尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

豊下楢彦と原武史、昭和天皇を考える2冊の本

2015年09月27日 23時13分27秒 |  〃 (歴史・地理)
 「昭和天皇実録」が完成して公開も始まったので「実録」を利用した近現代史の本も出始めた。今回紹介する2冊の本は、中味が重大だと思うので紹介しておきたい。知らない人には驚くような話がいっぱい出ている。関心がなかった人でもぜひ手に取って欲しい。

 豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本」(岩波書店)は、戦後史像をガラッと書き換えるような衝撃を秘めている。豊下氏がこれまで「安保条約の成立」や「昭和天皇・マッカーサー会見」で考察したテーマの延長線上にあり、今までの指摘が「実録」で裏付けられたり、傍証を得たりしたということである。

 簡単に書けば、「憲法9条」ではなく、「日米安保」こそ「押し付け」だったのである。そのような「絵図」を描いたのは、吉田首相やマッカーサー司令官を飛び越して、ワシントンと直接「宮廷外交」を繰り広げた昭和天皇だった。昔はよく保守本流」の「吉田路線」が「軽武装、経済中心」で戦後日本を作ったと言われたが、そんなものはなかった。吉田は「臣茂」と自称するほど「勤皇」の志が篤く、天皇が敷いた「米軍により共産革命を防止する」路線を丸ごと飲み込んだのである。

 新憲法の下では天皇は「象徴」であって、政治的行為は行えないはずだ。だからこそ、新憲法制定後に天皇が大きな政治的役割を果たしたことは長く知られなかった。(信じない人も多かった。)しかし、「実録」の公表で「事実上認められた」のである。そのことは、現在の政治にも大きな意味を持っている。戦後政治において、右は「憲法改正」や「東京裁判否定」を、左は「憲法擁護」や「日米安保反対」を主張した。だが昭和天皇においては、天皇制を守った「憲法改正」(憲法9条)と「東京裁判」、「日米安保」はすべて一続きのものだった。だからこそ、A級戦犯を合祀したことが明らかになって以来、昭和天皇は靖国神社を参拝することを止めてしまった。

 原武史「昭和天皇」(岩波新書)は、昭和天皇の家族関係などを細かく追及してユニークな天皇像を打ち出した。その原氏の「『昭和天皇実録』を読む」(岩波新書)は、「実録」を利用して改めて知られざる昭和天皇像を描き出した。2015年公開の映画「日本のいちばん長い日」では、以前の作品では直接は描かれなかった昭和天皇が、本木雅弘主演で正面から描かれた。だけど、今までの研究状況からすると、どうもまだ大事な点が出て来なかった。戦時下において、一番天皇の心を占めていた「三種の神器」への危機感や、実母(大正天皇の皇后貞明皇太后)が全然出てこないことへの違和感である。

 昭和天皇というと、僕の世代からすれば、良かれ悪しかれ「おじいちゃん」の印象しかない。だけど、1901年に生まれて「20世紀と同い年」(戦前の「数え年」の場合)だった昭和天皇は、戦争時は青年君主だった。若き日の昭和天皇は「ビリヤードとゴルフ」が大好きな洋風君主だった。日中戦争以後は「謹慎」して、そういう遊びと縁遠くなったので、それ以後しか知らない世代は忘れてしまったのである。洋風好みは母親から見て、非常に心配なことだった。大正天皇は病弱で、宮中祭祀もおろそかになりがちだった。その中で、関東大震災が発生して「帝都」が壊滅した。それは「お祈りをおろそかにしたからだ」と貞明皇后は考えた。だから、昭和天皇に祭祀を大切にすることを求めたのである。

 簡単に言えば、母親が宗教にのめり込んだ家庭である。戦争中は「神の助け」があると信じているから、講和など聞き入れるわけがない。「一生懸命祈れば、神が助けてくれる」という人は、戦局が悪化しても「一生懸命祈ってないから戦局が好転しないのだから、もっと宗教に熱心にならないといけない」という発想しかしない。表立っては反発できない実の母親がそんな状態で身近にいたならば…。周りがいくら勧めても全然疎開してくれない「困った婆ちゃん」問題が戦時中の宮廷の大問題だったわけである。これでは合理的な判断ができるわけがない。

