尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

関東大震災、恐怖の記録ー江馬修『羊の怒る時』発見!

2023年08月29日 23時01分37秒 |  〃 (歴史・地理)
 江馬修(1889~1975)という作家がいる。読み方は「えま・しゅう」になっているが、本名は「なかし」なんだという。飛騨高山の生まれで、明治2年に故郷で起きた「梅村騒動」を描いた『山の民』という大作小説で知られている。一部では島崎藤村『夜明け前』を越える傑作と評価する人もいるようだが、文壇ではほぼ無視されてきた。文庫に入ったこともなく、僕も読んだことがない。代表作を読んでないぐらいだから、他の本も知らない。今ではほとんど忘れられた作家に近い。

 ところが、8月のちくま文庫新刊で(金子光晴『詩人/人間の悲劇』とともに)、江馬修の『羊の怒る時』という本が出たのである。それが「関東大震災の三日間」と副題が付いた稀有のドキュメントなのである。もとは1925年に聚芳閣という出版社から出されたまま忘れられていた。1989年に影書房というところから再刊されたというけど、全く知らなかった。一般的には忘れられていた本だと思うが、これは大発見である。関東大震災理解の基礎文献として必読になると思う。

 江馬修は今ではほとんど知られてないから、僕は「貧乏文士」だと思い込んでいた。ところが調べてみると、1916年の『受難者』という本がベストセラーになり、当時は人気作家だったらしい。震災当時は代々木辺りに住んでいた。もっと細かく言えば「初台」で、「自警団」の合言葉は「」「」だったと出ている。この本では「東京へ行く」、「東京では」という言葉が出て来る。今では世界に知られる新宿や渋谷だが、当時は豊多摩郡だった。東京市外だったのである。東京市が拡大され、35区体制になったのは震災後の1932年のことである。その辺りにはお屋敷も建ち並び、隣家は「I」という退役中将だった。

 まず大地震が起きる。このままでは家がつぶれてしまう恐怖が描かれる。6歳と3歳の女児がいて、まず子どもを助けなければと思って、下の子を連れて庭に出た。前に書いたけれど、夏目漱石の自伝的作品と言われる『道草』では、主人公が地震の時に一人で庭に逃げてしまう。妻から「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」と言われると、「女にはああいう時にも子供の事が考えられるものかね」と答える。このトンデモ主人公には驚いたが、さすがに当時の男でもそんな人ばかりではなかった。まあ江馬は「人道主義的作家」として有名だったらしいけど。

 自分の家は何とかつぶれずに助かるが、周囲を見ると全壊した家もある。大変だと手助けに向かう。近くには交際があった朝鮮人学生もあり、無事だった朝鮮人たちが他の家を手助けしている。「李君」はついに壊れた家から幼子を助け出す。そんな民族を越えた助け合いが直後にはあったのである。遠くの空がなにやら怪しくなり、どうも東京市各地で火事が発生しているという噂が流れる。まだラジオもなく、新聞も発行できず、情報は「噂」と「警察」だけになってしまった。
(江馬修)
 第1日が終わり第2日になると、「朝鮮人さわぎ」が起きてくる。朝鮮人も震災にあって逃げ回るだけなのに、その朝鮮人が放火などをして回っているという「噂」が流れる。「朝鮮人」が騒いでいるのではなく、日本人が騒いでいるだけだったので、本来は「日本人さわぎ」とか「自警団さわぎ」と呼ぶべきだろう。(これは袴田巌さんは無実なのに、「袴田事件」と呼ぶのがおかしいのと同じである。)しかし、当時書かれた文献には皆「朝鮮人さわぎ」として出て来るのである。

 そして著者自身も「そういうことも無いでは無いだろう」と思う。著者自身が個人的に親しくしている朝鮮人は立派な学生ばかりだが、中には悪い人もいるだろう。近くには朝鮮総督を務めたT伯爵邸もあるから、この地域は標的にされるかもしれないと考えてしまった。これは初代朝鮮総督の寺内正毅と考えられる。つまり、日本人は朝鮮人から恨まれることがあると認識していたからこその恐怖なのである。一般民衆が「暴力」に囚われた理由は著者にもよく理解出来ない。著者自身も朝鮮人と疑われたりして、民衆の中にある恐ろしい「殺意」に恐怖を感じている。

 その間に本郷にいる兄一家が心配で、危険を冒して訪ねたりしている。この兄は浅草区長をしていた江馬健という人だという。途中で大火災の実態と「朝鮮人さわぎ」で各町ごとに自警団による「結界」が作られている実情が語られる。東京市の西側で比較的被害が少なかった地区に住んでいた江馬ならではの観察が鋭い。ラスト近くでは兄を通して、浅草区の実情を視察している。兄は浅草寺が焼け残ったことを喜ぶとともに、「吉原復興」が急務だと考えている。

 江馬は後に無事が確認された朝鮮人学生を匿っている。先に子どもを救った李君は、知人を探すために市内に出掛けて戻らない。助けて貰った恩義がある母親は何とか李君を探し回るのだが…。どうしてこんなことが起きたのか。結局、毎夜朝鮮人が押し寄せると言われて「自警団」に駆り出され、著者も周囲の人々も疲弊していく。火事に合わなかった江馬にとって、大震災の最大の恐怖は「朝鮮人さわぎ」だったのである。何故、こんなことになったのか、著者はこの段階では「同じ人間だ」という認識を持てるには「教養」が大切だと考えている。

 その後の江馬は社会主義に近づいて行く。関東大震災を経て、「人道主義」では日本人は変わらないと考えて行ったのである。震災で苦労した妻とも別れ、その後は波乱の人生を送った。再婚した妻がいたが、戦後になって『綴方教室』で知られた豊田正子と暮らすようになり、晩年にはさらに別の女性と暮らしたという。1946年には日本共産党に入党したものの、1966年には中国派として離党した。これはウィキペディアの情報だが、興味深い経歴の人物である。ルポの観察力や文章力は確かで、この本は重大な出来事を後世に書き残した貴重な本だ。
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『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』(池上彰、佐藤優)を読む

2023年08月14日 22時48分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 講談社現代新書の池上彰・佐藤優氏の対談『日本左翼史』シリーズは3冊で終わりかと思ったら、2023年7月になって戦前編が出た。『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』と題され、対象の時代は「1867ー1945」となっている。戦後を扱った3冊は先に読んで、3回ほど感想を書いた。『「左翼」は復活するのか』『「講座派」「労農派」論争を越えて』『「清張史観」の克服を』である。僕は先の三部作を面白く読んだので、4冊目の今度の本も早速読んでみた。

 今度出た4冊目になる完結編は、相変わらず該博な知識を披露しながら独自の近代左翼史を展開している。歴史の流れに関しては、ほぼ定説が出来ているので、それほど新しい感じはしない。だが、大きな見通しや個別の人物論はなかなか読ませる。近代史に関心がある人は興味深く読めると思う。前3冊を読んでない人は、むしろこの4巻から読み始めて時代順に読んでいく方が良いかもしれない。まず、明治初期には左翼、右翼は未分化で、新宗教」という方向性もあったと鋭い指摘をしている。

