岡田一郎「革新自治体」(中公新書)という本が出た。ちょうど参院選と都知事選があったばかり。戦後の革新政党(主に日本社会党=現・社会民主党と日本共産党を指す)の「共闘」の過去を振り返る意義は大きいと思う。また社会党から分かれた民社党(当初は民主社会党)、50年代末から政界に進出した公明党という「中道政党」を含めて「4野党共闘」が成立した場合もあった。現在の野党のあり方を考えるためにも、「近過去」をきちんと理解しておくことが役立つことだろう。
戦後、知事や市町村長が選挙で選ばれるようになった。戦後初期のころには社会党が農協と協力して知事選に勝利した地域がかなりあったと最初に指摘されている。「労農提携」などと呼ばれていたという。農協や医師会は自民の支持基盤と思いやすいが、保守党も自由党と民主党などに分かれていて、地盤も確立されていなかったのである。だけど、そうして選ばれた知事や市長も、次第に保守系に変わっていったり、落選したりして影響を残せなかった。だから皆もう忘れている。
50年代の社共両党はどうなっていたか。一時は片山哲首相を誕出させた社会党だったが、50年代には講和条約をめぐって左右に分裂し、55年にようやく統一された。同じ年に保守合同もなり自由民主党が成立した。共産党は「50年問題」で武装闘争路線を取り国民の支持を失った。国会でも議席がゼロになったときもあったが、60年代末になってようやく勢力を回復させていった。そんな中で京都の蜷川府知事が1950年から7期当選して長期政権を維持していた。今も京都は共産党が強い地域になっているが、それは蜷川時代に形成された政治風土がある。
しかし、やっぱり中央政界に影響を与えた「革新自治体」のエースは、1963年に当選した横浜市の飛鳥田一雄(あすかた・いちお)市長と、1967年に当選した東京都の美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)知事ということになる。この本を読むと、70年代に「飛鳥田神話」が生じてくるが、飛鳥田当選が革新自治体の始まりと考えるのは間違っていると指摘されている。多くの人がまだ生きている近過去でも、安易に「神話」によりかからず史料批判をきちんと行う必要がある。しかし、今の横浜を作ったのは飛鳥田時代であり、美濃部都政と違い財政赤字も残さなかったという。中心地区の再開発、地下鉄、ベイブリッジなども飛鳥田市政の「六大事業」によるものだという。
一方、中央政治に激震をもたらしたのが、1967年の都知事選である。その時は、美濃部(社・共)220万、松下正寿(自・民)206万、阿部憲一(公)60万票だった。つまり、公明党が独自候補を立てず、80年代によくあった「自公民路線」を取っていたら、確実に美濃部当選はなかっただろうということである。公明党は後に美濃部与党になり、79年には自公民で鈴木俊一を当選させた。
当選直後の美濃部都政は、今読んでも新鮮である。その頃は高度成長の影の部分、公害問題や物価上昇に多くの国民が悩まされていて、福祉充実を打ち出した美濃部都政は大きく支持されたのである。もし美濃部都政がなかったら、日本の福祉、医療などの社会政策は大きく遅れていただろう。一方、社共の争いも絶えず、「宴会・面会・議会」の3会が嫌いな美濃部知事は、政府や議会との交渉がうまく行かなかった。最後のころは「財政危機」に見舞われ、その原因は「バラマキ福祉」だと攻撃され、惨憺たる最後を迎えた。
この本によると、ずいぶんデマ攻撃も激しかったことがわかる。東京では五輪による財政赤字が前任の東知事時代からあったのである。しかし、美濃部知事も政府とあえて対立し、そのため自治省(当時)から起債を認められなかったりした。高度成長から安定成長に変わった70年代においては、中央政府も75年以後ずっと「赤字国債」で対応せざるを得なかった。東京都も早くから起債できていたら、あれほどの財政危機宣伝はなかっただろうという。結局、「テレビに出てソフトなイメージで有名な経済学の先生」というイメージで当選したが、美濃部知事には政治家としての「器量」に足らざる部分も大きかったということだと思う。(もう一つ、天皇機関説事件で有名な父親、美濃部達吉の知名度、戦時中の迫害への同情も大きかったのではないか。)
