尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ヒロシマとナガサキ

2011年08月06日 23時55分42秒 | 自分の話&日記
 広島への原子爆弾投下 1945年8月6日、午前8時15分
 長崎への原子爆弾投下 1945年8月9日、午前11時2分

 僕がよく授業で取り上げたのは、この両者の時間差である。原爆を搭載したB29は真夜中の1時半ころにマリアナ諸島テニアン島の米軍基地を飛び立っている。それなのに、ヒロシマとナガサキには約3時間もの投下時間の差がある。これは何故だろうか?

 この答えは、知ってる人も多いと思うが、「長崎は第一目標ではなかった」ためである。9日の第1目標は小倉(こくら)市(現北九州市)の小倉陸軍造兵廠だった。9時44分頃には小倉上空に米軍機が到達していた。しかし、天候良好な場合に目視で投下すべしとの指令があり、目視の失敗や天候の悪化、日本側の反撃等があり、米軍機は小倉をあきらめ、第2目標の長崎に向うことにした。長崎も天候不良だったのだが、米軍機が着いたころ一瞬雲の晴れ間があった。その時に原爆が投下されたのである。(ちなみに、6日の広島が天候不順の場合、第2目標は小倉、第3目標は長崎だった。)

 今頃の西日本は例年晴れていることが多いとは思うが、その時台風が来てるとか、少なくとも曇っていれば広島や長崎への原爆投下はなかったのである。そして、実際小倉は原爆投下を免れた。今、広島、長崎への原爆投下を写真や映像で思い浮かぶ人が多いと思うけれど、もちろんアメリカの写真撮影機によるものである。結果として未だ人類史上2回しかない原爆の実戦使用は、しっかり目視して投下しきちんと記録されなければならなかった。広島、長崎への原爆投下とその映像があることを、僕たちは初めから前提として考えてしまいがちだが、その日晴れていたからあの映像が存在したのであって、そういう「偶然性」は歴史の中に存在するのである。そして、小倉は原爆投下の都市としては記憶されなかった。しかし、僕たちは「歴史の可能性」として「被爆都市小倉」を記憶し続けないといけないのではないかと思う。

 原爆に関する小説、映画、演劇、絵画、漫画等はものすごくたくさんあるわけだが、いったん地人会による上演が終わっていた朗読劇「この子たちの夏」世田谷パブリックシアターで上演されている。(9日まで。)これは一度はいっておきたい。井上ひさしの「父と暮らせば」のこまつ座公演は新宿紀伊国屋サザンシアターで17日から24日。映画版の「黒い雨」(田中好子の名演)はやはり原爆を扱う吉田喜重監督「鏡の女たち」とともに、8月27日から9月2日に高田馬場・早稲田松竹で上映。東京周辺になるが、結構いろいろあるので接することができる。

 しかし、小説の原民喜「夏の花」林京子「祭りの場」の衝撃の方が大きな感じもする。長崎を扱った佐多稲子「樹影」が僕のおススメ。井伏鱒二「黒い雨」はかなり読みにくいので、名作ということでこれから読むとつらいと思う。それより「父と暮らせば」の戯曲版を読む方がいいと思う。(ついでに言うと、「父と暮らせば」は僕には名作すぎて、「紙屋町さくらホテル」の方が好きなんだけど。)
 書いてるうちに、昔「この子たちの夏」を高校でやったときの麦わら帽子がなんだか懐かしく思い出されてきました。
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