尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小澤征爾、赤松良子、山本陽子、赤堀政夫他ー2024年2月の訃報①

2024年03月07日 22時13分38秒 | 追悼
 2024年2月の訃報特集。先月はロシアの反体制派指導者ナワリヌイ氏の訃報は別に書いた。世界的に大問題となったが、ここではそれ以上書かない。それ以外では、まず指揮者の小澤征爾が2月6日に亡くなり大きく報道された。88歳。何しろ翌日の朝日新聞は、2面全部を使って村上春樹の追悼文を掲載したぐらいで、これには驚いた。小澤征爾には大江健三郎との対談『同じ年に生まれて:音楽、文学が僕らをつくった』という本がある。この世代(特に男性)がどんどん物故している。僕は小澤征爾について全然知らない。母親の小澤さくら、娘の小澤征良の本は読んだのに、小澤征爾のコンサートには一回も行ってない。カラヤンやベームの来日公演には行ってるが、やはり日本の指揮者に関心がなかったのかもしれない。レコードやCDさえ持っていないのだから。
(小澤征爾)
 ボストンやウィーンが本拠地だったから、なかなか聴く機会もない。晩年になってサイトウ・キネン・オーケストラが毎夏松本でやってたが、あっという間に高額なチケットが売り切れてしまう。僕も一度は見たかったのである。小澤征爾が海外に本拠を移したのは、1962年の「N響事件」がきっかけとなった。NHK交響楽団と揉めて契約を解除されたのである。大問題となって、三島由紀夫、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、武満徹らが「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、日比谷公会堂で日フィルを指揮して実現したという。「征爾」の名は、「満州国」を作った軍人、板垣征四郎、石原莞爾から付けられたのは有名。
(小澤征爾)
 元労働省官僚で「均等法の母」と呼ばれた赤松良子(あかまつ・りょうこ)が6日死去、94歳。1953年に東大を卒業して労働省に入省、婦人少年局に配属された。1979年には国連公使として、女子差別撤廃条約に賛成票を投じた。1982年に婦人少年局長に就任し「男女雇用機会均等法」の立案に当たった。(85年成立。)その後、ウルグアイ大使などを歴任。退官後の1993年、非自民の細川内閣成立に際して、民間人枠から文部大臣に就任した。その後、2008年に日本ユニセフ協会会長に就任し、死去まで務めていた。最後まで選択的夫婦別姓制度や「クオータ制」(候補者に一定の女性を割り当てる)などの実現に向け活動した。
(赤松良子)
 女優の山本陽子が20日に死去、81歳。1963年に日活ニューフェースとして芸能界入りしたが、当時の日活には若手人気女優が多く脇役が多かった。70年頃からテレビや舞台で活躍するようになり、大河ドラマ『国盗り物語』や『となりの芝生』などで人気を得た。71年に森光子主演の『放浪記』で初舞台を踏み、94年の『おはん』では紀伊國屋演劇賞を受賞し、400回以上上演された。この人を一番見ているのはテレビCMで、山本海苔店との契約が42年に及び、ギネス世界記録に登録された。その印象から和服の印象が強いが、実生活ではジーンズでポルシェに乗るのが好きだったという。2月2日放送の「徹子の部屋」に高橋英樹とともに出演していた。誰が死んでも黒柳徹子との映像が出て来るのがすごい。
(山本陽子)
 女性史研究者のもろさわようこが29日死去、99歳。本名は両沢葉子。長野県に生まれ、地方紙記者などを経て、市川房枝主宰の「婦人問題研究所」の所員として「婦人展望」の編集者となった。その後女性史を研究し、『おんなの歴史』(1965)『信濃のおんな』(1969、毎日出版文化賞)など数多くの著書を通じて、先駆的な女性史研究を行った。82年に佐久市に「歴史を拓(ひら)くはじめの家」を開き、沖縄県南城市、高知市にも同様のオープンスペースを開設して晩年まで行き来しながら活動を続けた。
(もろさわようこ)
 元参議院副議長を務めた角田義一(つのだ・ぎいち)が23日死去、86歳。保守系が圧倒的に強い群馬県で長年野党系の中心として活動した。県議を経て社会党から国政に挑んだが2度落選、3度目の1989年に初当選した。95年に再選、その後民主党に移って、01年に3回目の当選を果たし、04年に参院副議長に就任した。しかし、07年に闇献金疑惑が報道され副議長を辞任した。07年参院選には立候補せず引退し、元の弁護士を続けながら、民進党、立憲民主党で活動した。群馬県民の森にあった「朝鮮人労働者追悼碑を守る会」の共同代表を務めて、撤去に強く反対していた。
(角田義一)
 2月24日に仲宗根美樹が死去、79歳。両親は沖縄出身だが疎開先の東京で生まれた。61年の「川は流れる」が大ヒット、62年以後に紅白歌合戦に5回出場した。71年に結婚して引退(その後、離婚・再婚)、歌手としては忘れられた感があるが60年代に人気歌手だった記憶はある。また「内山田洋とクールファイブ」メンバー、小林正樹が15日に死去、81歳。毎月歌手の訃報が続いている。
(仲宗根美樹)
 ダイソー創業者で、大創産業の社長、会長を務めた矢野博丈(やの・ひろたけ)が12日死去、80歳。若い頃は転職を繰り返したが、72年に東広島市で移動販売の「矢野商店」を創業。倒産した商品を引き取り移動販売するうちに、全品100円という販売方法に商機を見出した。77年に大創産業、87年から100円ショップの全国展開、01年には海外にも進出。国内4300店、海外25か国990店を有する規模に育て、「100円ショップ」「百均」という業態を確立した人物である。訃報で名前を知った人。
(矢野博丈)
 作家では児童文学者の谷真介(7日死去、88歳)、ミステリーの梓林太郎(1.27日死去、91歳)。スポーツで64年東京五輪レスリング、グレコローマンフライ級金メダルの花原勉(5日死去、84歳)。映画プロデューサーの叶井俊太郎(かない・しゅんたろう、16日死去、56歳)はフランス映画『アメリ』を買い付けて大ヒットさせた。漫画家倉田真由美の夫としても知られた。フジテレビのプロデューサー、黒木彰一(13日死去、54歳)は「笑っていいとも!」「SMAP×SMAP」などを担当した。物理学者俵好夫(13日死去、91歳)は俵万智の父だが、70年代に(当時は)世界で一番性能の高いサマリウムコバルト電池を発明した。佐々木宏幹(ささき・こうかん、26日死去、93歳)は、宗教人類学者でシャーマニズム研究の第一人者。もう一人、安倍晋三元首相の母、安倍晋太郎元外相の妻、岸信介元首相の娘である安倍洋子(4日死去、95歳)の訃報もあった。
 