この本を読むまでもなく、しっかりした自治体政策もない社会党の右往左往ぶりは、情けないとしか言いようがない。社会党推薦で「革新」候補になっても、当選可能性が少ない場合が多い。落選してもアフターケアのできない社会党は、「候補者の使い捨て」を続けていく。だから、40代、50代の壮年候補が出てこない。日本ではマスコミや大学を中途で退職すると、落選した場合の生活リスクが大きい。だから、60歳を超えた高齢者から探すことになる。最近の都知事選候補選びにも言える大問題である。結局、社会党が中心となった政権交代は成し遂げられず、90年代になって自民党から小沢一郎グループ(新生党)、武村正義グループ(さきがけ)が離党することによって、初めて「政権交代」になるわけである。(この武村正義は自治官僚を経て滋賀県八日市市長だったが、「4野党共闘」で滋賀県知事になった「革新知事」の一人だった。)
この本では社会党内の路線問題、特に江田三郎の政治行動をかなり追っている。また社会主義協会(協会派)が長く社会党内で影響力を持った問題も取り上げられている。ここでは長くなるから書かないけど、「社会党とは何だったのか」というのは戦後の日本社会にとって非常に大事な問題だと思う。また71年に当選した大阪の黒田知事の存在も大きいけど、今は書かない。70年代後半、自民党は「TOKYO」を取り戻すことを重視したという。東京(T)大阪(O)京都(K)横浜(Y)沖縄(O)の頭文字である。そして、全部80年代には「革新」ではなくなったのである。それはいくつも理由があるだろうが、著者は「中道政党」を自民との協力においやった社会党の責任が大きいという。
ところで、僕が東京都知事選で選挙権を得たのは、1979年からである。だから、美濃部知事には、あるいは1975年に対立候補だった石原慎太郎には投票する機会がなかった。美濃部時代はずいぶん昔のことで、判らないことも多いんだけど、僕の周りでも美濃部時代を懐かしく思い出す人がずいぶん多かった。自民党は美濃部当選直前に、都議会議長選をめぐる収賄事件が起きて、特例法を作ってまで都議会を解散する事態になっていた。出直し都議選では社会党が第一党になっていた。そういう時代に知事となって、弱者救済を推し進めた。自分たちを尊重してくれる政治が登場したと受け止めた人がいるわけである。今も高齢の人の心に「美濃部都政」が残っているだろう。
だが、それでも飛鳥田、美濃部が当初思い描いた「自治意識」は育たなかったという。有権者が求めたのは「名君」であり、「善政」を敷いてくれることだったのではないか、と。これはとても大事なことである。地方都市の方が「住民意識」が(いいにつけ悪いにつけ)あると言える。大都市の場合、職場と住居が離れていて、「寝に帰るだけ」の住民も多い。通勤時間も長いから、「主体的な住民自治」などと言われてもなかなか厳しい。日本社会の現実の中で、革新自治体の理想も実現できなかったことが大きいということだろう。
戦後、知事や市町村長が選挙で選ばれるようになった。戦後初期のころには社会党が農協と協力して知事選に勝利した地域がかなりあったと最初に指摘されている。「労農提携」などと呼ばれていたという。農協や医師会は自民の支持基盤と思いやすいが、保守党も自由党と民主党などに分かれていて、地盤も確立されていなかったのである。だけど、そうして選ばれた知事や市長も、次第に保守系に変わっていったり、落選したりして影響を残せなかった。だから皆もう忘れている。
50年代の社共両党はどうなっていたか。一時は片山哲首相を誕出させた社会党だったが、50年代には講和条約をめぐって左右に分裂し、55年にようやく統一された。同じ年に保守合同もなり自由民主党が成立した。共産党は「50年問題」で武装闘争路線を取り国民の支持を失った。国会でも議席がゼロになったときもあったが、60年代末になってようやく勢力を回復させていった。そんな中で京都の蜷川府知事が1950年から7期当選して長期政権を維持していた。今も京都は共産党が強い地域になっているが、それは蜷川時代に形成された政治風土がある。
しかし、やっぱり中央政界に影響を与えた「革新自治体」のエースは、1963年に当選した横浜市の飛鳥田一雄(あすかた・いちお)市長と、1967年に当選した東京都の美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)知事ということになる。この本を読むと、70年代に「飛鳥田神話」が生じてくるが、飛鳥田当選が革新自治体の始まりと考えるのは間違っていると指摘されている。多くの人がまだ生きている近過去でも、安易に「神話」によりかからず史料批判をきちんと行う必要がある。しかし、今の横浜を作ったのは飛鳥田時代であり、美濃部都政と違い財政赤字も残さなかったという。中心地区の再開発、地下鉄、ベイブリッジなども飛鳥田市政の「六大事業」によるものだという。
