが、1999年に死去している。旭川には三浦綾子記念文学館があり、「評点」で忘れがたい神楽の外国樹種見本林の一角に作られた気持ちのいい場所である。僕は2回行ったことがあるのだが、旭川で一番心落ち着く場所と言ってもいい。クリスチャンではなく、三浦文学にもそれほど高い評価を置かないのだが、それでもこういう場所があるといいなと思うし、こういう本があるのはいいなと思う。現代にあって、この二人が出会ったのは、確かに「奇跡」とも思える出来事で、現代には稀なる「奇跡の夫婦」だった。

 元長崎市長の本島等氏が死去。(10.31没、92歳)自民党に支持されて当選した保守系政治家だったが、88年に市議会で昭和天皇の戦争責任をあると思うと答弁。右翼に脅迫されても撤回せず、90年1月に右翼活動家から拳銃で銃撃されて一カ月の重傷を負った。この事件は日本の戦争責任問題を考えるときに忘れてはならない事件だが、「保守系」と言っても、原爆を落とされた長崎の地では「歴史が見える」ということだと思う。そういう「地場の保守」の強さは、沖縄などでも見ることができる。

 女優の中川安奈(10.17没、49歳)が死去した。「敦煌」でデビューというけど、見なかった。僕は舞台で見たこともなかったけど、崔洋一「Aサインデイズ」で演じた沖縄のロック歌手が印象に残っている。建築家の岡田新一という人は知らなかった。(10.27没、86歳)芸術院会員だそうだが、最高裁庁舎のコンペで丹下健三チームを押さえて最優秀賞を獲得した。でも最高裁はやっぱり冷たい感じがするし、宇都宮美術館もあんまり見やすい感じがしないなあ。作家で「れくいえむ」で芥川賞を受けた郷静子(9.30没、85歳)の訃報が10月になって伝えられた。「れくいえむ」は自身の戦争体験を描いたもので、書きたいことがあるからそれ一作を書いたというタイプの作家だった。「元駐タイ大使で外交評論家」となる岡崎久彦(10.26没、84歳)が亡くなった。ベストセラーの「戦略的思考とは何か」も読んでないし、当然他の本も読んでない。だから批判も書けないけど、安保法制懇メンバーだった人だし、どうして外務省出身者(「親米保守」の立場)が安倍首相の外交ブレインに慣れるのかも僕には判らない。

 ウォーターゲート事件時のワシントンポスト編集主幹だったベン・ブラッドリー(10.21没、91歳)はワシントンポストを有力紙に育てた。「クリーム」のベーシスト、ジャック・ブルース(10.25没、71歳)が死去。エリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカーと結成した「クリーム」は2年ほどの活動だけど、大きな盈虚を与えた。社会党から衆議院副議長を務めた岡田利春(10.11没、80歳)は土井委員長時代の副委員長でもある。「社会党」を担った人々がどんどん亡くなっている。功罪共にきちんと検証しておかないといけない戦後史だと思う。ノンフィクション作家枝川公一(8.15没、73歳)の訃報が2カ月たって報道された。
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日塩もみじラインをゆく

2014年11月05日 00時22分55秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 からだのあちこちが温泉を欲している気がしていたけど、トリュフォー映画祭に行ってたので時間が作れなかった。ようやく出かけてきたのは、「大正村 幸の湯温泉」というところで、値段は安くてお湯がとてもいい。栃木県の北の方、塩原と那須の中間、板室温泉に行く途中に35年ぐらい前に出来た温泉である。もひとつ、このあたりに秋に行くときは、「日塩もみじライン」を通ると、ハズレがなくて素晴らしい紅葉を見られる。紅葉は僕の大好きな日光が有名だけど、あまりにも渋滞がすごくて、混雑していて宿も取りにくい。塩原・那須方面もおススメである。

 最後の方に載せると、見るときに流されがちだから、2日目に見た紅葉の写真を最初に載せておきたい。日塩もじじラインと言うのは、鬼怒川温泉の奥から奥塩原・新湯温泉に通じている有料道路である。一番高い所に「ハンター・マウンテン」、略してハンタマというスキー場があって、夏はユリを見るリフト、秋は紅葉を見るゴンドラが出る。道路の高低差が数百メートルあるので、どこかが紅葉に最適なことが多い。今回はハンタマは寒そうで、(値段も高いし)乗らなかった。そこで食べなかったので、しばらく行った白滝の峠の茶屋で食べたが、そのあたりの紅葉が今の見ごろ。
   
