尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

今も面白い織田作之助、大阪を描いた作家「オダサク」を読む

2024年09月11日 22時46分55秒 | 本 (日本文学)
 最近織田作之助オダサク)を読んでいたので、そのまとめ。大阪で生まれ大阪を描いた作家織田作之助(1913~1947)は、短い生涯の中で印象的な作品を幾つも残した。1939年の『俗臭』が芥川賞候補になり、翌1940年にもっとも知られる『夫婦善哉』(めおとぜんざい)が発表された。敗戦後の1947年1月に急逝したので、「戦時下の作家」だったことに改めて気付く。今回読んだのは「夫婦善哉」をモチーフにした演劇を見るからだが、実はその前から読み直したいと思っていた。
 (岩波文庫の2冊)
 今回は岩波文庫の『夫婦善哉正続他十三篇』『六白金星・可能性の文学他十一篇』を読んだのだが、その2冊は前から持っていた。2024年4月に新潮文庫から『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』が出て、すぐに読んでみた。続いて新潮文庫の『夫婦善哉決定版』を買って読んだのは、字が大きくて読みやすそうだったからだ。織田作之助は昔「ちくま文学全集」で読んだ記憶があるが、もう一回ちゃんと読んでみたいと思っていた。だから岩波文庫を買っていたわけだが、なんか字が小さいので後回しにしていた。今回も新潮を読んですぐに岩波も読むつもりだったけど、つい面倒になってしまった。
 (新潮文庫の2冊)
 両方の文庫には共通の作品が幾つも収録されている。新潮で読んだものは飛ばそうかと思ったが、間に数ヶ月入ったので読むことにした。たった数ヶ月しか経ってないのに、案外忘れていて我ながら驚いた。細かい所は結構忘れていたのだが、今度の方が面白く読めたのも驚き。一度目に読んだ時は展開が気になってストーリーを追うことで精一杯。特に難しいわけではなく、むしろ今なら直木賞候補になるような物語性豊かな作品群だ。今回読んだ時は大体筋は覚えていたので、細部の描写や全体の構成、文体の工夫などに目が行く。そっちこそが面白いのである。

 オダサクと言えば『夫婦善哉』、特に特に1955年の豊田四郎監督、森繁久彌淡島千景主演の東宝映画を思い出す人も多いと思う。僕はこの映画が大好きで、たまたま同じ年に林芙美子原作、成瀬巳喜男監督の『浮雲』とぶつかってベストワンになれなかった(2位)のを残念に思う。『浮雲』を読むときに高峰秀子と森雅之が脳内に浮かんでしまうのと同様に、『夫婦善哉』を読むときも映画の主演二人が目に浮かぶ。その結果、大阪庶民の人情喜劇みたいなちょっと古風な物語を書いた作家というイメージがあった。
(映画『夫婦善哉』)
 ところで20世紀にオダサクを読んだ人は、『続夫婦善哉』を読んでないと思う。映画にも『続夫婦善哉』があるが、これは完全なオリジナル作品で淡路恵子が怪演している。本物の続編が見つかったのは、2007年だという。戦前の有名な出版社、改造社社長山本実彦の資料を収蔵する故郷・薩摩川内市の図書館から見つかった。雑誌『改造』掲載のために書かれて、検閲を恐れて不掲載になったと想定されている。そんなに反軍的なのかというとそんなことはないけれど、「事変」の泥沼化に連れ物資不足が深刻になっていく様がよく描かれている。と同時に舞台が大阪から別府温泉に移ることも驚き。
(織田作之助)
 今まで『夫婦善哉』は大阪庶民を見つめて書いたフィクションだと思い込んでいたが、実は作者周辺にモデルがいたのだと解説にある。一族の没落と復興を強烈に描く『俗臭』、あまりにも独善的な人物を描く『六白金星』などとりわけ強烈な作品は皆モデルがあるらしい。『夫婦善哉』はモデルの人物が実際に別府に移転しているらしく、「別府もの」と呼んでもよい作品群がある。『雪の夜』も惚れた女と別府に逃げるモテない男の話。マジメ人間が何かの拍子に「フーゾク」系にハマってしまうが、女も情にほだされて男に付いていくという話が複数ある。『夫婦善哉』と似てるけど内容的には逆である。

 岩波文庫を読んだら解説を佐藤秀明さんが書いていた。三島由紀夫の研究者として著名だが、調べたら今は近畿大学教授だった。オダサクも研究していたのか。実は大学時代に学科は違うが同じ学年だった。前田愛先生の授業に出たりしていたから、記憶にあるのである。解説ではその前田先生の『幻景の明治』に始まり、中沢新一やエドワード・サイードに触れながら「大阪」という町のトポロジーに迫っていく。これが読みごたえがあって、オダサクが少し判った気がした。『夫婦善哉』も複数の語りが内在していて、「甲斐性なしの男に惚れた芸者が尽くす」というような「人情モノ」では済まない構造を持っている。

 オダサクを本格的に論じるほど読んでないが、同じ頃に活躍してともに「無頼派」「新戯作派」と呼ばれた太宰治坂口安吾ほど読まれているだろうか。少なくとも東京では『人間失格』や『堕落論』のような「文学青年に限らず若いうちに読むべき作品」に『夫婦善哉』は入ってないだろう。大昔の風俗小説、映画化の原作程度のイメージじゃないか。しかし、オダサクほど「庶民」の内実を事細かく描いた作家も珍しい。「知識人」の自我をめぐるゴタゴタなんかほぼ出て来ない。林芙美子の放浪よりさらに追いつめられた放浪であり、戦時下民衆の実像が記録されている。東京にもこういう作家が欲しかった。
(夫婦善哉)(自由軒のカレー)
 ところで「夫婦善哉」というのは、大阪の法善寺横丁にある実在の甘味処である。昔大阪に行ったとき夫婦で寄ろうと思ったが、満員で入れずレトルトを買ってきた。作品に出て来る「自由軒」の卵をのせたカレーも有名。こっちも満員だった。20年ぐらい前でそうだから、今ではもっと入りにくいだろうと思う。作品中には大阪の庶民の食べ物がいっぱい出て来て、上流の『細雪』と違って出て来る店も大分違う。そこも面白いところだ。
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