 幕末から明治初期の時代は、後に「教派神道」とまとめられる天理教金光教大本教などが一斉に登場した時期として知られる。そのことは70年代に「民衆史」が注目された時代に多くの人が関心を寄せていた。「左翼」は「文明開化」で入ってきた欧米の新思想を日本でも実現しようとした。「右翼」は「富国強兵」で可能になった強大な武力で近隣諸国を侵略する方向に進んだ。どちらも「明治維新」による「近代化」を前提として、新しい国家を建設しようとする点では共通している。しかし、民衆の中には「近代化」そのものへの拒否感も強かった。それらの人々の拠り所となったのが、新しい宗教だったのである。

 その後「松方デフレ」によって階級分化が進んで、それが近代化と左翼運動をもたらす。佐藤優氏の特徴は「自由民権運動」を「負け組による権力闘争」として、日本左翼の源流とは言えないとみることである。僕はそれは言い過ぎで、やはり「自由民権運動」は左派系民衆運動の初期形態として良いと考える。「左翼」は社会主義や労働運動を意味する政治用語ではない。いずれ国会を開設することは共通していても、時期をめぐって対立がある場合、早期開設派を左派として問題ないだろう。士族層が中心とは言え、全国に広がった反政府運動である。中江兆民を通して、初期社会主義につながるという通説通りで良いと思う。

 その後は、明治末の初期社会主義と「大逆事件」による「冬の時代」、ロシア革命と「アナ・ボル論争」日本共産党の結成と「転向」の問題と順を追って、快刀乱麻を断つごとく日本左翼史の問題点が解明されていく。戦後編ですでに展開されているように、「基調報告」担当である佐藤氏は「労農派中心史観」である。講座派=日本共産党は、「コミンテルン日本支部」であり、日本事情を詳しく知らない担当者が作った方針を掲げていた。そのため、当時では無謀な「天皇制廃止」を全面に押し立てて、大衆組織を引き回した上に壊滅していった。まあ、そういう指摘は事実だから、労農派をより高く評価するのは当然か。

 全部書いてても長くなるだけだから後は簡単にするが、人物としては高畠素之(たかばたけ・もとゆき、1886~1928)の評価が興味深かった。初期社会主義に関わった後、得意のドイツ語を駆使して『資本論』の全訳を初めて行った人物として知られている。次第に国家社会主義に近づき、むしろ右翼思想家になったことでも知られる。早世したこともあり、僕はあまり関心を持たなかったが、この人はソ連を国家社会主義として評価したんだという。高畠が長生きしていたら、五・一五事件や二・二六事件はもっと凄惨なものになっていただろうとまで言っている。通説的には過大評価だろうが。
(高畠素之)
 もう一つは「転向」の問題で、この問題はある時期まで非常に大きな意味を持っていた。思想の科学研究会の共同研究「転向」が刊行されたのは、1959年から1962年のことだった。この「転向」というのは、1933年に獄中にいた日本共産党の最高指導者だった佐野学鍋山貞親が、それまでの党の路線を批判して天皇制の下での社会主義革命を目指すと声明を出したことに始まる。その後、続々と獄中で「転向」が相次ぎ、ほぼ8割ほどが従来の路線を離れた。一方、徳田球一志賀義雄ら「非転向」を貫いた党員もいて、戦後になると「獄中十八年」を生き抜いた英雄として迎えられた。
(佐野、鍋山の転向声明を報じる新聞)
 この「転向」をどう考えるべきだろうか。天皇の下の社会主義革命をその後も追求した人などいないだろう。戦後まで生き延びた鍋山貞親三田村四郎田中清玄などは、政財界の黒幕的な右翼として生きることになる。一方、非転向なら良いわけでもなく、「転向」が突きつけた「外国盲従的な党体質」は戦後の共産党に引き継がれてしまった。獄中を生き抜いた徳田も志賀も、結局は除名されている。結局、自由な思想競争のない中で、権力に強いられた「思想変更」には問題がある。

 戦後になると、今度は右から左への「転向」が起きる。そして、高度成長の中で再び左翼陣営から自民党支持者に変わる人々が出て来る。若い時に全学連指導者だった人が、やがて政界、財界、学界で右寄りのリーダーになるのは、むしろ通常のコースになった。90年代以後は、特に湾岸戦争以後に左派から右派に軸を移した人がかなりいる。(教育学者の藤岡信勝などは典型的である。)教員組合のリーダーだった人が管理職になったら、文科省・教育委員会の言いなりになることなど見慣れた風景である。「転向」は戦前だけの問題ではなく、「権力」行使がソフトになった現代にあっても、問い直すべき論点として続いていると思う。
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大木毅『歴史・戦史・現代史』を読む

2023年07月23日 22時02分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 平山優氏の本に続いて、大木毅歴史・戦史・現代史』(角川新書)を読んだ。大木氏は岩波新書の『独ソ戦』がベストセラーになった人で、その後続々と第二次世界大戦頃のドイツや日本の軍事史的な本を出している。ここでは以前に『大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む』で、『独ソ戦』と『「砂漠の狐」ロンメル』(ともに2019年)を合わせて紹介したことがある。「ウクライナ侵略戦争」(大木氏の呼称)開始以後、再び『独ソ戦』が売れているということで、マスコミでも大木氏に意見を聞くことが多くなったらしい。今回の本はそうした短文を集めたもので、折々に書かれた文章をまとめた本である。
(『歴史・戦史・現代史』)
 平山氏と同じく、大木毅氏も立教大学大学院の出身である。大木氏は1961年生まれ、平山氏は1964年生まれなので、お互いが同時期に学んでいたかどうかは知らない。大木氏は軍事史的アプローチで歴史を考える人で、僕にはない視角から第二次大戦を見ていて教えられるところが多い。帯の裏には「軍事・戦争はファンタジーではない。」「戦争を拒否、もしくは回避するためにも戦争を知らなければならない」「軍事は理屈で進むが、戦争は理屈では動かない」「軍事理論を恣意的に引いてきて、一件もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きい」と書かれている。
(大木毅氏)
 さらに帯の裏には『歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさの向こう側」にしかない』『歴史「に」学ぶためには、歴史「を」学ばなければならない。』『イデオロギーによる戦争指導は、妥協による和平締結の可能性を奪い、敵国国民の物理的なせん滅を求める絶滅戦争に行きつく傾向がある。』『戦争、とりわけ総力戦は、体制の「負荷試験」である。われわれー日本を含む自由主義国もまた、ウクライナを支援し続けられるかどうかという「負荷試験」に参加しているのである。」と書かれている。(赤字にしたところは、原文の通り。)特に「つまらなさのむこう側」という言葉は金言だ。
(『独ソ戦』)
 「独ソ戦」がいま改めて注目されるというのは、常識では想像出来なかった事態である。しかし、プーチンのロシアがウクライナに対して「古典的な戦争」を仕掛けるという常識外の事態が実際に起きている。独ソ戦の主要な戦場だったウクライナで、80年経って再び起こった戦争を考える時にかつての戦争理解が大切になる。特にロシアが「イデオロギー」的な動機付け(ウクライナ指導部を「ネオナチ」と決めつけるなど)を行っていることで、「絶滅戦争」的な妥協の余地がない争いになる可能性があるという著者の理解は重大だ。実際に虐殺、児童連れ去りなどが起きているのは、その恐れを否定出来ないということなのだろうか。
(『「砂漠の狐」ロンメル』)
 また、この本にはロンメルを中心に多くの軍人に関する論考がある。僕が知ってるのはロンメルぐらいだけど、ナチス時代のドイツ軍人に関する「歴史修正主義」を実証的に批判する筆致は鋭い。僕は全く知らなかったのだが、日本でもナチスの軍人を史料を無視して英雄視する傾向があるというのである。世界の軍事史的研究の紹介が少なく、最新の研究に学ぶことなくすでに否定されている「歴史修正主義」に安易に拠る人が多いのだという。僕が全く知らなかった本の紹介が多いのも役に立つ。まあ、実際に読むかどうかは判らないけれど、いろいろな立場の本があるんだなあと知ることが出来る。