 今の最初の写真のように両側が紅葉という場所はあまりないけど、黄色く映える中を進む道は多い。塩原に出るところに有名な紅葉スポットがあるが、うまく停められなかった。素晴らしいところは多いけど、運転中に撮るわけにも行かないし、前後に車がいることが多く、路肩に駐車もままならない。でも、いいのである。写真が目的ではなく、もみじの中をドライブすることが目的なんだから。
   
 鬼怒川に近いあたりに、「太閤おろしの滝」というのがあった。全然聞いたこともない滝で、見ると大したこともないことが多いんだけど、時々停まって歩くようにしないと身体に悪いから、散歩することにする。ところがこれが結構いい滝で、二段に分かれて滝壺が深くえぐられエメラルド色に輝いていた。流れゆく川の流れも黄葉を映して黄色く見える。駐車場から見た周りの山々の姿もキレイだったなあ。行きと帰りに2枚撮ったので、順番に。
   
 宿を出た後で、真っ直ぐに「もみじライン」に向かうのではなく、宿の奥の方に続く道を「深山ダム」「深山園地」という方に行ってみた。まったく聞いたこともない地元しか知らない観光地だと思うけど、この道も紅葉が凄かった。もっとも目的地の園地に着いたら、寒そうで歩く気にならなかった。前日に「沼ッ原湿原」という場所に向かった時も、着いたら寒くて何と雪が舞っていた。山奥の方から「雪の女王」の支配領域が広がりつつあるのである。ところで、山道の途中で展望が広がり、高原の方まで一望できる場所があった。手前の山は(あんまりキレイではないが)黄葉で、空と遠くの高原と近くの山がパッチワークのように区画されている。素晴らしい感じがしたけど、これが写真ではうまく撮れない。近くに合わせると、遠くがボケる。空に合わせると手前が暗い。まあ、とりあえず載せておくけど。
   
 さて、話を戻して最初の日から。まずは西那須野塩原インターで東北道を下り、千本松牧場に行こうと思うとものすごい混雑で駐車も大変そうなので敬遠。祝日なんだから仕方ない。少し飛ばして、「道の駅 明治の森黒磯」でトイレ休憩。ここは重要文化財の旧青木別邸のあるところ。明治時代に外務大臣を務めた青木周蔵である。前にも載せたことがあるが、気持ちいいところなので。その後、板室温泉を過ぎ「乙女の滝」を見る。滝はともかく、その近くの紅葉が良かったので、川と紅葉を。
   
 沼ッ原湿原に向かったが寒くてすぐ戻り、宿に入る。全館畳敷きでハダシで歩ける(よってスリッパがいらない)。ここは何と言っても、源泉掛け流しのお風呂が有名で、立ち寄り客が多いなあ。お湯はいっぱいあるからいいんだけど。最近、プールみたいなところに綱につかまって入るという「綱の湯」ができた。いや、完全に深くてけっこう大変、浮力があるから綱につかまると浮いてしまう。「歩行浴」にも最適で、これは健康に良さそう。写真は撮れなかったので、宿のサイトで。露天風呂が夜と朝の交代で二つ。露天といっても、そこに3つずつ風呂がある。さらに宿泊者専用の「畳敷き風呂」がある。朝から清掃で、8時半から入った露天(つまり前日は女性用だった方)は、豪快な「滝の湯」がウリである。ここまで強い打たせ湯は見たことがないかもしれない。湯量が多すぎて痛い。
    
 宿はちょうど紅葉の時期で、結構キレイ。客も多いようだった。料金は安くて、料理はそれなりだけど、連泊する場合はこのぐらいでいいだろう。朝食の後で外に出てみたら、玄関に近いピラカンサの木に猿軍団が。なんと10頭以上で、子ザルをいる。皆で実を食べまくっている。猿はよくいるけど、こんなとこは見たことないなあ。カメラを持っていなかったので、あとで露天風呂に行くときにまた見てみたら、まだ食べていたんだけど、カメラを上に上げた瞬間にクモの子を散らすように逃げてしまった。何かカメラにトラウマがあるのか。拡大すると少し見えるけど、大した写真にならなかったので載せない。結構広い「談話室」があったり、なかなか面白い宿だった。(写真最後は宿の前の道)
   
