尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「健さん」が「テロリスト」だった頃-追悼・高倉健

2014年11月20日 23時25分41秒 |  〃  (旧作日本映画)
 高倉健が亡くなった。1931.2.16~2014.11.10。83歳だった。発表されたのは一昨日で、解散・総選挙という大ニュースがすっかり霞んでしまった。「高倉健」という存在は日本映画に止まらず日本文化のあり方を考えるうえでとても重要な意味を持つ。ちょっと遅くなったけど、やっぱり書いて残しておきたい。下の写真を見れば判ると思うが、若いころと晩年の風貌がほとんど変わっていない。
 
 俳優だから演技をして他人になる、その演技力で評価するというのが本当だろう。しかし、日本では演技力より「空気」とか「佇まい」(ただずまい)が大きな意味を持つことがある。出てくるだけで場を満たしてしまう。そういう「オーラ」のようなものである。晩年の宇野重吉、大滝秀治、あるいは笠智衆などもそうだったが、何と言っても渥美清と高倉健。誰でも知ってて、もう画面に出てくるだけで観客をつかむ。渥美清の場合、寅さんが渥美清か、渥美清が寅さんかという感じになっていたが、現実の渥美清は寅さんではなかった。でも高倉健最後の「あなたへ」を見ると、もう高倉健が「高倉健」を演じているんではないかという段階になっていた。スケール的には「不世出」のスターなのではないか。「スター」という存在そのものがもうありえないのかもしれない。

 「不器用」で「寡黙」な「含羞」(がんしゅう)の人、「誠実」で「一生懸命」な男というのが、役回りである。それを突き詰めると「精神主義」、「一生懸命生きている、それでけで尊い」という感じも出てくる。そうなるとそれを利用する人も出てくる気がして、僕は好きになれない。現に文化勲章までもらってしまい、「国民的俳優」視されてしまった。それまで任侠映画のスターというイメージを背負っていた高倉健が、1977年から「超大作」と「名作」に出る俳優になった。205本出た中で、そういう大作期(第3期)の作品は、ちょうど20本である。僕はそのうちの半分ぐらいしか見ていない。「大作」が嫌いだからである。ヒットする大作というのは、多くの人に共感されるように作られている。そういうものが嫌なのである。

 山田洋次の「幸福の黄色いハンカチ」「遙かなる山の呼び声」はさすがに一定の出来になっている。でも僕はあまり好きではない。見直すと、結構トンデモ映画ではないか。「駅」や「あ・うん」などはそれなりに面白かったけど、中国映画「単騎、千里を走る」などは、チャン・イーモウとは思えぬほどつまらない。全部触れても仕方ないので「鉄道員」(ぽっぽや)だけ書くと、撮影で魅了する映画ではあるが、主人公はこんな人間でいいのだろうか。原作が感傷的なメロドラマだから仕方ないが、当時僕はJRから解雇された国労労働者にカンパしていたので、見ているうちに腹が立ってきた。この人は本物の国鉄労働者なんだろうか。自己犠牲の上に築かれる人生に感動してはいけないのではないか。最近も「教師は新入生の担任だったら、我が子の入学式にも出てはいけない」とか大真面目に主張する人がいる。そういう「ぽっぽや意識」こそ日本人を不幸にしているんじゃないか。