 大木氏は大学院時代に中央公論社の雑誌『歴史と人物』で働いていたことがあるという。夏冬の年2回、『歴史と人物』は戦争特集を出していたという。そのためにアルバイトが必要で、ドイツ現代史を専攻していた著者が関わったらしい。そのことから、数多くの旧軍関係者と知り合ったことが書かれている。それも面白いんだけど、昔の文章を読みすぎたからか、この人には古風な表現が多い。「さはさりながら」「かような」「かかる」などで、特に「さはさりながら」は現代ではやりすぎじゃないか。「そうではあるけれど」程度の意味だが、もう少し「やさしい日本語」を心がけても良いと思う。僕とは少し立場が違うところもあるんだけど、知らないことを割と気軽に読めるという点で貴重な本だ。
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平山優『徳川家康と武田勝頼』を読む

2023年07月21日 22時32分20秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマの主人公になると、関連の歴史本が大量に出版される。特に戦国時代の場合だと、僕も何冊か読むことが多い。ちょっと前には黒田基樹氏の本を読んで『最新の徳川家康像を探る』(2023.4.23)を書いたが、今度は平山優氏の『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)を読んだ。平山優氏は今年の大河ドラマの時代考証を務めているが、一般的知名度はまだまだだろう。僕も2017年に角川選書から出た『武田氏滅亡』という分厚い本で初めて名前を知った人で、今回初めて読んだ。

 近年になって武田勝頼の評価が高くなってきた。以前は偉大な父親武田信玄の後を継ぐ予定じゃなかったのに、やむなく傍流から後継となって武田家を滅亡させた弱将といったイメージが強かったと思う。しかし、信玄急死の後、古参家臣とのあつれきを抱えながら、武田家最大の版図を実現したのは勝頼時代だった。信玄時代には祖地である甲斐から隣国信濃に領土を拡大させ、さらに駿河西上州に進攻した。さらに勝頼時代に遠江(とおとうみ、静岡県西部)、三河(愛知県東部、徳川家の本国)北部、上野(こうずけ)全域、越後西端部まで領土が広がり、勝頼の統率力が注目される。
(武田勝頼)
 この本を読むまでうっかり気付かなかったが、今まで「織田信長」対「武田信玄」という構図で考えがちだった。しかし、実際の戦闘経過をみると「武田勝頼」対「徳川家康」の戦いというべきだった。もちろん信長あっての家康なのだが、信長が常に前線にいるわけもなく、領地の位置からも武田家に正面から対峙していたのは徳川軍だった。この本を読むと、攻略だけでなく、「調略」(自陣営に寝返らせる謀略)も度々仕掛けられている。一番深刻なのは、1573年に家康の正妻、築山殿まで巻き込まれた謀略である。築山殿に武田の手が伸びていたのは、今は確実とみなされている。

 戦国時代は「政略結婚」の時代である。妻は結婚後も実家を代表する場合が多い。信長の妹「お市の方」が嫁いだ浅井家と、織田家が対立するようになった悲劇は有名だ。今川義元の後を継いだ今川氏真の妻は北条家の出身で、そのためか父の仇織田家と戦うより、上杉に攻められて窮地に立つ北条氏へ援軍に出ることが多かった。その結果家中の信頼を失っていき、それを見た信玄は武田、今川、北条三国同盟を破棄して、今川家の支配する駿河を攻略した。(その時、家康は武田と同盟して、遠江に進攻している。そして攻め取った地域に浜松城を築いた。)

 その時、信玄の駿河侵攻に激しく反発したのが、信玄の長男武田義信だった。妻が今川義元の娘で、武田家中の親今川派の代表だったと言われている。1665年に義信側近が信玄暗殺を画策し、それに加担したとして信玄は義信を幽閉して廃嫡した。(1567年に死亡。)次男は盲目で、三男は夭逝したため、1573年に信玄が急死したときには、諏訪氏の娘に産まれた4男の勝頼が継ぐことになったわけである。いわば外部から乗り込んだとも言え、特に1575年に長篠の戦いで大敗したため、今までは勝頼の武将としての才能には疑問を持つ人が多かった。僕も授業レベルでは、「長篠の戦いから武田家滅亡へ」程度で済ませることが多かった。

 このように武田信玄は長男を排除したわけだが、よく知られているように徳川家康も長男を死に追いやっている。1579年に起こった松平信康事件である。家康の正妻築山殿は今川家の重臣の娘(義元の姪)で、もともと家康の反今川政策には批判的だったのだろう。一方、信康の妻は織田信長の娘で、信康の行状を父信長に伝えたのはその妻だったとされている。戦国時代の武将も妻の実家との関係は難しかったのである。その信康事件の真相はなかなかはっきりしないが、この本では15ページ近くこの問題を考察していて、なるほどなあと納得するところがあった。基本的には信康の行状には問題があったらしいと言うのである。

