尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「尖閣」と「竹島」③

2012年09月20日 23時42分02秒 |  〃  (国際問題)
 「尖閣」1回、「竹島」1回で終わるつもりで書き始めたけど、竹島問題も2回が必要な感じ。いろいろ調べたり考えたりすると、僕はどうも「竹島問題」の方がやっかいな問題ではないかという気がしてきた。少なくとも「北方領土」が解決する前に「竹島」が先に解決することはないような気がする。「尖閣」「北方領土」は単純な2国間問題ではなく、国際的にリンクしている問題である。一方、「竹島問題」は純粋に2国間の問題で、両国は政治体制も同じなのだから、話し合って解決策を見出せばいいわけだけど、だからこそ難しい。今までの主張を変えれば国内問題になってしまう。それを乗り越えるだけの強力な政治体制は、少なくとも日本では今後しばらく出て来そうもない。

 日本にとって国境の小さな島は死活的な重要性を持っていない。しかし、韓国との政治・経済・文化的関係は日本にとって死活的に重要である。それは基本的には韓国にとっても同じだろう。領土問題では対立も抱えながら、それで重要な関係を全部損なってはならない。だから日本側からあえて挑発的な行動に出ないことが大切だと思うけど、「実効支配」している方の韓国の側が大統領が訪問したり「天皇謝罪発言」をして問題を大きくしている。自分たちで支配してるのに、オリンピックで「独島は我らのもの」などというスローガンを掲げたりする。他の国からすれば、「その独島っていうのは、きっと日本に不当支配されてるんだろうな、だから韓国人は怒ってるんだろうな」と思うだろう。事実は逆で、今は韓国が支配しているんだから、なんで韓国は自分で問題を難しくしているんだろうか?「やっぱり「不法支配」しているという「負い目」があるのかも?」と日本側の文脈では思われてしまう。そのことに日韓の歴史的、文化的な「誤解の構造」があるのではないかと思う。

 「竹島問題」で考えるべき問題には次のようなものがあるだろう。
「竹島」そのものの領有権の歴史的な検討
近代の日韓関係、日本の韓国植民地支配の歴史をどう考えるか
戦争と戦後の問題。条約の理解、「李承晩ライン」による「不法占拠」等の問題
今回の発言の原因ともなったといわれる「従軍慰安婦問題」をどう考えるか
大統領発言の国内的背景、及び「天皇謝罪発言」の問題

 これを全部きちんと調べて正確に書こうと思えば、ものすごい時間と量を必要とする。はっきり言うと僕にはそこまでの関心は持てない。そこでそれぞれについて簡単に触れながら、僕の理解の及ぶ範囲で書いてみたい。長く書いて最後に結論を書くと読んでもらえない。そこで最初に結論を書いてしまう結論は「どちらとも言えない」である。僕には日本側の説明が完全に領有権を証明しているとは思えない。しかし同時に完全に韓国の「固有の領土」であるという考え方も無理があると思う。

 僕が思うに、前近代の「近代国家の領土概念」のない時代に、誰が行ったとか見つけたとかの古文書を双方で挙げていっても、それが決定的な証明になるのだろうか。ホームページを見ると、かなり複雑な今までの古文書の存在を知ることができる。いろいろなサイトがあるが、基本的なものとして日本の外務省のものを挙げておく。(日本語で読める韓国のものとしては、慶尚北道による「韓国の島、独島」がある。)それらを簡単に見て思うことは、前近代においては「どちらも有効な支配はしていない」という事実である。それは当たり前で、どっちかの国の住民が定住して貢租を負担していれば、それこそ「支配」ということになるが、どっちも定住していない。しかし、日本(江戸幕府または各藩)も韓国(朝鮮王朝)もそれぞれ出かけていったり利用したりした事実はある。その頃の日本側古文書では、「鬱陵島」(うつりょうとう=ウルルンド)(リンク先は韓国観光公社)(人口1万ほどの有人島)の方を日本側文献では「竹島」と呼び、「竹島」の方は「松島」と呼ばれていた時代があると書いてある。日本は鬱陵島の領有を主張したことはなく、江戸幕府は渡航を禁止したりしている。つまり「竹島への渡航禁止」であるが、日本はこれを「鬱陵島への渡航禁止」と解釈するわけである。そこらへんはかなり面倒で、「歴史大好き人間」の僕でも面倒だなあと思ってしまう。ここらへんはもう「学術的な領域」で、それで韓国領、日本領の最終決着が着くわけでもないだろうと思う。

