尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教員の「出願ミス」という問題ー東京では起こらないニュース

2024年04月25日 22時34分18秒 |  〃 (教育問題一般)
 「クラス替え」に続いて、「願書の提出ミス」という問題を考えたい。これは時々報道されているから、各地で起こる問題なんだろう。『「教師の事務的ミス」という大問題』を2015年に書いたことがある。教師も人間なんだから、当然幾つかのミスを避けられない。自分も同様だけど、進路先の出願を忘れてしまうという致命的ミスは起こさなかった。当然である。東京では高校の出願には生徒本人が行くことになっているから。東京から見ると、何で学校がまとめて出願するのか理解出来ない。

 全国各地の学校には様々な慣習があって、学校にも「謎ルール」がいっぱいある。最近新聞で見てビックリしたのは「水滴チェック」。「修学旅行などの宿泊行事で入浴後、教員が児童生徒の体がぬれていないか全裸の状態で確認する「水滴チェック」と呼ばれる指導」だそうである。何それ? 今どきやってたらセクハラ、パワハラとか問題になりかねない。僕は生徒の時も、教師になっても、こんなことを経験したことはない。大体「体がぬれていないか」なんて、どうでもよい問題である。

 今回の出願ミスは福岡県の私立高校で起きたという。なかなか複雑な背景がありそうだが、まあ一応「解決」したようだから、ここでアレコレ書くこともないだろう。そもそも今回の希望校は「公立」ではあるが、県立ではないという。全国で3つしかない「組合立高校」なんだという。もちろん教員組合が作った学校という意味じゃない。市町村が連合して作った「学校組合」が設置した高校なのである。その由来はどうでも良いけど、問題はその高校の出願日が県立高校とは別の日だったという。大体の生徒が内部進学する私立中学だったらしく、教員も外部受験に関して経験が少ないんだろう。(だからミスしてよいわけじゃないけど。)

 このようなミスを防ぐ方法は一つしかない。それは「生徒本人が願書を提出しに行く」ことである。自分の経験ではそれが当たり前すぎて、学校がまとめて出願するなんて発想が浮かばない。本人が病気などで行けない時は、保護者が行っても良い。一端当日に登校させて、調査書などを渡したあと、一斉にスタートしたように思う。だから、どうして学校がまとめるのか不思議なんだけど、考えてみると「交通事情」かもしれない。朝の登校時間を逃すと、電車もバスもほとんどないという地域も多いだろう。

 しかし、全県的にそういうわけでもないはずだ。試験日には実際にその学校に行くわけだから、出願も本人が行くべきなんじゃないか。あるいは「授業確保」という意味もあるのかもしれない。だけど、進路先への出願は「私事」である。出願に必要な書類(調査書等)の作成、あるいは進路先決定の支援は、教員の仕事そのものである。だが進路先そのものは本人(と家庭)が決めるべきものだ。「学校でまとめて送る」となると、教員の指導、つまり「落ちる可能性があるからランクを下げるべきだ」に生徒が抗しにくいのではないだろうか。

 これからは「インターネット出願」が増えてくるのだと思う。課題も多いだろうが、そういう方向に移っていくと思う。コロナ禍で「郵送」も多かった。学校が郵送するのではなく、生徒個人が郵送するわけである。だけど、試験日の練習の意味でも、実際に行く意味はある。自分の時は都立高校が「学校群」の時代だった。2~3の高校をまとめた「群」を受けるのである。その際、出願指定校と受験校が違うことがある。僕の場合、出願が白鴎高校、試験が上野高校だった。上野高校を見ておこうと出願した仲間同士で行ってみた記憶がある。学校説明会なんかある時代じゃなく、白鴎も上野もその日初めて行ったのである。
(東京のネット出願のイメージ)
 ところで風間一樹というミステリー作家がいた。結構好きだったんだけど、1999年に56歳で亡くなってしまった。今では文庫本にも残ってないだろう。風間一輝(名義)の最初の作品は『男たちは北へ』(1989)だが、この小説では「中学のミスで都立高校を受けられなかった」高校浪人が自転車で国道4号線を北へ向かう。それとともにある「謎」を秘めた男たちも、北を目指していく…という設定である。面白い本なんだけど、以上の説明の通り、都立高校では「中学の出願ミス」は起こらないのである。

 前回書いたクラス替え問題では、これは前にも書いたことがあるが、岩井俊二監督の傑作映画『Love Letter』の問題がある。小樽の中学校で、男女で同名の生徒が同じクラスにいたことから起こる物語である。とても良く出来ていて、中山美穂も最高。だけど、2年4組に「藤井樹」(ふじい・いつき)という同名生徒が男女ともにいたという設定はおかしいだろう。もし事前に誰も気付かなかったとしても、事後にやり直すレベル。何しろ4組まであるんだから、絶対に離すはずである。

 つまり映画や小説に「学校」が出て来たときは、あり得ない設定が多すぎるのである。物語の効果のために、学校のリアルを無視している。カンヌ映画祭脚本賞の是枝裕和『怪物』にも疑問があった。もちろんもともとファンタジーみたいな設定の話ならどうでもよい。だけど、やはり学校のリアルを追求する場合は、誰かアドバイザーを頼むべきだと思う。

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