 この本で書かれている中では、意外なほどカトリック関係者との関わりが若い頃には深かった。占領下を扱う章は「退位か、改宗か」と題されているくらいである。原氏の本では、各地の神社に祈りをささげる時の「御告文」がたくさん引用されている。読みにくいものだけど、こういうものに「天皇制」というものが現れている。原氏は丸山真男の論考を参考にしながら、「臣民が天皇に仕える」という「見える領域」の上に「天皇が神に仕える」という「見えない領域」があるのが天皇制だと論じている。ここで神というのは、むろん「アマテラス」(天照大神)である。

 どちらの本も、豊下氏や原氏のこれまでの本を読んでいる人には、目新しい論点ではない。だけど、今まで知らない人が読めば、どちらの本もビックリしてしまうような事実が満載だろう。この程度は読んでおいて、戦後史を考えたいものだと思う。
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「あいつと私」という映画-芦川いづみの映画を見る⑤

2015年09月27日 00時28分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
あいつと私」(1961)は2回見ている。今回はいいかなとも思ったが、せっかくだから時間を見つけて見直したら詳しく書きたくなった。「あいつと私」は石坂洋次郎(1900~1986)の原作である。石坂作品は、「若い人」「青い山脈」「陽のあたる坂道」など何度も映画化されてきた。若い世代の恋愛や性を真正面から取り上げ、それまで日本では隠されがちだったテーマを明るく陽性に描いて、非常に人気があった。大量に文庫に入っていたが、いつの間にか一冊もない。戦後の作品は「戦後民主主義」の啓蒙的な傾向が強く、時代が作家を追い越してしまったのだろう。

 「あいつと私」は、有名な美容家を母に持つ裕福な若者、黒川三郎石原裕次郎)の生活を描いている。忙しい母(轟夕起子)は子どもにはお金を与えて育ててきた。思春期になると「性欲処理係」の女性まで与えた。この母は家に愛人を連れ込むなど、普通の感覚では「異常な家庭」である。(時々、夫(宮口精二)がヒステリーを起こして家出を試みるのが笑える。ごひいきの宮口精二が情けない役柄を楽しんで演じている。)そんな家庭だが、息子の裕次郎は「なぜか母が嫌いになれない」。この点が映画のポイントで、観客がここを納得できないと映画に入り込めない。確かにエネルギッシュな轟夕起子の姿は、素晴らしいコメディエンヌぶりを発揮して、戦前からの女優としての確かな力量を満喫できる。
 
 この美容家の生き方は俗人には理解しがたいレベルだが、それなのに魅力的なのはなぜか。今は細かく書かないが、学園ドラマの定番のようにして、黒川を取り巻く学友グループが出来、さまざまなエピソードを経て、同級生の浅田けい子芦川いづみ)と親しくなっていく。浅田家は田園調布にある上層の中産階級である。夫が働き、妻が主婦をしている。(ちなみに下の妹は吉永小百合、その下はまだ小さな酒井和歌子が出ている。)よりによってクラスメートが1960年6月15日(東大生樺美智子が国会デモで死んだ日)に結婚式を行い(東京会館)、その流れで裕次郎と小沢昭一と芦川いづみがデモに行く。(その女子大生にほのかな思いを寄せていた小沢昭一は、酔っ払いながら「おれだって、今回の政府のやり方には怒っているんだ。アンポ、反対!」と叫ぶ。)

 芦川は家に電話して、母に「今日はデモに行く」と宣告し、ダメですと絶叫する母親を振り切る。もっともデモ隊には入らない。その後でもう一回電話して、「お母さんが私にいつもくっ付いていて重いの。もっと私から離れて」と叫ぶ。母は「あなたは難産で…」などと昔話を始めるが、娘は「初めてのお産で産道が小さかっただけよ」と恩着せがましい母の言葉に反発する。一家はその日テレビでデモの様子を見続ける。吉永小百合の妹は姉を応援している。(「60年安保」の翌年に作られたこの映画では、安保反対デモが観客にとって共感の対象であるということが、自明の前提になっている。)

 黒川家と浅田家の母親のあり方は正反対と言ってよい。もちろん、けい子の母は娘を心配してデモを止めている。それはケガや政治的な心配というよりも、デモでは「何かまがまがしいこと」が起こり、娘に「傷がつく」ことを怖れるという感じだ。それが娘には「重い」。貧困や差別などと無縁な中産階級の家庭でも、何か精神的な渇きを覚えるような時代になったのである。それまでの石坂作品のように、「家族みなで話し合う」などといった方法では、もうこの焦燥感は解消できない。家庭に囲い込まれた「主婦」という生き方を象徴する母像と反対に、黒川家の母は「自立した女性」である。「(性的に)過激な」家風ではあるものの、息子が母を嫌いにならず、けい子が魅力を感じ、観客も納得してしまうのは、この「自立した女性」の魅力ゆえだろう。「あいつと私」は、性や家族をテーマとする以上に、「女の自立」をテーマにしている

