尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

高橋洋子と吉田拓郎-映画「旅の重さ」の魅力②

2018年06月23日 23時37分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画「旅の重さ」の話、続き。この映画の魅力はオーディションで選ばれた主演女優の高橋洋子の存在感である。同じオーディションを秋吉久美子も受けていて、次点だった。本名の小野寺久美子名義で、ちょっと出ている。最後に少女が居つく漁師の村で、読書の大好きな不思議少女をやっている。その役もそうだし、その後初主演した松本俊夫監督「十六歳の戦争」、あるいは実質的なデビュー作「赤ちょうちん」など初期の秋吉久美子は繊細で不安定な役柄が似合った。

 高橋洋子(1953~)は2017年に全国公開された「八重子のハミング」で28年ぶりに主演した。もう若い人には忘れられた名前かもしれない。昨年シネマヴェーラ渋谷の東映実録映画特集で「北陸代理戦争」のトークショーを聞いたが、とても元気で記憶もしっかりしていた。ウィキペディアによると、都立三田高校卒業後、文学座の演劇研究所にいた時にオーディションに合格した。「旅の重さ」の翌年には朝ドラ「北の家族」のヒロインに選ばれた。74年には熊井啓監督「サンダカン八番娼館 望郷」で、「からゆきさん」役の田中絹代(ベルリン映画祭女優賞)の若いころを演じた。テレビにもたくさん出ていたし、僕の大好きな神代辰巳監督「宵待草」のヒロイン役も忘れがたい。 

 70年代には女優として大活躍していたが、1981年には「雨が好き」で中央公論新人賞を受賞して作家としてもデビュー。83年には自身で監督して映画化した。著書もたくさんあり、結婚もして、女優を引退したわけじゃないけど幸せに生きてきたということだろう。実人生が証明したように、高橋洋子には健康的で打たれ強いイメージがある。その強さが「サンダカン八番娼館 望郷」や「北陸代理戦争」でも生かされていた。「旅の重さ」の少女の、家出して男の家に居つくという突飛な行動を無理なく見せる若い肉体の存在感があった。映画を見ているうちに、なんだか誰かに似ているような気がしてきた。誰かと思ったら、カーリングの藤澤五月。えっ、全然違うかな?
 
 この映画の高橋洋子は生き生きとして強い。映画館で痴漢にあっても、逆襲して食事をおごらせる。さすがに真夏の四国を歩き回って最後には倒れるが、それでも独特のエネルギッシュさがある。(今の目で見れば熱中症という感じだ。)そんなすごい美人じゃないけど、映画でずっと見ているうちに親しみが湧いてくる。70年代に活躍した若い女優は秋吉久美子桃井かおりなども同様で、容姿だけで言えばクラスメートにだってもっと美人がいたかもしれない。でもこんな生き生きした親しみやすさは映画内でしか接するものじゃなかった。それにクラスメートのヌードは見れないけど、70年代の女優は映画内で胸も見れた。(高校生には重大。)

 この映画の魅力はいくつもあるが、よしだたくろう吉田拓郎)の音楽も大きいと思う。それまでの映画音楽をよく作っていた人よりも親しみやすい。それが成功かというと、ちょっと軽すぎる感じもある。映像や俳優と「対決」するような音楽じゃなく、映像に伴走して俳優を包み込むような音楽。でもそれが見ている若い観客には親しみやすい。吉田拓郎というのは、映画が作られた72年に「結婚しようよ」「旅の宿」がヒットした新進フォークシンガーである。71年には「広島フォーク村」や中津川の「フォーク・ジャンボリー」の活躍が伝説的に伝わってきていた。映画でテーマ曲になっている「今日までそして明日から」は71年7月に3枚目のシングルレコードとして出た曲だった。

 当時ベストテンの上位になった映画では現代音楽の作曲家が意欲的なスコアを書いていた。72年ベストワンの「忍ぶ川」では、松村禎三の音楽に一番感動した。物語や俳優以上に音楽にビックリしたのである。71年に1位、2位となった大島渚「儀式」、篠田正浩「沈黙」はどちらも武満徹の音楽で、非常に重要な力を発揮している。僕はそのようなアートシネマで現代音楽を知ったのだが、この映画の音楽はだいぶ違った印象がある。今回上映の作品を見ても、ゴダイゴ(青春の殺人者)、ムーンライダース(サチコの幸)、井上堯之(アフリカの光、太陽を盗んだ男)、頭脳警察(鉄砲玉の美学)などが音楽を担当している。映画も音楽も新しい時代になったのである。

 吉田拓郎自身も「フォークシンガー」というカテゴリーで登場してきたが、今思うとちょっと違っていた。72年に六文銭のメンバーだった四角佳子(よすみ・けいこ)と結婚、同時に「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 約束通り町の教会で結婚しようよ」などと抜け抜けと歌った「結婚しようよ」を大ヒットさせた。いわゆる歌謡曲と違う、後に「ニュー・ミュージック」などと呼ばれるようになる曲が商業的に大ヒットした最初の例だった。その後「神田川」(かぐや姫)、「学生街の喫茶店」(ガロ)、「心の旅」(チューリップ)などが僕の高校時代に大ヒットした。

 まるで「旅の重さ」のテーマとして作られたかと思うほど、「今日までそして明日から 」は映画内容にあっていた。「私は今日まで生きてみました 時には誰かの力を借りて 時には誰かにしがみついて 私は今日まで生きてみました そして今私は思っています 明日からもこうして生きてゆくだろうと」 「生きてきました」じゃなくて「生きてみました」と歌う感覚が映画の少女に近い。ラストで驚くような決断をするわけだが、それも「明日からもこうして生きてゆくだろうと」と歌って相対化される。これが若き人生の感覚だった。今思うと、そんなことを言ってることが若さなんだろうが、僕にはなんだか発見のような気がしたのである。(ワールドカップを見ながらのんびり書いてると、監督や原作の話に行かずの長くなってしまった。もう一回。)
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