 僕が映画を見るようになったのは1970年ごろだが、高倉健はその当時東映任侠映画の主演者として、非常に有名だった。しかし高校生が見に行くにはけっこうハードルが高く、また自分でも「遅れた日本」を象徴する映画のように思えて、見たいと思わなかった。では、僕が最初に見た高倉健の映画は何だろうか。もう覚えていないんだけど、アメリカ映画に出演した「ザ・ヤクザ」(シドニー・ポラック監督)か、それとも斎藤耕一の「無宿」(やどなし)ではないか。「無宿」は勝新と高倉健の共演で、フランス映画「冒険者たち」の翻案と言えるが案外面白くない。でも、ヒロインの梶芽衣子が素晴らしく、僕も梶芽衣子を見に行った記憶しかない。となると、同時代作品として見て印象的だったのは、1975年の「新幹線大爆破」ということになるだろうか。
(「新幹線大爆破」)
 当時は、名作と言われる任侠映画が名画座によくかかっていた。多分、銀座並木座や池袋の文芸地下(今、新文芸坐のある土地に文芸坐があった。文芸坐は洋画専門で、その地下に日本映画専門の文芸地下があった。)で初めて見たと思う。三島由紀夫がギリシャ悲劇と言った「博打打ち 総長賭博」や「明治侠客伝 三代目襲名」には感動した。もっともこれらは鶴田浩二主演。高倉健映画も併映されてて見たように思うけど、あんまり記憶がない。当時は学生運動のよすがが残っていたころで、高倉健がタンカを切ると、画面に向かって「ヨシ!」と大声を上げる手合いが本当にいた。そういう話はどこかで聞いていたけど、ホントにいるんだと思ったものである。

 任侠映画時代の最高傑作は、「日本残侠伝 死んで貰います」(1970、マキノ雅弘監督)だと思う。山田宏一が日本映画ベストワンにしていたから見たかったのだが、僕が見たのはずいぶん後。でも、その後2回以上見たと思う。マキノ監督の長い監督人生の最後の時期の大傑作である。恐ろしげな題名から受けるイメージとは少し違い、老舗料亭をめぐる争いである。料亭の跡取りとして生まれながら、父の後妻に妹が生まれ、家を出て渡世人となる花田秀次郎(高倉健)。この料亭をめぐる乗っ取り争いと家族への思い。自分の幸せを封印して、周りの幸せを願う高倉健のセリフがいちいち心に刺さる。ここにあるのは、自分たちの共同体を守るために「テロリスト」となる主人公である。60年代末から70年代初期の社会変動の中で、高度成長の下で取り残された青年に受けたのもよく判る。

 そのように、やむに已まれず自己を守るために「孤独なテロリスト」となるというのが、この時代の高倉健のイメージである。そういう風に考えると、「新幹線大爆破」で犯行のリーダーとなる工場主こそが一番「健さんらしい」と言えるのではないか。この映画は全体としてはあまり評価しないのだが、犯行のアイディアと高倉健の演技は最高である。「寡黙」で「誠実」な人間が犯罪者となっていくのである。高倉健のイメージは、後に「国民的スター」となる前に作られたものから「テロリスト性」を引いたものだと思う。そういう「危険なイメージ」が落とされた第3期の映画は、僕にはつまらない。「世の中に受け入れられない」という主人公でなくては、「暗闇の中で心震わす」ことはできない。 
 
 ところで、今ほとんど触れられないのが、初期の助演作品である。特に内田吐夢監督の宮本武蔵シリーズの佐々木小次郎、「飢餓海峡」の若手刑事、もっと前の武田泰淳原作の「森と湖のまつり」(主演)などは印象が強い。また「人生劇場・飛車角」の宮川、「ジャコ万と鉄」などもいいけど、香港ロケした「ならず者」とか戦争映画「いれずみ突撃隊」などのあまり知られていない映画が素晴らしいと思う。なお、「悪魔の手毬歌」では探偵・金田一耕助を演じた10何人かの俳優のひとりになった。

 1965年の「網走番外地」「昭和残侠伝」の大ヒットから、東映を背負う大スターとなる第2期が始まる。「網走番外地」というから北海道かと思うと、「南国の決闘」とか、最高傑作とされる「望郷扁」のように長崎が舞台だったりする。それにしても、「網走番外地」から始まる「北」とか「雪」の「寒いイメージ」が後の第3期で完璧に生かされた。八甲田山で遭難したり、雪の駅で立ち尽くしたり、果ては南極とくる。この寒そうなイメージ、自己犠牲と感謝という高倉健のイメージの表象化でもあるだろう。日本人の心の底に「北方」にひかれる面があるのだろう。寅さんは北海道にも何度も行くが、最後は加計呂麻島でリリーと暮らす。高倉健のイメージが北方志向で作られた意味は、日本の大衆文化の中で解かれなければならない謎だと思う。でも、ちょっと寒すぎる感じが僕にはしてしまう。
コメント (1)
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