世界が熱く揺れ動いていた1968年のことである。東京・奥多摩地方、五日市の山深き里で、明治初期の「自由民権」の熱い息吹が「発見」された。山林地主深沢家の朽ちかけた土蔵の中に、それは90年ほどの間も潜んでいた。見つけたのは、民衆史を掲げ多摩地域の古文書を発掘していた色川大吉氏(東京経済大学教授)のグループだった。ここで「民衆の手になる憲法案」(私擬憲法)が見つかったのである。今ではそういう憲法草案は40ほども発見され、日本民衆の中に自由と民主への確固たる歩みが見られたことが明らかにされている。その憲法案は「五日市憲法草案」と名付けられた。数ある私擬憲法の中でも、基本的人権の保障において最高峰の位置を占めるとされる。
僕がその「憲法」を知ったのは、1972年のことだった。当時、朝日新聞の書評欄に「歴史の舞台を歩く…」といったコーナーがあった。作家や歴史学者が歴史上の人物や事件にゆかりの地を紹介する企画だったと思う。そこに「民衆史の源流を歩く」(正式には忘れた)という色川氏の文章が掲載された。色川氏は、五日市憲法草案を紹介しながら、「日本の民主主義は決して借り物ではない。日本人自らの中に民主主義を求め育てる歴史があったのである」と熱く語っていた。
その当時は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国は軍事独裁政権だった。欧米以外で唯一経済発展に成功した日本だが、果たして日本社会に民主主義は根付いているのかと疑問を持たれていた。日本の民主主義は戦争に負けて「アメリカのプレゼント」として贈られたものだと思われていた。アジア諸国には民主主義は合わないという人もいたのである。そんな中、色川氏の「発見」は多くの人々に勇気と確信を与えた。高校の図書館にあった「明治の文化」という本も続けて読んでみた。その本の感激こそが、大学で日本近現代史を学ぶようになった直接的なきっかけなのである。
その草案は今では高校日本史の教科書にも大体載っている。こと改めて「民衆史」などと言わなくても、民衆の生活や思想を研究対象にするのは当たり前になった。今、「憲法」とはどのようなものか改めて問われる時代が来た。ちょうど、「東京文化財ウィーク」で、あきる野市立図書館で年に一度の実物公開をしているという。4日までなので、出かけることにした。雨混じりだから車で行ったので、結構遠い深沢家の土蔵にもすぐ行けることが出来た。
深沢家への道はあきる野市図書館や五日市郷土館で入手できるパンフで判る。歩けば駅から1時間ほどかかる。車には狭い道だけど、思ったよりは行きやすい。道はどんどん奥深くなるが、今は「深沢家屋敷跡」は都指定史跡なので、ところどころに案内がある。道は一本で、真光院という寺が右手に見えると、その先が「深沢家屋敷跡」。駐車スペースが少しある。今ここに屋敷はない。大体こんな山奥が栄えていた時代があったことの方が不思議である。深沢家は一帯の山林地主で、深沢村の石高5分の1以上を占めていた。天保時代(1830年代)には15分の1ほどで、幕末から明治にかけ急成長した。養蚕が盛んな土地で、また当時のエネルギー源は木炭だったから山村は豊かだったのだ。憲法草案が発見された土蔵は残されていて、修復されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/46/a3/aeb59b62b5aa3364dcbb3c5d492d41cb_s.jpg)
扉をくぐって屋敷跡に入り、少し上がると土蔵があり、解説板も立っている。そこからさらにのぼると深沢家の墓所があり、土蔵を上から眺めることができる。
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五日市郷土館へ寄ると、そこに簡単な説明が常設されている。かなりたくさんの郷土博物館に行っているが、ここはとても小さい。五日市駅から歩いて17分。無料で火水祝休館。まずここで基本情報を得るのがいい。その近くの五日市出張所(旧五日市町役場)の前(五日市中学)に「五日市憲法草案の碑」がある。これも見て置きたい場所。なお、近くに萩原タケ像もある。看護婦として第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。日本看護婦協会初代会長だそうである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3f/92/bb1f9b9968f2ff0b0e8f6361b2bb4c11_s.jpg)
一番最初に行ったのはあきる野市図書館で、そこで実物を見た。まあ感慨がないわけではないけど、要するに紙。そこが他の美術品や産業用具などと大きく違う。長いので全文ではなく、一部の重要なところが展示されている。楷書で丁寧に書かれている。天皇は「国帝」とされ、男系相続が原則ながら、男統なきときは「女帝」を認めている。また「国事犯」に死刑を禁止していることが注目される。書いた人は誰かというと、千葉卓三郎(1852~1883)という宮城県栗原市生まれ、五日市勧能学校の教員だったクリスチャンの青年と判っている。
ただ千葉ひとりが書いたのではなく、この地方の青年たちが民権にめざめ討論を重ね検討された。深沢家の青年当主、深沢権八もその一人だった。もっとも、当時公表されたわけではなく、現実の政治的影響力はなかった。しかし、民衆思想史という観点で見れば、ここに日本人が外国から学んだ人権思想を自らの社会に適合させるべく苦闘した跡が残されている。一人ひとりの「無名の民衆」と言えども、このような思想的深みに到達できる。それが100年後になって人々を勇気づけるのである。実物は写真撮影禁止なので、廊下に貼ってあった掲示物を写してきた。