 一進一退を続けていた武田・徳川決戦が最終局面に入ったのは、1580年に始まった高天神(たかてんじん)城攻防戦だった。と言われても、場所がすぐ判る人は少ないだろう。遠江の海辺(当時)にあって、今の地名で言えば静岡県掛川市になる。家康の本拠浜松城と御前崎の中間あたりである。当時は入江が近く、海からの補給も可能だった。しかし、家康が周囲を取り巻く砦を多数作って包囲戦を開始し、城内は援軍を信じて奮闘を続けたが1582年3月に落城した。勝頼は何で援軍を送らなかったのか。武田勝頼も天下人となりつつあった織田信長に接近を図っていて、その工作が破綻することを恐れたのだという。
(高天神城跡)
 高天神城は武田支配の突端にあたり、第二次大戦で考えればガダルカナル島にあたる。周囲を取り巻かれて補給が続かず、落城するしかなくなった。その時に、やはり第二次大戦中の戦争最終局面で、ソ連の仲介による和平工作を考えた大日本帝国を思い出してしまった。実はソ連は米英に対し、ドイツ敗戦後の対日開戦を約束していたというのに。同じように信長は、出来るだけ武田家中が疑心暗鬼になるように、城内からの降伏申し出を拒絶している。次の武田壊滅戦に有利になるように、勝頼の権威失墜を優先させたのである。実際に武田家中にはこの後勝頼を見限って織田・徳川に内通する者が相次ぎ自壊していった。
(平山優氏)
 著者の平山優氏(1964~)は、両親が山梨出身で早くから武田氏に関心があったらしい。実は立教大学の藤木久志ゼミ出身だということで、へえと思った。年齢が違うので存じ上げないけれど、同じ研究室で学んだこともあるはずだ。山梨県史編纂室、山梨県立博物館、山梨中央高校(定時制)教諭を経て、現在は健康福祉大学特任教授と出ている。本能寺の変以後の織田領国争奪戦は近年「天正壬午の乱」と呼ばれるようになったが、その研究をリードしてきた人のひとりである。武田氏に関する本格的研究書をいっぱい書いていて、最近は一般向けの新書なども多い。これからも読んでみたいと思う。
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最新の徳川家康像を探るー黒田基樹氏の本を読む

2023年04月23日 23時29分52秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマを見なくなって、もう何十年も経つ。自分も幼き頃は大河ドラマで歴史ファンになったようなものである。でも大学生頃からはほとんど見てない。実際に「歴史学」を学ぶようになってしまったから、今さら戦国や幕末のドラマを見ても違和感を感じる部分が多い。それでも大河ドラマをきっかけに、関連人物の研究が進んで新書などで刊行されることが多い。この「大河特需」は研究者にも歴史マニアにもありがたいものじゃないだろうか。

 今年は徳川家康だから、家康本が並んでいる。その中で関東戦国史をずいぶん読んできた黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』(朝日新書)を見つけたので思わず買ってしまった。3月30日付の本で、時に大きな書店に行くとこういう本を見つけられる。早速読んだんだけど、最近では一番面白かった本だ。やっぱり歴史系の本が好きなのである。近現代は読む側に「価値観」が問われるけど、戦国時代はそこまで考えなくても良いから気が楽だ。
(『徳川家康の最新研究』)
 帯には「忍耐の人ではなく、ありえない強運の持ち主だった!」と書かれている。それはその通りだろう。各章を紹介すると、「今川家における立場」「三河統一と戦国大名化」「織田信長との関係の在り方」「三方原合戦の真実」「大岡弥四郎事件と長篠合戦」「築山殿・信康事件の真相」「天正壬午の乱における立場」「羽柴秀吉への従属の経緯」「羽柴政権における立場」「関ヶ原合戦後の『天下人』化」の全10章。最晩年の豊臣氏滅亡に至る問題は触れられていない。

 よく知らないだろう言葉を解説しておくと、「大岡弥四郎事件」というのは、長篠合戦(1575)の直前に岡崎町奉行の一人だった大岡弥四郎が、武田軍を城内に引き入れる謀反を企んだが事前に発覚して防いだという事件だという。僕も初耳だったが、当時家康は浜松城を本拠としていて、岡崎城は1571年に成人した長男信康が城主となった。この陰謀は単に大岡一人のものではなく、信康家臣団中枢につながるものだった可能性が高い。武田勝頼は結果的に滅亡したので、何だか弱将だったイメージがある。しかし、信玄没後も広大な領国を長く維持して、当時は東三河に侵攻を計っていた。勝頼の評価は最近かなり高くなってきた。

 1582年に武田家は滅亡する。家康は3月10日に甲府に着いたが、本能寺の変が起こったのは6月2日。武田滅亡後に家康は駿河を与えられたが、甲斐・信濃・上野の旧武田領は織田政権の支配が安定しないうちに崩壊し、その結果、徳川、北条、上杉、また信濃の国衆などが実力本位で争った。それが「天正壬午の乱」で、この名称も近年になって定着したものなので僕は知らなかった。当時の焦点は織田政権の後継の行方である。研究者も中央政界の動向に目が行っていて、地方の事情は軽視されていた。結局、甲斐・信濃は徳川、上野は北条が切り取り次第となって決着した。
(『徳川家康と今川氏真』)
 その後、黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日選書)が出た。4月25日付だから、まさに最新の本だ。これは名前通り、今川氏真(いまがわ・うじざね、1538~1615)との長い関係をていねいに追求し、今までにない史実を豊富に指摘している。前書と合わせて、今川家との関係を見ておきたい。今までは徳川家康は忍耐、辛抱の人生で、まず幼少期に父が死んで、今川家の人質にされたと出て来る。それも一時は間違って織田家に送られたという話もあった。それはどうやら間違いらしいが、今川家に送られ駿府(今の静岡市)に住んでいたのは確かである。しかし、それは人質という性格のものではなかったらしい。

 今川家従属の国衆は原則として駿府在住が求められ、家康も特に扱いがひどかったわけではない。むしろ一門の重臣関口家の娘(築山殿)と結婚を許され、一門衆扱いされていたらしい。1560年の桶狭間の戦い今川義元が敗死して、すぐに家康は従属関係を解消し信長と同盟したというのも間違い。織田・徳川の清洲同盟は翌1561年のことである。当初はまだ今川家に従っていたのだが、次第に独立志向を強くしていき、三河(愛知県東部)の統一を目指し始める。1563年に名前を改め、今川義元から一字を貰った「元康」から「家康」とした。これが今川との公式的な手切れだろう。

 当時の関東情勢のベースは「甲相駿三国同盟」だった。武田信玄北条氏康今川義元の間で相互の婚姻関係を結び、1554年から1567年まで継続された。しかし、義元死後に武田信玄は駿河を狙う素振りを示した。1567年に信玄は嫡子義信を幽閉し、義信は後に自害する。真相はよく判らないが、今川義元の娘と結婚していた義信の親今川路線が父と対立したものだと言われている。実妹がないがしろにされた今川氏真は、怒って同盟を破棄していわゆる「塩止め」に踏み切った。この氏真の妹・貞春尼は後に家康の三男、秀忠(二代目将軍)の上臈(じょうろう=女性家老・後見役)を長く務めた。これはこの本で初めて紹介された新事実で、徳川、今川の秘められた深い関係を明かしている。

 もうかなり長くなっているので、その後のことは簡単に。結局、武田軍は駿河を制圧し、さらに家康支配下の遠江(とおとうみ=静岡県西部)、三河にも攻撃の手を伸ばす。今川氏真は妻の実家である北条氏のもとに身を寄せて再起を目指した。その後、上杉と同盟していた北条氏が武田と再同盟すると、氏真は一家で家康の元に移った。家康は織田信長に従っていて、織田は父義元の仇敵である。しかし、現に旧領池の駿河を支配しているのが武田氏である以上、武田氏と戦っている家康と協力するしか今川家再興はないと覚悟したのだろう。家康としても旧領主を担ぐことは有利となる。氏真は一城を与えられ、武田滅亡後には氏真に駿河半国を与えるよう家康は信長に進言したという。だが信長は今川勢の力を評価せず、駿河全国を家康領とした。
(黒田基樹氏)
 ここにおいて戦国大名としての今川家は完全に没落した。しかし、秀忠との関係を軸にして徳川と今川の関係は続いた。今川家の中央(朝廷や幕府)とのつながりは徳川家にも必要だった。江戸時代になっても、今川家は高家として生き残っていった。高家とは吉良家が有名だが、朝廷関係の儀式などを担当する名家である。

