尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東近江市長の「フリースクール否定発言」を考える

2023年10月29日 21時37分57秒 |  〃 (教育行政)
 滋賀県東近江市小椋正清(おぐら・まさきよ)市長が10月17日に「フリースクール否定発言」をして問題になっている。10月3日には昨年度の調査結果が文科省から公表され、そこでは「いじめ」も「不登校」も過去最多になったと発表された。この「不登校増加」という問題をどう考えるべきか。小椋市長発言をもとに、少し考えてみたい。
(国家の根幹を崩すと発言)
 発言内容に入る前に、「東近江(ひがしおうみ)市」がどこにあるか見ておきたい。21世紀になって合併による新市名が多すぎて見当がつかない。調べてみると、2005年に八日市市、永源寺町、五個荘町、愛東町、湖東町が合併して誕生し、翌年には能登川町、蒲生町も編入した。その結果、琵琶湖畔から三重県境の鈴鹿山脈まで東西に広がる広大な面積になって、実に不思議な形をした自治体である。永源寺や「湖東三山」のひとつ百済寺など、昔行ったことがある名所も今はここに所在している。

 小椋市長は2013年に初当選し、その後も当選を続け現在3期目。1951年4月生まれの71歳で、八日市市の小中学校を経て彦根東高校、同志社大学を卒業した。1976年に滋賀県警に採用され、長浜警察署長などを務め、2013年に自民党、日本維新の会、公明党、みんなの党(当時)の推薦を得て立候補し、現職の西澤久夫市長を破って当選した。このように保守系の中でも特に「警察官僚」出身ということで、「国家主義」的発想が極めて強い人物なのではないかと思う。

 発言は滋賀県の首長会議で行われたもので、会議中の発言なので必ずしもまとまっていない。切り取ることになるが「文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに愕然としている」「国家の根幹を崩しかねない」「フリースクールがあるんだったらそっちの方に僕も行きたいっていうなだれ現象が起こるんじゃないか」「私はその怖さを感じています」などと発言。さらに同会議後のマスコミ取材に「不登校は大半は親の責任。財政支援を国が言うべきではない」などと発言した。

 発言に批判が集まり、保護者を傷つけたとして謝罪したものの発言そのものは撤回しないと何度も強調している。正直言って「今どきこんなことを言う行政トップがいるんだ」とある意味「感心」してしまった。「教育は国家のためにある」という信念が根強いんだと思うが、文科省がフリースクールを認めているのはそれなりの国家戦略があると理解出来ないんだろう。それとともに、市長は教育内容に介入してはならないが、教育環境整備の責任はある。行政トップが親に責任転嫁しているようでは困る。
(撤回はしないと発言)
 文科省統計によれば、小中学生の不登校は約30万人に上り、過去最多だと報道されている。(下記の画像は昨年度のグラフ)。10年連続で増えていて、特に小学生の不登校が増加していることは下記のグラフで確認出来る。それはコロナ禍の影響などとともに、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」でフリースクールや自宅でのICT機器を活用した学びなどを「公認」したことも大きいと文科省が分析している。
(不登校数の変遷。2022年発表まで。)
 だが僕からすれば、その分析は一番肝心なところを外している。一番重要なのは、小学校の新指導要領にある。僕は発表された時に『「亡国」の新指導要領ー「過積載」は事業者責任である』(2016.9.5)を書いた。広く知られているように、小学校では「英語」「プログラミング」などが必修とされ、また「道徳」も教科となった。代わりに何か減ったかといえば、何も減っていない。ゆえに僕は「過積載」と表現したのだが、現実に週にギリギリの授業を詰め込み行事なども削減しなければこなせないだろう。

 これでは「仕事だけ増えて、給料も社員も増えない会社」みたいなものである。退職したり、病気になる社員が増加するのは、当然だろう。同じように今の教育現場、特に小学校などは、教師も集まらないし生徒も不登校が増える。「教員不足」と同じく、「不登校増加」も当然予想された結果に過ぎず、国家的な「不登校増加政策」を実施しているから、その「効果」が出ているのである。それがマズいと思うなら、文科省の政策自体を批判しなければならない。
(フリースクール関係者に謝罪)
 ところが、「何が何でも親や生徒が頑張れば、学校へ通えるはずだ」などと考えてしまう「頭の古いタイプ」がまだまだ存在する。自分の頃(半世紀以上前)は、「頑張れば何とかなった」のだ。小学校で英語なんかやらなくて良かったし、勉強についていけなくなっても我慢して机に座っていれば何とか卒業出来た。しかし、今は違うのである。「自ら学ぶ」ことが求められ、「発表」が求められる。単に少々内気なだけの子どもは、思い切って「頑張る」ことも大事だろう。しかし、もっと難しい問題を抱え持った子どもは居場所が見つけにくい。自分の通った時代の学校とは時代が全然違っているのだ。

 文科省は「総合学習」を残し「アクティブラーニング」を求めながら、一方で「学力重視」「授業量増加」を求める。それでは溺れかかる子どもが増えるのは当然だ。そのことを判っているから、そういう子どもたち向けのフリースクールなどを公認するのである。それで良いと国家として判断しているのだ。それは「出来る子だけ育てれば良い」ということなのだろう。「少子高齢化」で学校に掛ける予算は今後減らさざるを得ない。国家も、学校それぞれも「出来ることだけやっていく」がホンネだろう。

 今は教員のなり手不足が深刻化し、「教員不足」が常態化しつつある。教員になりたくないような学校現場から、逃げ出す児童・生徒がいても誰が責められるだろう。「不登校が多い」ことを問題と考えるなら、その批判は親や子どもではなく教育政策に向けなければならない。
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