尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

村田沙耶香「コンビニ人間」

2016年08月29日 23時16分14秒 | 本 (日本文学)
 「ジニのパズル」に引き続き、今期の芥川賞受賞作村田沙耶香「コンビニ人間」(文藝春秋、1300円)を読んだ。というか、その前に三島由紀夫賞受賞作「しろいろの街の、その骨の体温の」(朝日文庫)を先に読んだ。ぶっ飛び度はこっちの方がすごい。村田沙耶香という人は、ここ数年「殺人出産」とか「消滅世界」などの小説で、トンデモ設定が評判になっていたから、いずれ読みたいと思っていた。最近の芥川賞作品は、いずれ文庫で読めばいいと思って、もうしばらく単行本では買ってない。でも今回の作品は、なんか早く読みたいような気がして買ってしまったわけ。
 
 この小説は、読みやすいうえに、まとまりが良くて、やっぱり傑作短編だと思った。テーマや好き嫌いなどとは別に「文学的完成度」という尺度もある。「コンビニ人間」は明らかに「ジニのパズル」より完成度が高い。それは「一読瞭然」だと思うけど、それにしても話としては相当変な物語には違いない。最近の芥川賞作品では、絲山秋子「沖で待つ」や津村記久子「ポトスライムの舟」のような、一種の「お仕事小説」があるが、「コンビニ人間」はそれらの小説とは感触が全然違う。「コンビニで働き続ける主人公」を描いているけど、むしろ「コンビニでしか働けない主人公」を描く「生きづらさを抱えた人間の考察」という感じである。

 主人公の「私」(後に周りの人の話から「古倉恵子」という名前だとわかる)は、もう同じコンビ二で16年間働き続けている。小さいころから、周囲となじみにくい子どもと思われていたが、人と交わらないことで摩擦を避け、何とか高校を出て大学へも進んだ。大学1年の時に、道を間違えて「ゴーストタウンのような」異世界に紛れ込んでしまい、なんとか地下鉄の駅を見つけた時、そこに「スマイルマート日色町駅前店」のオープニングスタッフ募集の貼り紙を見つけた。翌日に電話をかけ、採用されて、さっそく研修が始まる。そしてオープンする。以来、16年間に店長は8人変わり、開店当時のスタッフは誰も残っていない。主人公だけが同じ店で働いている。以上、終わり。

 という人生なんだけど、これは「変」だろうか。「普通」の世界の住人からは、「変」に思われる。なぜなら、アルバイトは学生時代だけの話で、卒業したら「正社員」を目指すものだとされる。だけど、すぐには就職できず、あるいはすぐに辞めてしまい「フリーター」になることはある。または「バンド活動」や「演劇活動」など、他に自己表現する場を持っていて「いずれ有名になるまでのバイト」という「物語」があれば許容される。「私」も20代の間は、そういうフリーターの一種とみなされていたんだろう。でも結婚どころか恋愛沙汰の一つもなく、30代も後半になってくると、間違った生き方と指弾されやすい。だから、姉を愛する妹などが、ちゃんと「物語」を作ってくれる。「本人が病弱」で「親の介護」もあるということになっている。でも、ずっと立ち仕事のコンビニを週5回、どこが「病弱」なんだと思われてもいるらしいが、とりあえずそういうことにしている。

 主人公は「コンビニの声」を聴くことができる。昨日との気温の違いで売れ筋が違う商品、それをきちんと並べて「お客様」に提示する。おにぎりの並べ方にもコツがある。一番売れ行きがいい「つなマヨ」を中心に並べ、「おかか」は端におく。(マヨネーズが苦手な僕は、そう言えばいつも端っこから見ているなと気づく。)そういう「臨機応変」が必要なんだけど、これは実は「マニュアル化」されたものが血肉化したもので、もちろん「本物の創造性」が必要な仕事ではない。