 ところで、家康最大の幸運は武田信玄が行軍中に陣没(1573年)したことだろう。戦国時代のいろんな本を読んでいて、とにかく武田信玄は強かったと思う。どうにも好きにはなれない点が多いけど、とにかく信玄が生きていれば、徳川家の滅亡もあり得なくはなかったと思う。だからこそ、徳川家の中にも武田の調略に応じるものも出て来る。家康が妻と長男を殺害した有名な「築山殿始末」は、今までの小説や映画などでは信長に命じられて苦悩の内に「お家のため」に家康も踏み切ったのだとされてきた。しかし、黒田氏の本では、そういう性格のものとは言えないと書かれている。築山殿には実際に武田家との関係があったらしい。

 黒田基樹氏(1965~)は実に多くの一般向け著作を書いている。特に関東の戦国大名の研究が多く、特に後北条氏研究の第一人者。そこから進んで最近は武田氏、今川氏、徳川氏なども対象にしている。駿河台大学教授だが、それはどこにあるのかと思ったら埼玉県飯能市だった。お茶の水の駿台予備校をやってる駿台学園が開いた大学である。
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「清張史観」の克服をー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む③

2023年04月10日 22時45分42秒 |  〃 (歴史・地理)
 池上彰・佐藤優両氏の『日本左翼史』三部作をもう一回。この本は対談なので様々な話題に飛んでいるが、中にはちょっと議論が粗いかなというところもある。(いくつかの重要な点は大塚茂樹著『「日本左翼史」に挑む』で検討されている。)ここでは自分の問題関心にそって、「下山事件」評価に関わる問題、松本清張の著作に顕著な「陰謀史観」の克服という問題を書いてみたい。
(松本清張)
 僕は子どもの頃から歴史に関心があって、小学校6年の時にどこかのデパートで開かれた「金印展」に行った記憶がある。例の「漢委奴國王」の金印が展示されたのである。どこのデパートかは忘れた。もちろん自分一人で行ったのではなく、親に連れて行ってもらったのである。そこでは様々な本を売っていたが、松本清張古代史疑』(1968)という本を買ってもらった。その時にはすでに中央公論社『日本の歴史』シリーズを読んでいたので、邪馬台国論争の基本はおおよそ知っていた。で、難しいながら松本清張の古代史論に熱中したのである。

 松本清張(1909~1992)は没後30年を過ぎても未だに読まれ続けている。さすがに映画化は2009年の『ゼロの焦点』以後はないようだが、テレビドラマは2020年代になってもかなり作られている。日本人の「庶民感覚」にフィットする部分があるんだろう。『古代史疑』の時はよく知らなかったけれど、その後「社会派ミステリー」の大家だと知って小説も読むようになった。

 多分高校生の時に「新潮日本文学」という大きな全集の一冊を買って、『点と線』『ゼロの焦点』、多くの短編などを読んだ。その時点でさすがに『点と線』のトリックは見抜けたけど、ホントにそれでいいのかと思いつつ読んだ。『日本左翼史』の中では佐藤氏が70年以後はこのトリックは不可能と述べていて、なるほどと思った。ただ生誕100年の時に読み直してみたら、トリックは別にして今読み直しても面白いのに驚嘆した。

 だから文春文庫が創刊され(1974年)、しばらくして『日本の黒い霧』上下2冊が収録されたときには早速買って読んだのである。ウィキペディアで文春文庫を調べてみたら、刊行当時は紙質が悪かった(オイルショック後のため)とあった。そうだった。『日本の黒い霧』も電話帳と同じ変色しそうなレベルの紙だった。ものすごく面白くて熱中して読みふけったが、全部を鵜呑みにしたわけではない。だけど、基本的には「占領下の怪事件=米軍謀略説」になるほどそうだったのかと納得させられたと思う。
(『日本の黒い霧』上巻)
 その頃はアメリカ軍はヴェトナム戦争の悪いイメージが強かった。一方で中国の文化大革命や「北朝鮮」内部の事情などはまだ報じられてなく、革命幻想のようなものが強かった。米軍がこのような謀略を企んで、朝鮮戦争を起こしていったのかと歴史の闇がつながった気がしたのである。様々な怪事件(下山事件、松川事件、白鳥事件、鹿地亘事件などなど)を通して、最終的には「謀略朝鮮戦争」につながっていく。見事な構成である。今は怪事件の中身には一つ一つ言及しないが、「革命を売る男 伊藤律」を読むと、戦前から共産党にはスパイが紛れ込んでいたのかと衝撃を受けた。

 しかし、その後僕はちょっと待てよと思う本に出会った。佐藤一氏の『下山事件全研究』(1976)である。これを素直に読めば、松本清張説は成立が難しいと思うようになった。清張本に憶測で語られていた論点を一つ一つ実際に取材をして確認している。佐藤一氏は松川事件1.2審で死刑判決を受けた人である。その後、無罪判決が確定し(1963年)、以後下山事件研究会の事務局長を務めていた。当然、その時点では共産党員で、その立場で事件を調べていったわけである。
(佐藤一氏)(『下山事件全研究』)
 佐藤一氏については、かつて「佐藤一という人ー映画「黒い潮」と下山事件」(2013.4.9)という記事を書いたので、今は詳しくは書かない。しかし、その後も下山事件に触れる人のほとんどは、佐藤氏の本に触れない。佐藤氏の「自殺説」に反証しないまま、「他殺説」を語っている本が多い。佐藤氏が党を離れ、下山事件研究も無視され続けたことから、清張批判のトーンが段々高くなっていき、読む側も「奇人」「奇書」扱いしてしまったのかもしれない。だが、一番最初の『下山事件全研究』は、この問題を論じるときの必読前提書に違いない。

 『日本左翼史』の中でも、下山事件に触れた箇所がある。佐藤氏は今では自殺か他殺かは「永遠に不明」と述べている。しかし、矢田喜美雄氏(他殺説に立って本を書いた元朝日新聞記者)の本は名を挙げているのに対し、佐藤一氏には触れない。それでは「他殺説」に傾いたスタンスだと思われても仕方ないだろう。『日本の黒い霧』で触れられた「謀略説」はその後どんどん崩れていった。もうどこかで死んでいると思われた伊藤律が中国で生きていたと1980年に判明し、帰国したのは驚いた。自分はスパイではないと主張し、今では文春文庫版には注記がなされているという。