一方、中央政治に激震をもたらしたのが、1967年の都知事選である。その時は、美濃部(社・共)220万、松下正寿(自・民)206万、阿部憲一(公)60万票だった。つまり、公明党が独自候補を立てず、80年代によくあった「自公民路線」を取っていたら、確実に美濃部当選はなかっただろうということである。公明党は後に美濃部与党になり、79年には自公民で鈴木俊一を当選させた。
当選直後の美濃部都政は、今読んでも新鮮である。その頃は高度成長の影の部分、公害問題や物価上昇に多くの国民が悩まされていて、福祉充実を打ち出した美濃部都政は大きく支持されたのである。もし美濃部都政がなかったら、日本の福祉、医療などの社会政策は大きく遅れていただろう。一方、社共の争いも絶えず、「宴会・面会・議会」の3会が嫌いな美濃部知事は、政府や議会との交渉がうまく行かなかった。最後のころは「財政危機」に見舞われ、その原因は「バラマキ福祉」だと攻撃され、惨憺たる最後を迎えた。
この本によると、ずいぶんデマ攻撃も激しかったことがわかる。東京では五輪による財政赤字が前任の東知事時代からあったのである。しかし、美濃部知事も政府とあえて対立し、そのため自治省(当時)から起債を認められなかったりした。高度成長から安定成長に変わった70年代においては、中央政府も75年以後ずっと「赤字国債」で対応せざるを得なかった。東京都も早くから起債できていたら、あれほどの財政危機宣伝はなかっただろうという。結局、「テレビに出てソフトなイメージで有名な経済学の先生」というイメージで当選したが、美濃部知事には政治家としての「器量」に足らざる部分も大きかったということだと思う。(もう一つ、天皇機関説事件で有名な父親、美濃部達吉の知名度、戦時中の迫害への同情も大きかったのではないか。)
この本を読むまでもなく、しっかりした自治体政策もない社会党の右往左往ぶりは、情けないとしか言いようがない。社会党推薦で「革新」候補になっても、当選可能性が少ない場合が多い。落選してもアフターケアのできない社会党は、「候補者の使い捨て」を続けていく。だから、40代、50代の壮年候補が出てこない。日本ではマスコミや大学を中途で退職すると、落選した場合の生活リスクが大きい。だから、60歳を超えた高齢者から探すことになる。最近の都知事選候補選びにも言える大問題である。結局、社会党が中心となった政権交代は成し遂げられず、90年代になって自民党から小沢一郎グループ(新生党)、武村正義グループ(さきがけ)が離党することによって、初めて「政権交代」になるわけである。(この武村正義は自治官僚を経て滋賀県八日市市長だったが、「4野党共闘」で滋賀県知事になった「革新知事」の一人だった。)
この本では社会党内の路線問題、特に江田三郎の政治行動をかなり追っている。また社会主義協会(協会派)が長く社会党内で影響力を持った問題も取り上げられている。ここでは長くなるから書かないけど、「社会党とは何だったのか」というのは戦後の日本社会にとって非常に大事な問題だと思う。また71年に当選した大阪の黒田知事の存在も大きいけど、今は書かない。70年代後半、自民党は「TOKYO」を取り戻すことを重視したという。東京(T)大阪(O)京都(K)横浜(Y)沖縄(O)の頭文字である。そして、全部80年代には「革新」ではなくなったのである。それはいくつも理由があるだろうが、著者は「中道政党」を自民との協力においやった社会党の責任が大きいという。
ところで、僕が東京都知事選で選挙権を得たのは、1979年からである。だから、美濃部知事には、あるいは1975年に対立候補だった石原慎太郎には投票する機会がなかった。美濃部時代はずいぶん昔のことで、判らないことも多いんだけど、僕の周りでも美濃部時代を懐かしく思い出す人がずいぶん多かった。自民党は美濃部当選直前に、都議会議長選をめぐる収賄事件が起きて、特例法を作ってまで都議会を解散する事態になっていた。出直し都議選では社会党が第一党になっていた。そういう時代に知事となって、弱者救済を推し進めた。自分たちを尊重してくれる政治が登場したと受け止めた人がいるわけである。今も高齢の人の心に「美濃部都政」が残っているだろう。
だが、それでも飛鳥田、美濃部が当初思い描いた「自治意識」は育たなかったという。有権者が求めたのは「名君」であり、「善政」を敷いてくれることだったのではないか、と。これはとても大事なことである。地方都市の方が「住民意識」が(いいにつけ悪いにつけ)あると言える。大都市の場合、職場と住居が離れていて、「寝に帰るだけ」の住民も多い。通勤時間も長いから、「主体的な住民自治」などと言われてもなかなか厳しい。日本社会の現実の中で、革新自治体の理想も実現できなかったことが大きいということだろう。