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「アデルの恋の物語」以後-トリュフォー全映画⑤

2014年11月02日 23時11分20秒 |  〃 (世界の映画監督)
 「アデルの恋の物語」以後の作品を全部見ることにして、簡単に書きたい。画像も少な目で。
アデルの恋の物語(1975) ☆☆☆☆
 76年キネ旬7位。非常にシンプルな構造で一直線に進む「狂気の愛」の物語。公開時に見た時に非常に強い印象を受けた。今回見直すと、これは「ストーカーという言葉がなかった時代のストーカー映画」だと思った。あるいは「恋愛中毒」と言ってもいい。アデルが実際に後半生を精神病院で送らざるを得なかったことが示すように、これは明らかに「心の病」を描いている。もっとも春日武彦「ロマンティックな狂気は存在するか」という本があるように、一時期まで「狂気になるほどの熱狂的な愛」という神話もあったのだろう。でも、現実にはそれはロマンティックな誤解であり、人格破壊があるだけなのである。

 アデルはヴィクトル・ユゴーの娘で、巨大な父、早世した姉を背負っている。父はナポレオン3世に反対して、英仏海峡の英領ガーンジー島に亡命中で、アデルはそこで若い英国士官と結ばれる。当時のことだから、当然結婚を前提にしていたとアデルは思っただろうけど、男は避けるようになる。(初めから遊びなのか、それとも激しすぎる求愛に閉口したのか…。)映画は英領カナダのハリファックスに偽名のアデルが男を追って到着するところから始まり、男がカリブ海のバルバドスに転任すると、そこまで追って行き倒れるまでを描く。この種の映画の典型となる傑作。
  
トリュフォーの思春期(1976) ☆☆☆★
 76年キネ旬3位。日本では「アデル」と同年に公開されて、両方ベストテンに入ったが「思春期」の方が評価が高かった。僕にはそれがよく判らなくて、幼い子供たちのエピソードをつないだだけのような作品に思えて面白くなかった。今回見直して、これは「子どもたちの自然な姿を映像に収めて、フランス社会を定点観測してみた面白い作品」だと思うようになった。題名は思春期だけど、小学生の時期でもっと幼い時代の悪意のないいたずらなどが多い。中で「虐待」のケースがあり、最後に教師が子供向けに大演説している。トリュフォーの娘なども出ているドキュメンタリー・タッチの作品で、トリュフォーの映画では異色の作品になっている。見直した時はとても面白く感じたけれど、少し時間が経つと「アデル」のような一直線映画の印象の方が残る。
恋愛日記(1977) ☆☆
 キネ旬27位。この映画はなあ…という感じの映画。同じ監督作品を続けてみると、「反復」が目につくことになる。トリュフォー映画の場合、一番重大な問題は「女性の脚」へのフェティッシュな執着で、この映画はそういう傾向を集大成した「脚フェチ一代記」である。全然ハンサムとは言えない、「私のように美しい娘」で害虫駆除業者をやってたシャルル・デネルという男優が主人公で、女性遍歴を繰り返すさまを描いている。最後は自伝を書いて出版しようとし、うまく行くはずだったけど…。冒頭は葬儀の場面である。正直に言って、僕には全然判らない映画。

緑色の部屋(1978) ☆☆☆★
 キネ旬24位。日本でもフランスでもほとんど評価されていないと思うが、非常に美しい映画で、岩波ホール公開時より僕の大好きな映画。でも、「死者に取りつかれた男」という主題が暗すぎて一般的には受けないだろう。ロウソクで死者を弔うチャペルを撮影するアルメンドロスの撮影は異様に美しい。トリュフォーが自分で主演していることで判るように、トリュフォー映画の中でも非常に重要な映画ではないかと思う。日本でも天童荒太「悼む人」が直木賞を取ったわけだから、この映画の主題は伝わるのではないか。人間には「死」を直視できず避ける心性もあるが、「死」を身近に感じ取りつかれるような心性もある。ナタリー・バイの美しさも際立ち、「3・11」後の今こそ見直されれるべき傑作。