 結局は近代における「竹島の島根県編入」を日韓関係史の中でどう位置付けるかという問題になる。日本にとっては「国境の領土問題」であるが、韓国は「日本はまず独島を奪い、その後にウリナラ(我が国)全体を奪った」と考えて、そのように主張している。それが正しいなら、これは確かに「死活的な重大問題」であり、竹島領有に韓国がこだわるのも当然ということになる。日本が竹島を領土に編入すると閣議で決定したのは1905年1月28日、島根県が登記を終了したのは5月17日である。日露戦争の開始は1904年2月8月に第一次日韓協約が結ばれ、保護国化へ進んでいる。この時は事実上、日本の軍事占領下にあると言ってよく、1905年5月27日に竹島から遠くない海域で日本海海戦が起こる。韓国の外交権を奪い統監を置くとする第2次日韓協約は11月17日。だから「竹島編入」時は韓国(当時の国名は大韓帝国)は形式的には外交権があった。だけど「韓国は当時抗議していない」などと言う人もいるが、こうした流れを見ると、明らかにそういう言い方は不当だろう。韓国は事実上抗議できるような状況ではない

 しかし「独島を奪った」というけど、韓国人住民を追い出して支配権を確立したというようなものではない。韓国も正式には領有権を主張はしていなかった無人島を領土としたわけである。ここを「日本が日露戦争下に強奪した」ととらえると、第二次世界大戦中のカイロ宣言による「日本が戦争で獲得した領土の放棄」に引っかかってくる可能性がある。しかし、戦争またはそれに類する条約で日本の領土となった地域とは、形式上は違っている。日本が降伏し占領軍の支配下にあった時代は、朝鮮半島は米ソで南北に分けられ(南半部は米軍の軍事統治)、日本本土は米軍を中心とする占領軍による間接統治にあった。その時「竹島」は島根県だから、日本本土の占領軍の支配下にあったということになるだろう。だけど、1952年1月、前年のサンフランシスコ平和条約の発効直前に、当時の韓国大統領、李承晩(り・しょうばん=イ・スンマン)による一方的な海上の線引きがなされた。(当時は朝鮮戦争中。)これを「李ライン」と呼び、日本人漁民がたくさん韓国に拿捕(だほ)される事態が相次ぎ、当時は大問題だった。(韓国側の発砲により多数の死傷者も出ている。)この「李ライン」はアメリカ当局が認めたものではない。その後も米軍は竹島で爆撃訓練をしようとするなどの動きもあり、米国は当時「竹島は韓国領」と認めてはいないようである。この韓国による「実効支配過程」は、確かに法的根拠があるわけではなく「不法支配」と言えばそう言えるかもしれない。韓国側主張の弱い点は、「自国の主権が制限されていた時に勝手に奪われた」と言いながら、自国側も「日本の主権が制限されていた時に、武力で奪い返した」という戦後の経緯にあるのではないかと思う。

 しかしながら、このような経緯を振り返って思うのは、「竹島には住民はいなかった」という点である。日本の朝鮮半島支配、日本の中国侵略戦争、アメリカによる原爆投下や沖縄支配、ソ連による「ポツダム宣言後」の千島攻撃や「シベリア抑留」、台湾の国民党による「二・二八事件」(1947年)、韓国済州島の「四・三事件」(1948年)、朝鮮戦争、中国の文化大革命、北朝鮮による大韓航空機爆破事件や日本人拉致事件…、東アジアの20世紀現代史の血まみれの悲しい非道の歴史を数々思い出すとき、住民のいない辺境の一孤島が、どうでもいいとは言わないけれど、一番大切なものと言えるだろうか。僕は「竹島」領有権を昔にさかのぼって調べても、どちらかに決定的に有利な根拠があるとは思えない。まさに「政治決着」がいつの時点かで、両国民の叡智で必要となると思う。(その問題はまた次に書く中で考えたい。)
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