本の話が続いたので、今度は映画の話を。例年ならアメリカでアカデミー賞の前哨戦とされるゴールデングローブ賞のノミネートが発表される頃である。しかし、コロナ禍で今年は2ヶ月程度延期されるという話。アメリカでは映画館の再開が遅れて、映画館での上映を諦めて、Netflixに権利を売る映画が多くなっている。日本では配信に先駆けて,それらの作品が劇場上映されることがある。しかし、大手シネコンじゃないし、チラシもなかったりするから、上映自体に気付きにくい。前に書いた「マンク」に続き、今回の「ザ・プロム」もそんなNetflix作品だ。
この作品は今どき珍しい「本格的ミュージカル映画」である。元々トニー賞候補のミュージカルだというが、画面いっぱいにメリル・ストリープやニコール・キッドマンが歌って踊っている。セリフそのものが歌になったり、街頭(セットだが)に飛び出すミュージカルはなんだか懐かしい。しかし、この映画の本質はそこではない。「セクシャル・マイノリティ」をめぐって、アメリカの「分断」を風刺して、橋を架けるようなテーマこそ大切なのである。アメリカ理解のためには必見。
ところで題名にある「プロム」って何だろう。何となく知ってる気がするんだけど、アレですよね。アメリカの青春映画、ドラマによく出てくる「卒業式の夜のパーティ」。学校の体育館かなんかを飾り付けて、ドレスアップして出掛ける。フットボール部のキャプテンが学園女王のチアリーダーかなんかとカップルになってる。その裏でモテない男子、女子諸君は誰も誘えず悶々としている。
調べたら「プロム」でウィキペディアに載っていて、promenade(プロムナード、舞踏会)の略と出ている。PTAが関わることが多いとも出ている。何で学校でダンス・パーティをやるんだと思っていたが、むしろ勝手に放っといて「逸脱行動」が多くなるのを防ぐ目的もあるらしい。プロムが出てくる主な映画やドラマはウィキペディアのサイトに出ている。僕は10代終わりに見た「アメリカン・グラフィティ」(ジョージ・ルーカス監督)が忘れられない。
さて映画の物語には「インディアナ州の高校」と「ブロードウェイの大スター」が絡んでいる。ブロードウェイでは「エレノア」(フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)というミュージカルが開幕を迎えていた。テレビを前に大女優ディーディー・アレン(メリル・ストリープ)や共演のバリー(ジェームズ・コーデン)がこのミュージカルで世界を変えると豪語している。しかし、ニューヨーク・タイムズの劇評で「ナルシシスト」(自己愛、字幕ではナルシスト)と酷評され、ロングランの夢は潰えた。そこで売れずにバイトしているアンジー(ニコール・キッドマン)やトレント(アンドリュー・ラネルズ)とともに知名度挽回のための「売名企画」を探すことになる。
スマホを探して見つけたのが、インディアナ州の高校でPTAがプロムを中止したというニュース。理由はある女子生徒が同性どうしでプロムに参加したいと宣言したためだ。しかしプロムは男女ペアしか認めないという規則に則り、その願いは却下。一人だけ認めないのは差別になるから、全員中止という結論だという。このニュースを見つけて、4人はこの「遅れたインディアナ州」に乗り込んで「リベラルなアメリカの価値」を教えてやらなければと意気込む。「ニューヨークのリベラル」の押しつけがましさを、これでもかというぐらい誇張した演出が面白い。
そこで彼らは高校の会合に乗り込んで行ったんだけど…。黒人校長はもっと寛大な心で受け入れられないかと模索しているが、やはり黒人女性の会長は聖書を盾に絶対に認められないと強硬。レズビアンをカミングアウトしたエマはプロムをつぶしたと孤立している。エマの相手は実は会長の娘で、家ではカミングアウトできないでいる。「忍ぶ恋」の苦しさ。一方、校長は実はミュージカルファンで、ディーディーの大ファンだった。二人でレストランに行ったりする間に、政治問題化して結局プロムは開かれる。しかし、PTAは別会場を設けて皆がそっちに行ってしまい、誰も来ない体育館にはエマと校長とブロードウェイ・グループだけ。
(エマとアンジー)
傷ついたエマを大人は支えられるか。ディーディーは元夫のテレビ司会者に電話して、エマがテレビに出られるように段取りする。でもエマはテレビには出ないと言って、歌の動画で切々と訴える。彼女は「誰もが参加できるプロム」を開きたいという。学校主催じゃないから、PTAは関知しない。校長が許可すれば体育館は貸せるけれど、装飾や照明に多額の金が必要。それを「大スター」たちが負担する。一方、ショッピングモールで中心的な生徒と会ったトレントが彼らを説得しようと試みる。この時の絶唱「隣人を愛せ」(ラブ・ザ・ネイバー)が胸を打つ。
そして奇跡の夜が訪れて大団円となるのは、アメリカ大衆文化の定番だ。歌とダンスで「リベラル」と「宗教保守」も、「隣人を愛する」という「聖書の教え」でわかりあえる。安易といえばその通りだが、それが長く続くアメリカ映画の「奇跡」もしくは「偽善」なのである。フィクションだから実際はどうかは不明だが,この映画では「人種」は問題化しない。白人男性以外が校長や会長になっている。「セクシャル・マイノリティ」の方が大問題になっている。
それがどの程度現実を反映しているかは判らない。「政治的公正さ」の観点から、出演者にも性別、人種別の配慮をしているのかもしれない。だが「キリスト教保守派」からすれば、同性婚の方が大問題なのかもしれない。映画ではコメディとして、両派とも誇張されている。劇中でエマが訴えるように、サンフランシスコなら普通に受け入れられるのに、なんで保守的な風土の中では自分の気持ちを明かせないのか。そこにアメリカの深刻な「分断」の一側面がうかがえる。映画のように簡単に橋が架かるのかどうかと思うけれど,娯楽作なりにいろいろと考えさせられた。