逃げ去る恋(1979) ☆★
 僕の評価はこの映画が一番低い。アントワーヌ・ドワネルものの5作目で、最後の作品。今までの映画が随所に引用され、なんだか「自作解説」みたいな感じである。離婚したクリスチーヌ、昔好きだったコレットも出てきて、同窓会的にアントワーヌの女性遍歴を振り返る。これは「シネマ・セラピー」としてのトリュフォー映画の性格が一番正直に出ている。その意味では「トリュフォー研究」の観点からは興味深いが、なんでアントワーヌの恋愛に僕らがこれほど付き合わされるのかと正直ウンザリする。どうしても弁明的にならざるを得ないし、映画にしなくていいんじゃないと思ってしまうのである。まあ、この映画だけ見てもよく判らないと思うんだけど、そういう「自立性の低さ」も低評価になる理由。
終電車(1980) ☆☆☆
 セザール賞作品賞、監督賞、主演男女優賞など10部門受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、キネ旬16位。この時代、ゴダールは商業映画に復帰しつつも日本では公開されず、ロメール、リヴェットはまだ紹介されず、シャブロルは「娯楽映画」ばかりになり…、トリュフォーひとり、「フランス映画を支えるような大監督」になり、「古典」的な映画作家に「昇格」しつつあった。そういう彼がフランスで一番評価された映画が「終電車」で、ドイツ占領下のパリで劇場を守るカトリーヌ・ドヌーヴの「抵抗」を描く。フランス人の琴線に触れるテーマを若手のジェラール・ドパルデュ―との絡みで大作恋愛映画+対独抵抗映画に結晶させた。そこが評価されたんだろうけど、当時の社会状況、劇団の恋愛事情、劇中劇などが混然一体となって感動するというより、日本人が見ると「バラバラ感」があるのは否めないのではないか。どうも長すぎるし。日本ではベストテンで上位にならなかったし、そういう評価は今回見ても僕には変更不要に思った。ドヌーヴの落ち着いた美しさは一見の価値。

隣の女(1981) ☆☆☆ 
 83年キネ旬6位。郊外の一軒家で美人妻と子どもと共に暮らす男。その隣の空き家に夫婦が入ってくる。会ってみれば、「隣の女」は「訳ありの元カノ」だった…。という夢のような悪夢のような設定で、世界の恋愛映画に大影響を与えた映画だが、今見直すと、ジェラール・ドパルデューが若くて(まだあまり)太ってないのに一番驚くかも。スーパーに車で買い物に行って再会、休日はテニス場で社交、彼女は絵本作家を目指している…といったいわゆる「ニューファミリー」的な設定に当時の僕の評価は引きずられていた。そういう社会風俗的な部分が時間とともに色あせると、そこに見えてくるのは「愛に傷つき、心を病む女性」の姿である。ファニー・アルダンの造形は今見ても、全く古びてないどころか、日本のイマドキを見るようである。でも、僕は奥さん(ミシェル・ボームガルトネル)の方が好みだから、子どももいるんだし、何をやってるんだと思ってしまうけど。トリュフォーはファニー・アルダンと子どもを作っちゃったんだから、こういう人が好きなんだろうな。

日曜日が待ち遠しい!(1983) ☆☆☆
 トリュフォーの「遺作」はモノクロのミステリー映画で、もうファニー・アルダンを見るためだけのような映画である。不動産屋の社長のジャン=ルイ・トランティニャンの周りで、不審な殺人が相次ぎ、疑われる。秘書のアルダンが隠れる社長に代わってニースまで真相追及に出かけ、危険なミステリーの中に飛び込んで行く。ほとんどハッピーエンドがないトリュフォー映画としては珍しく、最後に二人が結ばれて終わる。ミステリー的なムード(謎解き)はある意味トリュフォー作品で一番あると思うが、この「解決」は論理的に無理があるように思う。でも細部は忘れてしまうから、今回で3回目だけど、真相は何だったっけと一応楽しく見ることができる。すごい傑作とは思わないけど、これはこれで「遺作」としてはいいかなと思っている。
 
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「恋のエチュード」と「アメリカの夜」-トリュフォー全映画④

