教育に関するニュースがあると、大体新聞を切り抜いておくことにしている。(歴史ニュースや書評、映画評、訃報などの切り抜きも何十年分かあると思う。)最近書いている文科省の教員調査やOECDの中学教員調査も、そういう新聞切り抜きをもとにしている。別に目新しい結果でもなかったから、特に急いで書く必要もないなと思った。本当は佐世保の事件に関して、「いのちの教育」について書きたいと思ったのである。それがどうして「教員多忙問題」を先に書いているかというと、「教育現場にはこういう問題がある」ということを判っていないで、「いのちの教育は生かされたのか」などと議論するのはおかしいと思うからである。今、教育論議にまず必要なのは「教室の現象学」ではないかと思う。
さて、「長時間のボランティア労働」を強いられている教師は、学校や生徒についてどのように思うようになるだろうか。当然のこととして、「自分はこれだけ(無償で)頑張っているのだから、生徒も教師の頑張りにこたえて欲しい。頑張ってついてきて欲しい」と思うだろう。たとえば、学校施設を使って朝早くから部活動を行う時には、もちろん責任者の顧問がいなければならない。だから顧問は早起きして学校に来たのに、部員がサボっていたらどう思うだろうか。しかし、そんなことは生徒の側ももちろん判っているから、生徒だって頑張って朝早くから来るのが普通である。こうしてお互いにホンネとしては辛いと思いつつ、「お互いに大変なことを自分たちに課して、それを一緒に乗り越える」ことが目標となってしまう。自らの「無償労働」の対価として、生徒の「無償の評価」を求めるのである。
僕はこのような、日本の教育の本質的なありかたを「共苦の共同体」と名付けている。「一緒に苦しむ」の内容が「体罰」に至ってしまう教師もいる。そのような学校空間に居場所を見つけられず、「不登校」として「学校社会を下りる」ことで苦しむ生徒もいる。「体罰教師」と「不登校」は、普通は全く別の問題と見なされがちだが、本来は「共苦の共同体」としての学校というメダルの裏表ではないか。それどころか、日本の教育というのは、「小学校のお受験」から「大学生の就活」まで、苦しむ内容と相手は少しづつ変わりながらも、ずっと「何かよく判らないものに、誰かと一緒に耐えていく」という体験なのではないか。そして、それを「大人になるために必要なイニシエーション」と考えているのが日本社会の「世間知」ではないかと思う。
この「生徒に無償の評価を求めてしまう」という罠を逃れている教師はほとんどいないと思う。もしいるとすれば、生徒に影響を持っていない教師だけである。部活動は複雑な問題をはらんでいるので、ちょっと別に考えたいが、近年になって非常に「苦しい共同体験」になっているのが「進路指導」だろう。「就職氷河期」と言われてきた労働市場はいくらか明るさが見えてきたと思うが、20世紀末からつい近年まで、とにかく毎年毎年大変なこと続きだった。受けても受けても落ちる生徒もいるわけで、「一緒に苦しむ教員」の心労も大きかった。また大学の推薦入学制度が非常に複雑になったので、学校見学から小論文指導、面接練習など教師の方も生徒に無理とも思える要求を繰り返し、一緒に苦難を乗り越えていくという感じになっている。結果が出る日は、教師もドキドキして報告を待つわけである。
でも進路指導は、まあ相手の要求に応えるしかないので、ある意味ではまだ楽とも言える。大変なのは、必ずしもうまく行っていないクラスの担任として学校行事を迎えるような時である。うまく行くのか行かないのか、当日までハラハラしながら、協力してくれる生徒たちとともに最後までジタバタする。うまく行っている他クラスもあるというのに、「うち」はちゃんとできるんだろうか。こういう時の担任のプレッシャーはとても大きく、だからこそそういう時に一緒に頑張ってくれる生徒(は必ず何人かはいる)の存在はとても大きい。「無償の労働」には無償でこたえてくれる生徒もいるわけで、それが教師が「自分の労働の無償性」に無自覚になる原因にもなっている。とにかく、よほど恵まれている学校に勤務している少数の教師を別にすれば、問題生徒や保護者対応には細心の注意がいるわけで、教員生活が苦しい日々の連続になっている場合がかなり多いのではないか。
学校行事や部活動、進路指導などで培われる「共苦の共同体としての学校」は、「日本社会の中で生きていく時に役立つ力」を育てる面は否定できないと思う。だから、全面的に否定することはできないし、しても意味はない。でも、「それでいいんだろうか」「もっと違う学びのあり方はないのだろうか」と問うことは大切なのではないだろうか。今は学校にいる間はずっと苦しいこと続きで、「頑張っているいい子」もどこかで切れてしまいやすい。切れずに就活まで頑張っても、そこで「学び」が終わってしまう。あるいは大学入学時に終わってしまう人もいる。つまり、「オトナが学ばない社会」になってしまっている。都議会のヤジ問題や「アイヌ民族はもういない」とツイートした札幌市議など、その問題をきちんと学ばずに発言しているのである。むしろ、深く学ばずに俗論を言えるのが「オトナの証」だとでも考えているのではないか。そういう社会を作ってしまったことを、教育関係者は深く反省する必要があるだろう。小中高と学びを深め、大学で専門領域を学んで、そこで身に付けた「学ぶことの方法」を駆使して大人になっても自分なりに学び続けて行く。そういうリーダーが育っていないのは、日本の教育の現状のあり方に原因があるのではないか。単に「教師の長時間労働は良くない」というレベルより、もっと深い問題性があるのだと考えている。