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ところで、あきる野市に「文化財ウィーク」に公開しているところがもう一つあった。「小机家住宅」というところで、やはり山林地主。1875年頃建てられた住宅で、2階がバルコニーのある洋館なのに、1階は畳敷きの和風と言う不思議な様式になっている。これもこの地域が明治初期に文化的にいかに開けていたかの証拠と言えるだろう。
僕がその「憲法」を知ったのは、1972年のことだった。当時、朝日新聞の書評欄に「歴史の舞台を歩く…」といったコーナーがあった。作家や歴史学者が歴史上の人物や事件にゆかりの地を紹介する企画だったと思う。そこに「民衆史の源流を歩く」(正式には忘れた)という色川氏の文章が掲載された。色川氏は、五日市憲法草案を紹介しながら、「日本の民主主義は決して借り物ではない。日本人自らの中に民主主義を求め育てる歴史があったのである」と熱く語っていた。
その当時は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国は軍事独裁政権だった。欧米以外で唯一経済発展に成功した日本だが、果たして日本社会に民主主義は根付いているのかと疑問を持たれていた。日本の民主主義は戦争に負けて「アメリカのプレゼント」として贈られたものだと思われていた。アジア諸国には民主主義は合わないという人もいたのである。そんな中、色川氏の「発見」は多くの人々に勇気と確信を与えた。高校の図書館にあった「明治の文化」という本も続けて読んでみた。その本の感激こそが、大学で日本近現代史を学ぶようになった直接的なきっかけなのである。
その草案は今では高校日本史の教科書にも大体載っている。こと改めて「民衆史」などと言わなくても、民衆の生活や思想を研究対象にするのは当たり前になった。今、「憲法」とはどのようなものか改めて問われる時代が来た。ちょうど、「東京文化財ウィーク」で、あきる野市立図書館で年に一度の実物公開をしているという。4日までなので、出かけることにした。雨混じりだから車で行ったので、結構遠い深沢家の土蔵にもすぐ行けることが出来た。
深沢家への道はあきる野市図書館や五日市郷土館で入手できるパンフで判る。歩けば駅から1時間ほどかかる。車には狭い道だけど、思ったよりは行きやすい。道はどんどん奥深くなるが、今は「深沢家屋敷跡」は都指定史跡なので、ところどころに案内がある。道は一本で、真光院という寺が右手に見えると、その先が「深沢家屋敷跡」。駐車スペースが少しある。今ここに屋敷はない。大体こんな山奥が栄えていた時代があったことの方が不思議である。深沢家は一帯の山林地主で、深沢村の石高5分の1以上を占めていた。天保時代(1830年代)には15分の1ほどで、幕末から明治にかけ急成長した。養蚕が盛んな土地で、また当時のエネルギー源は木炭だったから山村は豊かだったのだ。憲法草案が発見された土蔵は残されていて、修復されている。
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扉をくぐって屋敷跡に入り、少し上がると土蔵があり、解説板も立っている。そこからさらにのぼると深沢家の墓所があり、土蔵を上から眺めることができる。
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五日市郷土館へ寄ると、そこに簡単な説明が常設されている。かなりたくさんの郷土博物館に行っているが、ここはとても小さい。五日市駅から歩いて17分。無料で火水祝休館。まずここで基本情報を得るのがいい。その近くの五日市出張所(旧五日市町役場)の前(五日市中学)に「五日市憲法草案の碑」がある。これも見て置きたい場所。なお、近くに萩原タケ像もある。看護婦として第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞した。日本看護婦協会初代会長だそうである。
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一番最初に行ったのはあきる野市図書館で、そこで実物を見た。まあ感慨がないわけではないけど、要するに紙。そこが他の美術品や産業用具などと大きく違う。長いので全文ではなく、一部の重要なところが展示されている。楷書で丁寧に書かれている。天皇は「国帝」とされ、男系相続が原則ながら、男統なきときは「女帝」を認めている。また「国事犯」に死刑を禁止していることが注目される。書いた人は誰かというと、千葉卓三郎(1852~1883)という宮城県栗原市生まれ、五日市勧能学校の教員だったクリスチャンの青年と判っている。
ただ千葉ひとりが書いたのではなく、この地方の青年たちが民権にめざめ討論を重ね検討された。深沢家の青年当主、深沢権八もその一人だった。もっとも、当時公表されたわけではなく、現実の政治的影響力はなかった。しかし、民衆思想史という観点で見れば、ここに日本人が外国から学んだ人権思想を自らの社会に適合させるべく苦闘した跡が残されている。一人ひとりの「無名の民衆」と言えども、このような思想的深みに到達できる。それが100年後になって人々を勇気づけるのである。実物は写真撮影禁止なので、廊下に貼ってあった掲示物を写してきた。
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ところで、あきる野市に「文化財ウィーク」に公開しているところがもう一つあった。「小机家住宅」というところで、やはり山林地主。1875年頃建てられた住宅で、2階がバルコニーのある洋館なのに、1階は畳敷きの和風と言う不思議な様式になっている。これもこの地域が明治初期に文化的にいかに開けていたかの証拠と言えるだろう。
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