 もっとも、けい子の母の心配はあながち過保護とも言いきれない。デモの後に、結婚式を欠席してデモに行っていた同級生(吉行和子)の部屋を訪ねると、同級生と同居している友人の悲劇を目撃する。彼女は途中ではぐれた後、男の「同志」二人に「連れ込み宿」でレイプされたのである。安保反対運動に加わる「政治的」学生でも、男にはそういう「獣的」な側面があるとされる。(左翼学生運動の中で、男女差別や家父長制意識、暴力的な性関係などが横行していたことは多くの証言がある。「革命のために」女性革命家は男性リーダーに「奉仕」するものだという意識さえなかったとは言えない。)

 そのことはもう一つのシーンでも描かれている。同級生の結婚やデモなどで親しくなって、仲間で夏の大ドライブ旅行を敢行する。黒川=裕次郎は車を持っているから、そんなことができる。裕次郎、芦川いづみの他、小沢昭一、伊藤孝雄、中原早苗、高田敏子という豪華メンバーである。東北ドライブの途中、山の中で道路工事の若い工事人夫多数にからまれる事件が起きる。山奥で女子大生を見て興奮し、学生という「身分」に対する反発が噴き出したのだ。

 最後に軽井沢の黒川家の別荘に着くと、母と愛人が差し入れにきて、そこに裕次郎をよく知っていると豪語する渡辺美佐子もいる。この女性が何故か気になり(気になるのは、この時点でけい子が三郎に好意を持ち始めているという意味だ)、けい子は三郎を問い詰める。その結果、渡辺美佐子は「母が与えた性的な玩具」だったという衝撃的な黒川家の秘密が明かされる。別荘を飛び出したけい子は、追ってきた三郎に抱きとめられ、台風の雨の中でキスする。これはこの映画の一つのクライマックスだが、裕次郎と芦川いづみという主演者のイメージもあいまって、非常に清潔なラブシーンになっている。

 まあ大学生という設定ではあっても、裕次郎(1934~1987)も芦川いづみ(1935~)も25歳を超えているんだから、ちょっとのことでおたおたせずに、実際の学生よりも大人びているのも当然である。(もっとも1929年生まれの小沢昭一はいくら何でも大学生はきつい。)こうしたエピソードを経ても、二人の関係が切れずに続くのは、黒川の母がけい子を気に入っていることが大きいと思う。けい子は派手ではないが、落ち着いたファッションで、感情におぼれず自分で考えるタイプである。(芦川いづみが演じるのにピッタリだが、そのイメージで服装を決めているんだから、当然でもある。)

 黒川の母の誕生パーティに、けい子も招待される。そこで、三郎の出生の秘密やデモの時にレイプされた学生(金森)のその後を知る。大学をやめた金森を三郎が母に紹介し、今は美容師を目指して頑張っている。そのことをけい子は全く知らされずにいて、たまたま金森が帳簿を持ってきて初めて知る。何で知らせてくれなかったと問い詰め、「あなたのすることは全部先に知っておきたいの」と言ってしまって、これが「愛の言葉」だと相互に理解し合う。

 「あいつと私」という映画は、最初に見た時から好きで、好感を持った。60年代初めの映画では、中村登監督「古都」(岩下志麻主演)や吉田喜重監督「秋津温泉」(岡田茉莉子主演)なども好きで何度も見ているけど、女優が清楚で清潔に描かれているのが好きな理由かもしれない。この「あいつと私」は、特別な家庭に育った裕次郎演じる青年を中心に、「女性の生き方」を考察した映画である。まさに、けい子から見た「あいつ」(黒川三郎)の物語である。60年代初頭の風俗や風景も興味深い。

 監督の中平康も巧みに物語を進めている。娯楽映画としての確かな手腕を楽しむことができる。石坂洋次郎原作映画はこの語も続々と作られた。「あいつと私」も1976年に、三浦友和、壇ふみでリメイクされた。「青い山脈」も60年以後に3回も映画化された。しかし、もはや青春スターの定番という位置づけでしかなく、ほとんど話題にもならなかった。時代と合わなくなってしまったのだ。 
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