 コンビニの仕事ぶり、同僚たちのようす、「私」の過去や現在などが過不足なく描かれていき、真ん中あたりで、主人公よりもっととんでもない男性アルバイト「白羽」が登場する。主人公は「女」としてまだ許容されうる領域にいるが、白羽は30過ぎで何の仕事もしたことがないのだから、もっと病が深い。「縄文時代以来」が口ぐせで、世の中を斜めに見て自分以外を下に見ながら、自分も何物でもないという人物がリアルに描かれている。そんなヤツが同僚でやっていけるのかと思うと、それどころではない、あれよあれよの展開をしていくんだけど、その驚きは今後読む人のために取っておきたい。

 僕が思うに、主人公は明らかに「発達障害」である。大学まで行けたし、周りに合わせなければという意識もある。だから、ものすごく重いわけではないけど、軽度の「自閉症スペクトラム障害」だろう。以前は「アスペルガー障害」とよく言われたタイプである。幼児期のエピソードが出てくるが、それはこんなものである。幼稚園の時に、小鳥が死んで周りが泣いていて、「私」はそれを掌に乗せて母に持って行った。「お墓を作ろうか」といわれた主人公は「これ、食べよう」と言う。あるいは小学校に入ったばかりの時、体育の時間に男子が取っ組み合いのけんかを始めた。「誰か止めて」と悲鳴があがり、そうか止めるのかと思った主人公は、用具入れのスコップを取って、暴れる男子の頭を殴った。そして、母が呼ばれた。典型的な「アスペルガー」である。

 「けんかを止めて」というのは、けんかしていると大けがするかもしれないし、「そもそも暴力はいけない」と言うタテマエが学校にはあるからである。「けんかを止める」目的で、けんかしている当人に暴力でケガさせるというのは、確かに「けんかを止める」目的は果たしているわけだが、「けんかを止めなければならない真の理由」からは外れている。「意味するもの」と「意味されるもの」を判別できないというのが、まさに「発達障害」である。多くの人は、あえて言われるまでもなく、言語化する以前に理解できる。主人公はそれが判らなかったわけだけど、80年、90年代の教育現場には「発達障害」という概念がまだなかった。だから「変な子」に努力を求めて、今思えばずいぶん苦しい思いをさせてしまった。家族は主人公を心配しながら、何かあれば「まだ治ってない」と嘆く。

 「病気」じゃないんだから、一生治らない。「障害」を周りが理解しながら、共に生きていくしかない。もっと早くから周囲がケアできていれば、もっと生きやすいんだろうと思う。例えば、発達障害でも「精神障害者保健福祉手帳」が取得できる。そうすれば、コンビニ会社も「障害者雇用促進法」の雇用率を満たすために正社員に登用しやすくなる。この主人公は単にアルバイトにしておくには惜しい「コンビニ愛」と「コンビニ社員スキル」を持っている。現場だけでなく、研修担当などでも才能を発揮できるのではないか。主人公の勤める職場でも、開店以来ずっと働いている主人公は奇異に思われているらしい。店長は他のバイトたちと時々「飲み会」をしているらしいが、主人公にはお呼びがかかっていないようだ。そういう位置にある主人公なんだけど、もっと違う道もあるんだと僕は強調したいと思う。(だけど、福祉手帳取得には、「精神」や「発達」の場合、家族が壁になってしまうこともあるのが現実だろう。この主人公の場合も親は理解してくれないかも。)

 僕は教員としての最後のころは、定時制にずっと勤務していた。だから、「アルバイト禁止」などという進学校と違って、「アルバイト促進」を続けてきた。もう「中卒」の生徒が正社員として勤めて、夜は定時制高校に行かせてくれるといった職場は日本にない。だから、コンビニに務めていた生徒はとても多い。「バイトの相談」もずいぶん受けてきたが、中には「先生はコンビニのバイト、したことある?」などと聞いてくる生徒もいた。「先生が学生のころには、コンビニなんかなかったんだよ」と言うと、なんか紀元前の話でもしているかのような顔をされるのだった。確かに、もう僕たちは「コンビニのなかった時代」を思い出せないかもしれない。それほどにも、我々の生活に不可欠になってしまった一種の「社会インフラ」、ある種の「ライフライン」でもある「コンビニエンス・ストア」の労働を舞台にしたという意味でも、歴史に残る画期的な意味を持つ作品だろう。
コメント (3)
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