2014年11月02日 00時49分15秒 |  〃 (世界の映画監督)
 トリュフォーの全映画の4回目。1970年代に入ってくる。
家庭(1970) ☆☆★
 アントワーヌ・ドワネルものの第4作目。これまで順調に公開されてきたトリュフォーだが、この作品は1982年まで公開されなかった。単館系映画館でドワネルものを一挙上映する企画で公開されたと記憶する。ドワネルものの最後の2本は「映画的記憶」に頼った面が大きく、映画的に自立していない感じが否めない。トリュフォー作品には「日本への言及」が多いのも特徴だが、特にこの映画は「日本」が大きく登場している。「日本人にしか判らないジョーク」も存在するから、もっと早く公開されて欲しかった。

 「夜霧の恋人たち」の恋人、クリスチーヌと結婚、子どもも生まれるが、アントワーヌは仕事で会った日本娘「キョーコ」に惹かれてしまう。その様子をコミカルに描くが、一体何してるんだか。このキョーコも変な描写で、リアルな日本人ではない。パリでモデルをしていた松本弘子という人が演じている。姓が「山田」となっているが、これは友人で映画評論家の山田宏一から取ったものだという。そこに敬意を表して★ひとつアップ。
 (松本弘子と)
恋のエチュード(1971) ☆☆☆☆
 73年キネ旬13位。世界的にもあまり評判を呼ばなかった作品だが、僕は昔から大好きで、何回見てもやはりいいと思う。今回見ても、評価は変わらなかった。でも、「突然炎のごとく」より上とまでは思わない。「突然炎のごとく」の原作者、ジャン=ピエール・ロシェのもう一つの長編小説「二人の英国女と大陸」の映画化で、設定が正反対になっている。つまり、「男2対女1」が「男1対女2」へと。しかも女性二人は姉妹である。ジャン=ピエール・レオの演じるクロードは、パリで母の知人の娘、英国人のアンと知り合う。ロダンに憧れ彫刻の勉強に来たのである。二人は惹かれあうものを感じ、今度はクロードが英国の海辺の村に住む姉妹を訪ねる。そこには姉のアンと妹のミュリエルが母と住んでいた。クロードは二人の娘と語り合い、テニスをし、サイクリングをする。アンは彼が妹にふさわしいと思って、二人の仲を進めるが、母親はすぐの結婚を認めず冷却期間を置くことになる。以後、細かく書いても仕方ないけど、パリと英国で、クロードと姉妹の長いすれ違いの日々が始まるのである。

 このクロードを演じるジャン=ピエール・レオは気まぐれな青年をうまく演じて、代表作とも言えるが、「優柔不断な青年」という印象が強い。そういう演出なんだけど、「突然炎のごとく」のジャンヌ・モローが神秘的な神々しさがあったのと比べると、確かになんだという気がするのも仕方ない。全体に暗い画面が多いことも当時の観客に嫌われたのではないか。(僕はそういう暗い映画が好きなんだけど。)僕はアルメンドロスの撮影とドルリュ―の音楽が醸し出す、格調高い愛の年代記に十分満足するんだけど。愛は移ろいやすく、悔いが残るものである。時間の流れの中で結ばれたり別れたり…、そういった誰もが思い出す人生の哀歓を、美しい風景の中に定着させた名作だと思う。

私のように美しい娘(1972) ☆☆☆
 軽妙洒脱な悪女ものコメディ。トリュフォーの中では軽い作品で、明るい語り口が面白い。キネ旬23位。「あこがれ」のベルナデット・ラフォンが刑務所の囚人で出てきて、女性と犯罪を研究している社会学者のインタビューを受ける。彼女は幼少の頃より、秩序意識が少なく性への関心のまま野放図に生きてきた。しかし、その天衣無縫な魅力に男は参ってしまい、逮捕前は何人も男と同時に関係を持っていた。社会学者も結局その魅力にとりこまれてしまい、彼女の事件を再調査。害虫駆除業者を塔から突き落とした事実はないことを証明、彼女は無罪釈放となるものの…。誇張されたコミカルな演技で軽快に映画は進み、楽しく見られる。だから面白いとも言えるんだけど、まあ小品的な印象。