 白鳥事件(1952年に札幌で警察官が殺害された事件)に関しても、謀略ではなかったという主張がなされ、僕もそれが正しいのだろうと思う。それより何より、ソ連崩壊で大量の秘密文書が明らかになり、朝鮮戦争は中国、ソ連の了解のもと、「北」側から侵攻したことが証明された。そうすると、『日本の黒い霧』の全構図が変わってくるはずだ。もちろん米軍が企んだ謀略もなかったわけではないだろう。しかし、「社会主義国」を一方的に「平和勢力」と前提するわけにはいかない。

 下山事件の詳細については、ここで触れなかった。過去の記事を当たって欲しい。ただちょっと追加しておく。下山事件というのは、いうまでもなく、1949年7月に当時の国鉄総裁だった下山定則氏の轢死体が見つかった事件である。下山総裁の存在が占領軍のジャマになっていたわけではない。ジャマなのは国鉄の人員整理に強く反対する国鉄労組内の共産党系組合員の方である。従って、米軍が謀略を企むとすれば、「下山総裁を殺害したとして共産党員に罪を負わせる」というものになる。しかし、自殺か他殺か決着せず、結局誰も起訴されなかった。

 つまり「失敗した謀略」だったことになる。清張説によれば、下山氏は「血を抜かれて殺害され」、その後「列車に轢かせた」というのである。なんでそんなことをするんだろうか。そのため、自殺か他殺か判らなくなってしまったではないか。「怒れる共産党員が総裁を殺した」にしたいのである。殴り殺して国鉄が関係する場所に死体を放置して置けば良いではないか。そうすれば、アリバイが成立しない共産党系組合員の一人や二人見つけられただろう。清張説を読んで納得してしまいがちなのは、「下山総裁殺害」そのものが目的のように思い込んでしまうからだ。しかし、「謀略」であるならば、共産党員に罪をなすりつけやすいように計画するはずだ。プロなんだから。一番おかしいのはその点だろう。
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「講座派」「労農派」論争を越えてー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む②

2023年04月09日 23時17分28秒 |  〃 (歴史・地理)
 戦前に行われた「日本資本主義論争」というものがある。近代史、経済学に関心が深い人には有名な論争だが、今さら一般向けにはそれほど意味がある論争でもないだろう。しかし、『日本左翼史』三部作ではかなり触れられている。特に佐藤優氏が「労農派」の影響を強く受けてきたらしいことに驚いた。佐藤氏は1960年生まれだというのに、若い時に社青同(日本社会主義青年同盟=社会党系の青年組織)に加盟していたのである。そのため、社会党と「新左翼」との関係に詳しく、一部新左翼党派が社会党への加入戦術を取るなど「社会党が新左翼の傅育器(ふいくき)だった」という興味深い指摘をしている。

 「日本資本主義論争」とは、文字通り日本の資本主義発達史をどのように理解するかという論争である。簡単に紹介しておくと、1932年から33年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』で主張された見方が「講座派」と呼ばれた。執筆者には共産党系の理論家が集結し、明治維新で成立した体制は「半封建的主義的な絶対主義天皇制」であり、従って社会主義革命に先だって「天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命」が必要になると主張した。

 一方、非共産党系の学者、運動家が1927年に創刊した雑誌「労農」では、違った主張がなされた。そこでは「明治維新は不徹底ではあるがブルジョワ革命」とし、当時の日本の支配者は「金融資本・独占資本を中心とした帝国主義的ブルジョワジー」だとする。そのため、日本ではすぐに社会主義革命が可能だとした。そのような考えを「労農派」と呼ぶ。革命論では講座派が「二段階革命論」、労農派が「一段階革命論」となる。労農派の人々は戦後には社会党左派系の活動家になった。
(当時の雑誌「労農」)(復刻された「日本資本主義講座」)
 この論争はある時期まで非常に重要な意味を持っていた。戦後に再建された共産党は講座派、社会党は労農派の理論的影響下にあったということも大きい。共産党は戦後になっても、日本は基本的にはアメリカに支配されていると主張し、アメリカからの「民族独立革命」という「二段階革命論」を主張した。経済史以外の学問にも、日本の特徴をどのように理解するかという点で大きな影響を与えてきた。今になって、当時の論争としてはどちらが正しい理解だったという判定には興味がない。論争になったという時点で、双方にそれなりに「そう見える論拠」があったと思っている。

 ただ、労農派の中心になった社会主義者、山川均(1880~1958)はもっと知られるべき思想家だと思う。山川らは1922年に「第一次共産党」を結成したメンバーだが、その後解党して第二次結党(1926年)には加わらなかった。共産党からは批判されたが、一貫して合法的な共同戦線党を主張し、大衆運動との結びつきを強調した。またレーニン主義を信奉せず、日本の革命は日本の現実から出発するべきで、ロシアやドイツなど外国をまねるべきではないとした。世界的に左翼陣営ではソ連の影響力が圧倒的だった時代に、これほど自立的な立場を貫いたのは珍しい。戦時中もウズラを飼って生き抜いている。
(山川均)
 社会党系の社会主義協会などの理論的な歩みが三部作では細かく言及されている。あまり類書がないと思うし、僕も興味深い点が多かった。しかし、ここではちょっと違った視点から日本資本主義論争を振り返ってみたい。戦前はもちろん、戦後も70年代ぐらいまでは、日本は「欧米以外で唯一近代化に成功した国家」だった。「近代化」とは工業化でもあり、戦前においては「植民地を有する帝国主義国家」でもあった。どうして日本は「近代化」を曲がりなりにも成し遂げられたのか。また何故第二次大戦で敗北し、占領下で民主主義国家になったのか。これは革命党派以外にも切実な問いだった。

 だから経済学以外でも、欧米諸国と日本を比較検討し「日本の特色」を探し出す試みは多くなされた。精神科医の土居健郎の『「甘え」の構造』はその代表である。その時に日本と近隣アジア諸国との比較はなされなかった。だから、後に韓国の李御寧氏から韓国にも「甘え」に似た言葉があると指摘されている。当時の日本人は左右を問わず、日本を欧米諸国と比べていた。「日本はすごい」と見るか「日本は遅れている」と見るかは分かれても、欧米と比較することは誰も不思議に思わなかった。

 しかし、80年代になって韓国、台湾、香港、シンガポールの工業化が進展し「アジアの四つの龍」と呼ばれた。その後の東南アジア各国や中国、インドの経済成長は著しく、それにアフリカ諸国も続いている。「欧米のような高度に発達した工業国家になったのは、非欧米世界では日本だけ」という認識はもはや全く成立しない。文明史数千年の流れの中で、西欧から始まった工業社会化は数百年のタイムラグはあったが、全世界に広がりつつある。イギリスのような「国内は議会制民主主義、国外は帝国主義的侵略主義」という近代化の方がレアというべきではないか。