この作品は今どき珍しい「本格的ミュージカル映画」である。元々トニー賞候補のミュージカルだというが、画面いっぱいにメリル・ストリープやニコール・キッドマンが歌って踊っている。セリフそのものが歌になったり、街頭(セットだが)に飛び出すミュージカルはなんだか懐かしい。しかし、この映画の本質はそこではない。「セクシャル・マイノリティ」をめぐって、アメリカの「分断」を風刺して、橋を架けるようなテーマこそ大切なのである。アメリカ理解のためには必見。
ところで題名にある「プロム」って何だろう。何となく知ってる気がするんだけど、アレですよね。アメリカの青春映画、ドラマによく出てくる「卒業式の夜のパーティ」。学校の体育館かなんかを飾り付けて、ドレスアップして出掛ける。フットボール部のキャプテンが学園女王のチアリーダーかなんかとカップルになってる。その裏でモテない男子、女子諸君は誰も誘えず悶々としている。
調べたら「プロム」でウィキペディアに載っていて、promenade(プロムナード、舞踏会)の略と出ている。PTAが関わることが多いとも出ている。何で学校でダンス・パーティをやるんだと思っていたが、むしろ勝手に放っといて「逸脱行動」が多くなるのを防ぐ目的もあるらしい。プロムが出てくる主な映画やドラマはウィキペディアのサイトに出ている。僕は10代終わりに見た「アメリカン・グラフィティ」(ジョージ・ルーカス監督)が忘れられない。
さて映画の物語には「インディアナ州の高校」と「ブロードウェイの大スター」が絡んでいる。ブロードウェイでは「エレノア」(フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)というミュージカルが開幕を迎えていた。テレビを前に大女優ディーディー・アレン(メリル・ストリープ)や共演のバリー(ジェームズ・コーデン)がこのミュージカルで世界を変えると豪語している。しかし、ニューヨーク・タイムズの劇評で「ナルシシスト」(自己愛、字幕ではナルシスト)と酷評され、ロングランの夢は潰えた。そこで売れずにバイトしているアンジー(ニコール・キッドマン)やトレント(アンドリュー・ラネルズ)とともに知名度挽回のための「売名企画」を探すことになる。
スマホを探して見つけたのが、インディアナ州の高校でPTAがプロムを中止したというニュース。理由はある女子生徒が同性どうしでプロムに参加したいと宣言したためだ。しかしプロムは男女ペアしか認めないという規則に則り、その願いは却下。一人だけ認めないのは差別になるから、全員中止という結論だという。このニュースを見つけて、4人はこの「遅れたインディアナ州」に乗り込んで「リベラルなアメリカの価値」を教えてやらなければと意気込む。「ニューヨークのリベラル」の押しつけがましさを、これでもかというぐらい誇張した演出が面白い。
そこで彼らは高校の会合に乗り込んで行ったんだけど…。黒人校長はもっと寛大な心で受け入れられないかと模索しているが、やはり黒人女性の会長は聖書を盾に絶対に認められないと強硬。レズビアンをカミングアウトしたエマはプロムをつぶしたと孤立している。エマの相手は実は会長の娘で、家ではカミングアウトできないでいる。「忍ぶ恋」の苦しさ。一方、校長は実はミュージカルファンで、ディーディーの大ファンだった。二人でレストランに行ったりする間に、政治問題化して結局プロムは開かれる。しかし、PTAは別会場を設けて皆がそっちに行ってしまい、誰も来ない体育館にはエマと校長とブロードウェイ・グループだけ。
(エマとアンジー)
傷ついたエマを大人は支えられるか。ディーディーは元夫のテレビ司会者に電話して、エマがテレビに出られるように段取りする。でもエマはテレビには出ないと言って、歌の動画で切々と訴える。彼女は「誰もが参加できるプロム」を開きたいという。学校主催じゃないから、PTAは関知しない。校長が許可すれば体育館は貸せるけれど、装飾や照明に多額の金が必要。それを「大スター」たちが負担する。一方、ショッピングモールで中心的な生徒と会ったトレントが彼らを説得しようと試みる。この時の絶唱「隣人を愛せ」(ラブ・ザ・ネイバー)が胸を打つ。
そして奇跡の夜が訪れて大団円となるのは、アメリカ大衆文化の定番だ。歌とダンスで「リベラル」と「宗教保守」も、「隣人を愛する」という「聖書の教え」でわかりあえる。安易といえばその通りだが、それが長く続くアメリカ映画の「奇跡」もしくは「偽善」なのである。フィクションだから実際はどうかは不明だが,この映画では「人種」は問題化しない。白人男性以外が校長や会長になっている。「セクシャル・マイノリティ」の方が大問題になっている。
それがどの程度現実を反映しているかは判らない。「政治的公正さ」の観点から、出演者にも性別、人種別の配慮をしているのかもしれない。だが「キリスト教保守派」からすれば、同性婚の方が大問題なのかもしれない。映画ではコメディとして、両派とも誇張されている。劇中でエマが訴えるように、サンフランシスコなら普通に受け入れられるのに、なんで保守的な風土の中では自分の気持ちを明かせないのか。そこにアメリカの深刻な「分断」の一側面がうかがえる。映画のように簡単に橋が架かるのかどうかと思うけれど,娯楽作なりにいろいろと考えさせられた。
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