アメリカの夜(1973) ☆☆☆☆★
 アカデミー賞外国語映画賞。監督賞ノミネート。キネ旬ベストテン3位。その年のベストワンは「フェリーニのアマルコルド」、2位はベルイマンの「叫びとささやき」とレベルが高かった。「アメリカの夜」というのは、フィルターをかけて昼間に夜景を撮る技法のこと。フランスで言う業界用語で、この映画で一般化したかもしれない。昔の映画を見てると、よく使われていたものである。「現実ではなく演技を撮影する」劇映画そのものの象徴として使われている。「映画撮影現場を舞台にした映画」だが、劇中劇(映画内映画)の映像は出てこないで「舞台裏」だけを描いている。純粋に映画の撮影現場をドラマにした脚本がよく出来ている。昔から好きだったが、3年前に「午前10時の映画祭」で再見した時にはちょっと期待外れだった。今回で3回目だけど、見直したらやはりすぐれた作品だと思った。

 監督自身をトリュフォーが演じていて、「パメラを紹介します」という映画を撮る設定。南仏にオープンセットを作って、クレーンや移動レールで大規模な撮影をしている。映画の裏では、何度も撮り直したり、脚本の書き直しが遅れたり…はまだいいとして、俳優どうしの内輪もめ、恋愛沙汰などトラブル続発。そういう「現場の大変さと面白さ」が全開の映画で、映画愛を封じ込めたような作品になっている。最初の公開時には「映画に愛をこめて」と言う副題がついていた。主演女優役のジャクリーン・ビセットの精神的に危うい女優役がやはり素晴らしい。助監督やスクリプターなどの裏方役の俳優もきちんと描き分けられていて、映画作りがよく判るが、それ以上に「仕事とは何か」という意味で見所が多い。
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「華氏451」から「野生の少年」-トリュフォー全映画③

2014年11月01日 00時43分07秒 |  〃 (世界の映画監督)
華氏451(1966) ☆☆☆
 アメリカのSF作家レイ・ブラッドベリの有名な「華氏451度」の映画化。イギリスで製作され、日本ではATGで公開された。原作は最近改訳が発行されたが、「読書が禁じられた社会」を描く「ディストピア」(ユートピアの反対)ものの傑作である。叙情的な作風のブラッドベリに珍しい哲学的な内容で、必ずしも読みやすい本ではない。それを映画化するのも大変だろうと思うが、「よくやっている」とも言えるし、「うまく行ってない」とも言える。期待度をどのくらいに置くかで変ってくる。まあ、本が燃え上がる瞬間の衝撃、本好きにうれしい細部の描写、妙に忘れがたい画面のムードなどが忘れがたく、★ひとつサービスするが、僕の基本的評価は「失敗作」である。こういうのは、「問題作」と言うべきか。

 近未来物は、今見ると「素朴」に見えてしまうのが一番困った点か。主演のオスカー・ウェルナーは、「突然炎のごとく」のジュールを演じた俳優だが、トリュフォーとこの映画で衝突したという。撮影(トリュフォー初のカラー)は後に監督として有名になるニコラス・ローグ。主人公が救い出す本に「カスパー・ハウザー」がある。後に「野生の少年」を映画化する伏線だろう。最後の「本を記憶する人々」の群れに加わることになるが、その時に出てくる本は原作と全く違う。この時の本が判らないと、かなり興趣が削がれるだろう。そういう意味では、「観客を選ぶ映画」で、やはりアートシアター向けだったかもしれない。(「アンリ・ブリュラールの生涯」や「火星年代記」「高慢と偏見」などである。)キネ旬21位。
  
黒衣の花嫁(1968) ☆☆
 アメリカのミステリー作家、コーネル・ウールリッチ原作の映画化。結婚式で誤って殺された夫の復讐に殺人を重ねていく妻、ジャンヌ・モロー。そのジャンヌの魅力というか、脚などを追うラウル・クタールのカメラが見所のミステリーだけど、怪しい魅力と言う点では日本の「五辨の椿」(原作山本周五郎)の岩下志麻も負けてないし、映画の出来では勝っているかもしれない。こういう話は、狩り出すところが一番面白いのに、最後の「犯行」時だけ描いて行くのが、ミステリー映画としては欠点だと僕は思う。ミステリー映画ではなく、ジャンヌ・モローを見る映画と言われるかもしれないが。キネ旬17位。