では長時間労働はどうすればいいのか、さらに学校のあり方はどうあるべきか、部活動のあり方は…などどんどん話は広がって行くが、ちょっと間をはさんで来月に続けていきたい。そして、若い教員に期待するもの、人権教育のあり方、学校行事の話など、映画や本の話をはさみながら、日本の学校論として考えてみたいと思う。
さて、「長時間のボランティア労働」を強いられている教師は、学校や生徒についてどのように思うようになるだろうか。当然のこととして、「自分はこれだけ(無償で)頑張っているのだから、生徒も教師の頑張りにこたえて欲しい。頑張ってついてきて欲しい」と思うだろう。たとえば、学校施設を使って朝早くから部活動を行う時には、もちろん責任者の顧問がいなければならない。だから顧問は早起きして学校に来たのに、部員がサボっていたらどう思うだろうか。しかし、そんなことは生徒の側ももちろん判っているから、生徒だって頑張って朝早くから来るのが普通である。こうしてお互いにホンネとしては辛いと思いつつ、「お互いに大変なことを自分たちに課して、それを一緒に乗り越える」ことが目標となってしまう。自らの「無償労働」の対価として、生徒の「無償の評価」を求めるのである。
僕はこのような、日本の教育の本質的なありかたを「共苦の共同体」と名付けている。「一緒に苦しむ」の内容が「体罰」に至ってしまう教師もいる。そのような学校空間に居場所を見つけられず、「不登校」として「学校社会を下りる」ことで苦しむ生徒もいる。「体罰教師」と「不登校」は、普通は全く別の問題と見なされがちだが、本来は「共苦の共同体」としての学校というメダルの裏表ではないか。それどころか、日本の教育というのは、「小学校のお受験」から「大学生の就活」まで、苦しむ内容と相手は少しづつ変わりながらも、ずっと「何かよく判らないものに、誰かと一緒に耐えていく」という体験なのではないか。そして、それを「大人になるために必要なイニシエーション」と考えているのが日本社会の「世間知」ではないかと思う。
この「生徒に無償の評価を求めてしまう」という罠を逃れている教師はほとんどいないと思う。もしいるとすれば、生徒に影響を持っていない教師だけである。部活動は複雑な問題をはらんでいるので、ちょっと別に考えたいが、近年になって非常に「苦しい共同体験」になっているのが「進路指導」だろう。「就職氷河期」と言われてきた労働市場はいくらか明るさが見えてきたと思うが、20世紀末からつい近年まで、とにかく毎年毎年大変なこと続きだった。受けても受けても落ちる生徒もいるわけで、「一緒に苦しむ教員」の心労も大きかった。また大学の推薦入学制度が非常に複雑になったので、学校見学から小論文指導、面接練習など教師の方も生徒に無理とも思える要求を繰り返し、一緒に苦難を乗り越えていくという感じになっている。結果が出る日は、教師もドキドキして報告を待つわけである。
でも進路指導は、まあ相手の要求に応えるしかないので、ある意味ではまだ楽とも言える。大変なのは、必ずしもうまく行っていないクラスの担任として学校行事を迎えるような時である。うまく行くのか行かないのか、当日までハラハラしながら、協力してくれる生徒たちとともに最後までジタバタする。うまく行っている他クラスもあるというのに、「うち」はちゃんとできるんだろうか。こういう時の担任のプレッシャーはとても大きく、だからこそそういう時に一緒に頑張ってくれる生徒(は必ず何人かはいる)の存在はとても大きい。「無償の労働」には無償でこたえてくれる生徒もいるわけで、それが教師が「自分の労働の無償性」に無自覚になる原因にもなっている。とにかく、よほど恵まれている学校に勤務している少数の教師を別にすれば、問題生徒や保護者対応には細心の注意がいるわけで、教員生活が苦しい日々の連続になっている場合がかなり多いのではないか。
学校行事や部活動、進路指導などで培われる「共苦の共同体としての学校」は、「日本社会の中で生きていく時に役立つ力」を育てる面は否定できないと思う。だから、全面的に否定することはできないし、しても意味はない。でも、「それでいいんだろうか」「もっと違う学びのあり方はないのだろうか」と問うことは大切なのではないだろうか。今は学校にいる間はずっと苦しいこと続きで、「頑張っているいい子」もどこかで切れてしまいやすい。切れずに就活まで頑張っても、そこで「学び」が終わってしまう。あるいは大学入学時に終わってしまう人もいる。つまり、「オトナが学ばない社会」になってしまっている。都議会のヤジ問題や「アイヌ民族はもういない」とツイートした札幌市議など、その問題をきちんと学ばずに発言しているのである。むしろ、深く学ばずに俗論を言えるのが「オトナの証」だとでも考えているのではないか。そういう社会を作ってしまったことを、教育関係者は深く反省する必要があるだろう。小中高と学びを深め、大学で専門領域を学んで、そこで身に付けた「学ぶことの方法」を駆使して大人になっても自分なりに学び続けて行く。そういうリーダーが育っていないのは、日本の教育の現状のあり方に原因があるのではないか。単に「教師の長時間労働は良くない」というレベルより、もっと深い問題性があるのだと考えている。
では長時間労働はどうすればいいのか、さらに学校のあり方はどうあるべきか、部活動のあり方は…などどんどん話は広がって行くが、ちょっと間をはさんで来月に続けていきたい。そして、若い教員に期待するもの、人権教育のあり方、学校行事の話など、映画や本の話をはさみながら、日本の学校論として考えてみたいと思う。
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