尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

究極の「大学入試全廃論」

2015年01月18日 23時10分27秒 |  〃 (教育問題一般)
 「センター試験」、つまり「独立行政法人大学入試センター」によって行われる「大学入学者選抜大学入試センター試験」も終わった。翌日の朝刊に問題が載るから、昔は調べていたんだけど、あまりにも字が小さくて見えなくなってきた。大体、僕なんか今でも「共通一次」なんて口走ってしまう世代である。自分の時はそれさえなくて、国立は一期校、二期校と別れていた、今調べてみると、1979年から89年まで「共通一次試験」が行われ、1990年から「センター試験」になった。

 そのセンター入試も、今や抜本的改革が目前に迫っていて、2020年度(今の小学6年生が大学に進学する年)から「「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」に変えられる見通しになっている。この変更は、まあうまくいけば今より改善される面もあるけど、要するに試験制度というものは何をしようが一長一短。何にせよ、学校現場は大学や高校はもちろんのこと、教育界全体に大きな影響を与えることになる。要注目だけど、自分にはほとんど関係がないから、あまり細かな関心はない。それより、学校現場を離れたころから、いっそ「大学入試そのものを止めてしまっては」などと思うようになった。まあ、夢想であって実現可能性はない。だけど、一度書いておきたいと思うのである。

 僕の今言う「全廃」とは、「学力試験を廃止する(推薦入試のみにする)」とか「推薦入試を廃止する(学力試験のみにする)」とかを指すのではなく、本当に「大学入試そのものをなくしてしまう」ということである。つまり、「誰でも東大に入れる」ということになる。まずいでしょ、それはと多くの人は思うだろう。でも、東大卒を劇的に増やそうというのではない。勝手に入れるけど、学力が低くて付いていけなければ、卒業できないだけである。それでいいと思うということである。今は試験を課して入学者を選ぶから、「入れた責任」などと言って、学力不足の者に補習をしたり、学生が問題を起こすと大学が謝ったりしている。そんなことは本来全く必要ないことである。大学も推薦入試から始まり、余計な業務が多すぎる。私立大学は莫大な宣伝費をかけて豪華なパンフを作り、説明会を毎週のように行う。そんなこともいらない。「就活」なんてものもなくなる。学生の相当数が4年では卒業できなくなるので、3年生のうちから就職活動をすることはできなくなる(ようにしてしまう)。

 何で大学入試というものがあるんだろう?それは「入学者に一定の学力を求める」ということと、「教室やキャンパスにはキャパシティーの上限があり、授業で受け入れ可能な数に絞る必要がある」からということだろう。それはあらゆる組織(集まり)には皆つきまとう問題である。普通だったら、音楽やスポーツなんかの人気チケットは、「値段に差をつけて先着順」である。またはそれに一部「抽選」を加味する。しかし、学力差があるから大学入試を抽選にはできないし、人気のある大学や学部だけ入学金を高くするのもおかしいだろう。(東大医学部は入学金1千万、某地方私立大は入学金10万、とか「市場価格」で差をつけて「先着順」で受け付けるなどというのも、おかしな話だろう。)

 もちろん、入試を全廃してもキャパシティー問題が残ることは同じである。学校に入っても授業がなければ問題だから、高校や私立の小中などではやはり入試が必要だろう。でも大学生なんかは、配慮する必要があるのだろうか。つまり、東大に入りたければ入学金さえ払えば入れるようにする。だけど、必修の英語の授業なんかは希望学生が殺到することになるから、講座登録時に試験を課すことになる。それは各講座を担当する大学の先生が自由に問題を作ればいい。(今だって希望者が多いゼミなんかは、担当者が選抜してるのと同じ。)一応、「到達度テスト何点程度」といった目安はいるだろう。だから「到達度テスト」はあった方がいい。学力が低いのに東大に入りたい生徒は、勝手に入ればいいけど、一年間ひとつの授業も受けられないというだけのこと。それでも登録者は多くなるだろうから、どの講座でも目指すべき到達目標に達しない学生には単位を与えないことを徹底する。(どの大学でも。)

 今までは、入るのが大変だから「○○大学に入るなんてすごい」と、入っただけで評価される本末転倒が生じていた。でも、本来は入った大学で何を学んだかのはずである。入試をなくしてしまえば、東大に入ったからスゴイなどという人はいなくなる。「東大を卒業したのはスゴイ」ということになる。それは最後の最後の3月にならないと判らない。よって、就活も何もするわけにいかず、卒業出来てから初めて、次の活動を行うことにならざるを得ない。でも、もしそうなったら、そもそも大学に入る意味が全然変わってくるから、大卒で就職するということ自体が変るはずである。つまり、入試がないんだから、いつでも編入もできるし、いつ退学しても大したことはない。それどころか、高卒ですぐ大学へ行く必要も少なくなる。働いたり、留学したり、ボランティアしたり、様々な体験をしてから、大学でもっと勉強したくなったという人が増えるだろう。

 それより、そもそも自由にどこでも入れるなら、何も東大京大、慶應早稲田などと無理することもないということにならないか。無理して高い大学に入って、授業登録もできないくらいなら、自宅に近い大学で英語や必修の一般教養科目を取ればいいではないか。特に地方の高校生はそう判断する人も多いだろう。そこでじっくり勉強して、2年で辞めて専門課程は自分が本当に勉強したい分野の教授がいる大学に入り直した方がいい。もちろん、その時も編入試験はない。最後に卒業する大学は、やはり「ブランド」が求められるかもしれないが、卒業までに大学を変えたり、専門学科を変えるのは当たり前になっていくだろう。