 日本の明治維新は「不十分なブルジョワ革命」というよりは、「伝統的な価値体系を残しながら、上からの近代化を推進する」という開発独裁に見えてくる。韓国やインドネシアの軍事独裁に先駆けて成立した開発独裁である。ロシアや中国で共産党がなしとげたことも、一党独裁での工業化ではないか。もっとも毛沢東時代は特別な例外である。その後の「改革開放」を主流と考える。

 そういう見方をするなら、「日本資本主義論争」をどう考えるべきか。日本の近代化こそ、伝統(天皇制)と結びついた、「人権宣言抜きの議会政治」なのである。「一段階」でも「二段階」でも、革命は難しかった。工業化はなしとげたが、社会の中に「人権宣言」がなかった。革命勢力もそのマイナス面を引きずり、人権上問題のある内部闘争が頻発した。しかし、このタイプの近代化こそ、アジア諸国のモデルタイプだったのではないか。中国やインドネシアの現状を見るとそう思えてくる。「日本資本主義」はむしろ標準事例だったのではないか。
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「左翼」は復活するのかー池上彰・佐藤優『日本左翼史』三部作を読む①

2023年04月08日 23時20分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 先日、大塚茂樹さんから近著『「日本左翼史」に挑む』(あけび書房)を贈って頂いた。早速読んでみたのだが、その感想はもう少し後で書きたい。なぜなら、その本は池上彰佐藤優両氏の『日本左翼史』三部作(講談社現代新書)を受けて書かれたとあるからだ。その3冊が「未読でも読んでいただける」と書かれている。確かにそうだったが、自分の性分としてやはり池上、佐藤氏の本を先に読んでおきたい。入手が難しい本じゃないし、対談なんだから読みにくい本じゃないだろう。
(『真説 日本左翼史』)
 その3冊を僕はこれまで読んでなかった。というか、池上氏や佐藤氏の本を今まで買ったことがないのである。(佐藤氏のデビュー作『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』は読んでるが、勤務先の学校図書館でリクエストしたのである。)池上、佐藤両氏を特に忌避しているわけじゃない。単に僕もあらゆる本を買って読むわけにはいかないだけである。この本の存在は知っていたが、まあ大体知っている内容だろうなあと思ったから、別にいいやと買わなかったのである。で、確かに「大体」の流れは知ってたことだった。しかし、「大体じゃない部分」には知らないことがいっぱいあった。そして、そこが面白いのである。

 様々なテーマを縦横無尽に語れる佐藤氏に、テレビで博識を誇る池上氏の顔合わせである。実に面白かったけれど、存分に語られる二人の「自分史」こそ興味深い。池上氏は東大入試が中止された年の受験生で、「マル経」(マルクス主義経済学)を勉強したいと慶應大学に進学したとか。またNHK入局後は当然労働組合(日放労)に加盟し上田哲の選挙運動をしたなどのエピソードが出て来る。また佐藤氏お得意の理論面の分析が豊富で、その方面が苦手な僕には大変役に立つ本だった。ということで「戦後左翼史」には関心のない人も多いだろうけど、他のテーマも交えながら何回か続けることにしたい。

 その理論面の話などは後に回して、まず三部作の構成を紹介しておきたい。
①『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945~1960』(2021.6.20、229ページ)
②『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960~1972』(2021.12.10、266ページ)
③『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972~2022』(2022.7.20、187ページ)
(『激動 日本左翼史』) 
 ページ数を見れば判るように、三部作の中でも2巻目「60年安保から「新左翼」の「壊滅」まで」が一番長い。語るべき出来事が多いのは間違いないが、同時代人として知ってる人が多い割りに若い世代には継承されていないという思いもあるだろう。ところで「左翼」とは何だろうか。定義次第で様々に変わってしまう言葉だが、もともとはフランス革命にさかのぼると言われる。革命後の議会で、議長席から見て左側に王政反対派、右側に王政擁護派が着席した。当時は「王政の是非」こそが左右の分岐点だったのである。しかし、現在のフランスで「極右」とされる「国民連合」も、別に王政復活を掲げているわけではない。
(フランス革命時の左翼・右翼)
 もうフランスでは共和政が定着していて、「左右」の定義も変わっているのである。19世紀半ばにカール・マルクスが現れ、『資本論』などを著した。そして、資本主義の搾取社会から、やがては社会主義へ、そして最終的には搾取なき共産主義の社会へと人類史が進んで行くとした。その思想に基づき「社会主義社会を目指した革命を実現する」というのが、「20世紀の左翼」と考えて良いだろうと思う。様々な社会主義の考え方もあり続けたが、一応「マルクス主義」が優勢だった。三部作が対象とする時代、敗戦から72年までの日本でも同様である。

 つまり、「日本共産党」、「日本社会党」、そして共産党を批判してさらに左側に作られた「新左翼諸党派」が、この本で語られる「左翼」である。他にも左翼、もしくは左派的な組織、理論はあったし、政治闘争を抜きに直接共同社会の実践を行う「コミューン」もあったけれど、それは語られない。実際、この時代の日本社会史を語る時には外しても良いだろう。もっとも立場によっては、新左翼の扱いが大きすぎるという人もいるかもしれない。だけど、当時の世の中では組織的、理論的な実態を越えて、新左翼諸党派には大きな存在感があったのも間違いない。大規模な街頭闘争が頻発していたからである。
(『漂流 日本左翼史』)
 この三部作では「左翼」はいずれ復活すると佐藤氏が指摘している。新自由主義的なグローバリズムによって、「格差」が激しくなってしまった。フランス革命の「自由」「平等」「友愛」というスローガンにある、「平等」「友愛」の価値が見直されるときが来るということだろう。「歴史は繰り返す」という言葉もある。その時に近過去の日本で起こった「左翼の間違い」を総括して、次世代に伝える必要がある。それがこの本のスタンスである。僕もその考えは理解出来ないわけではない。マルクス主義ではないだろうが、「左派」的な思潮が蘇ってくる可能性もあるだろう。

 だけど、と僕は思うのである。「日本右翼史」は振り返らなくて良いのだろうか。戦後左翼史では確かに多くの悲劇的なケースがあり、何人もの人命が失われた。間違いを繰り返してはならない。だが、近代日本史総体を見るとき、むしろ「右翼」のもたらした悲劇の方が深刻だったのではないか。右派論者の中にはアカデミズムが長く左翼に支配されていたかのように言う人がいる。局地的にそういう面があったとしても、近代日本では右派が支配していた時代の方がずっと長かったはずだ。

 「左翼が復活する」という期待(または心配)よりも、僕は右派的なテロリズムが復活する心配をした方がいいのではないかと思う。「左翼」は革命を目指すので、議会によるか「暴力」によるかは別にして(まあ、「暴力革命」はもう不可能だが)、強大な革命党派が必要だ。それがもう現代の若者には面倒なんじゃないか。労働組合にも加盟せず、選挙にさえ行かない世代から、新しい革命党が生まれるだろうか。その「革命」が環境保護とか動物の権利とかのテーマだったとしても。