夜霧の恋人たち(1968) ☆☆☆★
 アントワーヌ・ドワネル物の第3作。「大人は判ってくれない」を除くと、一番面白い映画。コレットに失恋し、軍隊に入るもののすぐに追い出される。今度は音楽学校に通うクリスチーヌにお熱。彼女の父の紹介でホテルに勤めるものの、探偵にダマされ浮気妻の部屋に夫を案内してしまい大騒動に。ホテルはクビになるが、その時の縁で探偵会社に勤めることになる。見え見えの尾行、靴店への潜入など、楽しい描写が続き、失敗続きのアントワーヌはどうなる…というコメディ。パリ風景も楽しく、面白い映画だと思う。68年のカンヌ映画祭粉砕につながった、マルロー文化相によるアンリ・ラングロワ(フランスのシネマテーク創設者)解任に抗議し、ラングロワにこの映画が捧げられている。アントワーヌはホテルの夜番で「暗闇へのワルツ」を読んでいるのが次作への伏線。キネ旬17位。

暗くなるまでこの恋を(1969) ☆☆☆★
 ウィリアム・アイリッシュ「暗闇へのワルツ」の映画化。(アイリッシュと「黒衣の花嫁」のウールリッチは同一人物。)冒頭でルノワールの「ラ・マルセイエーズ」が引用され、ジャン・ルノワールに捧げられている。それというのも、アフリカ大陸の東にある仏領レユニオン島の物語だからで、「レユニオン」(再併合)の意味が解説されているわけ。この場所が珍しく、目が奪われる。そこのタバコ会社社長、ジャン=ポール・ベルモンド写真花嫁を迎える。フランスでもそういうことがあるのか。船を出迎えると、写真よりずっと美しいカトリーヌ・ドヌーヴがいるのだった。謎めいたドヌーヴの謎を追い、舞台はニース、リヨン、アルプスと移り行き、二人の危険な道行きはどうなる…。破滅へ向かう恋路、あまりにも美しいドヌーヴを、見ているだけで楽しいというか、ただ茫然と見ているだけのミステリーで、今見ると「黒衣の花嫁」より面白いと思うが、当時の評価は低かった。キネ旬48位。

野生の少年(1970) ☆☆☆☆
 この映画から、同時代的に見ている。初見時は受け付けられなかったけど、今回40年以上を経て再見したら、評価が好転した。久しぶりのモノクロ映画だが、これ以後のトリュフォー作品の大部分を撮るネストール・アルメンドロスとの初顔合わせ。ロメール「クレールの膝」などを撮った人だが、後にアメリカに進出して「天国の日々」「クレーマー、クレーマー」で2回アカデミー賞を受賞する名撮影監督である。「狼に育てられた少年」という話があるが(インドのその話は怪しいらしいが)、ヨーロッパの「野人」としては「カスパー・ハウザー」(後、ヘルツォークが映画化)が有名で、当初はこっちを映画化しようとしたらしい。結局、18世紀末にフランスで見つかった「アヴェロンの野生児」を詳細に映画化した。主人公はトリュフォー自身が演じている。キネ旬16位。

 この映画が当初好きではなかったのは、トリュフォーが「文明」の立場を自明視していて、「劣った野生児」を人間生活に引き上げることを目指すのが傲慢に思えたからである。しかし、結局僕も「文明」の一員であり、「恵まれない子ども」を教育の対象にするのは非難できないと思うようになったのである。これは「特別支援教育」の先駆けと言える試みであり、誰かがやらなければならなかった。そのまま野生に戻したり、どこかの檻に閉じ込めて終わったかもしれないところを、一応屋根の下の暮らしを保障できたのだから、それ以上の何を僕が言えるだろうか。いろいろ言えるけど、もはや僕にはトリュフォーを批判できない。そうすると、ここまで美しい画面の下、これほど真剣な「教育」を描く映画が他にいくつあるだろうか。トリュフォーが自演したように、「大真面目」に作っている。それは大事なことだと思うようになったのである。この映画を見たスピルバーグが、後に「未知との遭遇」の主人公にトリュフォーを起用した。宇宙人との遭遇は、野生児との遭遇と本質的に同じだったということだろう。「感動」ではなく、「複雑な感慨」を残す美しい作品
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