 今書いたように、私立大学も入試をなくせばいいと思うんだけど、そうすると受験料収入が無くなってしまう。それは経営に大きな影響を与えるだろうから、大胆に公費で補助する必要がある。実質的に高等教育無償に近づける方がいい。国民経済全体から考えると、受験と受験準備にかけている家庭の私的負担がなくなるから、プラスになるんではないだろうか。浪人がいなくなるので、予備校は大変だと予想しがちだけど、自分の学力レベルを判断するためには全国模試がかえって重要になるし、大学に入ってからの勉強を支援する(そうでないと何年いても英語の必修科目を修得できない)という新しい需要が生まれるはずである。今は学校教育も社会全体も、どこでも良ければともかく「全国ブランド」大学へ入るには大変だから、経済力格差も影響するし、受験テクニックも必要になるし、高校以下の教育も進学指導に時間を取られる(あるいは、進学指導をネタに生徒を引っ張っていく)ことになる。大学入試なんてものをなくしてしまえば、本当に勉強したいときに本当に勉強したい大学へ行くようになるのではなかろうか。という夢想である。こんな「革命的」転換が日本で実現することはないだろうなあ。
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4 コメント

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入りやすく、出にくい学校を! (清水新也)
2015-01-19 00:47:09
仰ること、よく分かります。
合格させた以上、責任をもって卒業させる。
当たり前のことなんですが、これが、おかしな転用にも繋がってます。

本人の努力が見られず、進級や卒業に満たない場合は、原級留置でも構わないと思います。
もちろん、教員サイドとしても、できる限りのことをして。
評価されるのが怖いのか、管理職の中には留め置くことを嫌がる者もいます。

チャンスは平等に、努力が正当に評価される教育現場になるべきだと思います。
貧富の差に関係なく、学びたい者が学べる場が必要です。

貧しい家庭の子は、学びたくても進学できずにいます。
奨学金制度の改革も必要です。
改革をし、受け入れる窓口を広くしないと、負の連鎖を断ち切れません。
当然、国家自体についても、大きな問題(損失)でもあります。
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ちょっと補足 (ogata)
2015-01-19 21:34:47
 コメントありがとうございます。
 ところで、 「原級留置でも構わない」というのは、「学年制」の高校に当てはまることですよね。実際に僕は単位制の高校に勤務したけど、そこでは「原級留置」とは言わないから。(単に卒業年度が延びるだけ。)

 でも、学年制高校では、あるいは中学では、できるだけ原級留置は避けた方がいいと思います。やはり最後の最後まで(というのは、本来は学年末の3月31日まで)指導していくのが本当だろうと思います。

 ところで、大学はもともと完全に単位制なんだから、取れた単位を持って、他の大学へどんどん移ってもいいはずです。現にそういう人もある程度いますが。

 僕のこの案は、公費による高等教育無償政策の一環なので、実現はしないものでしょう。ただ、もしこの案をマジメに実行した時には、英語等は地元大学で取ろうとしてるうちに、大都市に出てくる気を逸したり、一緒に通う学生を好きになってずっと地元でいいやと思う学生が増えるだろうことが予想されます。まあ、それも良しかもしれませんが。
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Unknown (呉一郎)
2015-02-17 20:25:06
実現したら面白そうですね。なにより「君、大学も行ってないの?」と言われるのが嫌で、勉強が好きでもないのに、のこのこ大学へやって来て、何をしているかと思いきやアルバイトとコンパにばかり精を出しているという人たちや、暗記や交通整理はできるけれども、血ヘド吐いて苦しんだり抑圧された経験がないから、大した問題意識もないし、無理にひねり出そうとすれば、自尊心と差別意識の塊みたいな論文を書いて来る、みたいなことが無くなります。そういう人たちは、そもそも大学へ来なくなるでしょう。受験勉強(暗記)ではなく、あらゆる分野の知を集結させて問題と格闘するという学問(研究)ができるほど、命がけの情熱が無ければ、大学から死ぬまで出られない訳ですから。更に懐かしのイリイチじゃないですけど、ものを教えるのに資格免状を問わなくなれば、わざわざ大学院まで入院しに来る人はぐんと減るでしょう。ちなみに小生は現在、入院のための受験勉強中です。
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実現はしないけど (ogata)
2015-02-17 22:54:47
 お久しぶりですね。そうですか、頑張ってください。
 ところで、僕の「大学入試全廃論」は実現しませんね。私立大学の権威と権益が揺らぐわけで、私立学校というものは、現体制の基盤ですから。前に書いたように、東大卒の宰相など(鳩山由紀夫を除き)最近はいないので、私立大出身者ばかりですから。

 それはとにかく、僕の書いた制度になれば、大学に行く意味もないのに、確かにすぐ入る人はいなくなりますね。いつでも行けるなら、後でもいいわけだから。それより「途中で辞めたり、復活したり」が多くなるのではないかと思います。経済的理由ややりたい分野が変わるなどの理由もあるだろうけど、一年は外国へ行くとか、ボランティアするとか、疲れたから休むとか、そういうのが多くなるはずで、それでいいと思うわけです。まあ、何にしても「誰でも大学院に行ける制度」は提唱しませんから、そこは試験が必要ですね。
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