 死刑確定事件で4件目の再審無罪判決を受けた赤堀政夫が22日死去、94歳。1954年3月に静岡県で起きた幼女殺害事件「島田事件」で逮捕、起訴され、60年に最高裁で死刑が確定した。83年5月に東京高裁が新証拠で自白の信用性が揺らいだとして再審開始を決定。その後高裁が検察の即時抗告を退け、87年に再審が始まり89年1月に無罪となった。この事件には深刻な問題(社会的偏見や鑑定の間違いなど)があった。80年代には免田事件、財田川事件、松山事件の3事件で「死刑から無罪」という再審事件があった。その被害者は赤堀さんで皆亡くなったことになる。そして今5件目の袴田巌さんの再審が開かれている。
(赤堀政夫)
 外国ではイタリアの映画監督パオロ・タヴィアーニが29日死去、92歳。兄のヴィットリオとともに、脚本、演出を共同で「タヴィアーニ兄弟」として映画を作ったことで知られる。『父 パードレ・パドローネ』(1977)でカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。その他幾つもの名作を作ったが、2018年に兄が死去。その後も一人で映画を作り『遺灰は語る』(2022)はベルリン映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した。日本公開時にはここでも紹介した。映画では『ロッキー』で敵役アポロ・クリードを演じたカール・ウェザースが1日に死去、76歳。
(パオロ・タヴィアーニ)
 マラソン世界記録保持者のケルビン・キプタムが11日にケニアで交通事故死、24歳。2023年10月のシカゴ・マラソンでキプチョゲの記録を34秒更新する2時間0分35秒をマークした。世界初の2時間切りを実現するとしたらこの人と言われていた。
(キプタム)
 他にノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングが17日死去、93歳。「平和学の父」と呼ばれる。貧困や差別のない「積極的平和」という概念を提唱したことで知られる。日本でも中央大、立命館大などで教えたことがあり、多くの邦訳書がある。ソ連時代の元首相ニコライ・ルイシコフが28日死去、94歳。ゴルバチョフ書記長のもと、85年に首相となってペレストロイカを推進したが、次第に保守化して90年に解任された。ソ連崩壊後に一時国会議員を務めた。カナダの元首相ブライアン・マルルーニーが29日死去、84歳。1984年から93年まで進歩保守党で首相を務め、アメリカとの自由貿易協定を締結した。

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