 日本の右翼は、伝統的に「破壊」だけで良しとする。日本には「天皇」がいて、フランス革命時の定義からしても「天皇制擁護」が右翼になる。天皇がいて「国体」が護られるならば、それ以上考える必要がない。自分の役割は「余計な悪を除去する」ことに絞られる。それで社会を良く出来る(と信じられる)んだったら、左翼より右翼の方が「コスパが良い」というもんじゃないか。実際に山上徹也容疑者の銃弾によって、日本の政治状況は大きく変わってしまった。武器でさえ自作したらしい。

 その後「被疑者死亡」のため真相不明ながら、宮台真司氏襲撃事件も起きている。そういう「個別決起」で、社会を変えようという発想が広がる可能性はないだろうか。どちらの事件も狭義の「右翼」の事件ではないだろう。だが「個別決起」を実践したケースではある。左翼の失敗を振り返り、左翼の再生を考えるのも大切だろう。でも、「日本右翼史」を振り返ることはもっと大切だと思う。いかにして戦争への道が切り開かれ、誰も止められなかったのか。今緊急な問いだと思う。
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竹生島は島じゃないのか?ー日本の島の数が「倍増」した理由

2023年02月16日 22時44分39秒 |  〃 (歴史・地理)
 日本の島の数が倍になったそうである。具体的に数を示せば、これまでの「6852」から「14125」になった。エッと思うけど、そもそもなんで数え直したのか。それは自民党の有村治子参議院議員が「島の数を正確に把握することは国益に関わる大事な行政だ」と指摘したのがきっかけだという。計算のベースは、国土地理院の2022年の「電子国土基本図」で、コンピュータで自動計測した。ただ人工的な埋め立て地などを除外するため、過去の航空写真と照合したという。
(島の数倍増を伝えるテレビ)
 ところで、そもそも「島ってなんだろう?」問題がある。「島」を定義しないと、数えようがない。それを授業などで考えてみるのも面白いだろう。まあ、ここでは話を進めるために答えを書いておくと、定義の根拠は国連海洋法条約である。
 ①自然にできた陸地 ②水に囲まれている ③満潮時でも水面上にある

 なるほどと思う定義だろう。だけど、疑問もある。それでは満潮時でも海面の上にちょっと出ている岩も島なのか。「島」ならその周囲は領海、あるいは排他的経済水域の基準となる。しかし、ただの「岩礁」(がんしょう)なら、そうはならない。人が住めないような「岩礁」では権利を主張できない。これが南シナ海をめぐって争われた国際司法裁判所の判断である。

 日本では「外周が100メートル以上の島」を数えることにしているという。正方形の島だとすると、一辺が25メートルである。大きいような小さいような…。ただ人が住めるような面積じゃない。なんで100メートル以上なのか書かれてないけど、これまでの島の数は海上保安庁がその基準で手作業で海図から数えたものだという。だから、以前と同じ基準なのである。電子地図をコンピュータで検索したことで、小さな島まで自動的にリストアップされてきたということのようである。

 都道府県別に、多い順に示すと以下の通り。
長崎県 1479
北海道 1473
鹿児島 1256
岩手県  861
沖縄県  691
宮城県  666
和歌山  655
東京都   635
島根県  600
三重県  540
(都道府県別の島の数)
 一方、少ない方の県はと考えて、そうか「海なし県」は島がない。埼玉県奈良県に島があるわけないだろう。海に面した都道府県で島がないのを探してみると、大阪府だけがゼロである。関空や夢洲はあるが埋め立て地。ところで、海なし県は軒並みゼロになっているが、琵琶湖のある滋賀県はどうなんだろう。ここもゼロである。えっ、おかしくないだろうか。

 国宝の島として知られる竹生島(ちくぶしま)は島じゃないのか。あるいは近江八幡市にある沖島はどうなんだ。ここは人口250人程度が住み、日本唯一の淡水湖中の有人島である。(また猫の島としても有名。)このように湖の中の島は全国に見られる。島根県の中海にある大根島。北海道の洞爺湖にも島があるし、日光の中禅寺湖にも島がある。長野県の野尻湖には琵琶島があって、昔作家の中勘助が暮らしていたことがある。
(竹生島)
 先に見た島の定義からしても、まあ湖だと湖水の干満はないけれど、自然にできた陸地なんだから、島の数に入れなくて良いのだろうか。ただ昔のように、数えるのが海上保安庁なら海上交通の保安面からして湖の島を数える必要がない。だけど、我々の文化的、自然景観的な常識からして、湖にある島も「日本の島の数」に入れるべきではないだろうか。

 一方、「外周100メートル以上」条件のために、到底普通は島とは言わないような所までリストアップされている。それは上記都道府県リストで、長崎、北海道、鹿児島はいいけれど、第4位に岩手県が入っていることでも判る。上位3道県は有名な島の名前がすぐ思いつくけど、岩手県に島があるのか。地図がある人は見て欲しいけど、とても861個も島があるとは考えられない

 それは首都圏でみても同様。伊豆諸島、小笠原諸島を管轄する東京都は理解出来るが、茨城県が13千葉県が244神奈川県が97って、ほんとにそんなにあるのかなあと疑問に思う。江ノ島とか幾つかあるのは知ってるけど、こんなにあるのはよほど小さいのまで数えているわけだ。国境地帯などは別だろうが、人が住んでいない島の数がいくつかなど、これほど細かく調べても「国益」に関係ないだろう。むしろ湖の島なども入れて、「常識的な数字」を出した方が良い。
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ブラジリアと首都移転した国々をめぐって

2023年01月15日 22時50分38秒 |  〃 (歴史・地理)
 2023年1月8日にブラジルで、約4000人のボルソナロ前大統領支持者が大統領府や国会議事堂を襲撃する事件が起きた。2年前の2021年1月6日に起きた、アメリカの国会議事堂襲撃事件を思い出してしまう。かつてカール・マルクスが「歴史はくりかえす。ただし、一度目は悲劇、二度目は喜劇として」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)と述べたのも思い出した。
(ブラジルの国会襲撃事件)
 もっとも「選挙結果を認めない前大統領」が「二度目」なのと同時に、今回当選した左派のルーラ大統領も2度目である。2003年から2010年に大統領を務め、その後就任中の汚職事件で実刑判決を受けて収監されていたが、2019年11月に釈放された。その後、2021年になって、最高裁がこれまでのすべての判決を無効化したことによって、2022年の大統領選に出馬が可能になったのである。ボルソナロとルーラと一体どちらが悲劇であり、どちらが喜劇なのか、まだ歴史の判定に待つしかないだろう。

 ところで今回書こうと思うのは、首都ブラジリアの話である。そこは計画的に整備された人工都市で、移転された首都だったことは有名だ。それ以前の首都はリオデジャネイロだったが、50年代に移転計画が進行して1960年に移転が実現したのである。それは非常に有名な話だが、60年以上も経って「当たり前」になってしまい意識することも少なくなった。移転当時は「何もない」と言われていたが、現在はサンパウロリオデジャネイロに続く、人口300万を超えるブラジル第3の大都市になっている。
(ブラジリアの国会議事堂)
 ブラジリアは標高1100メートルの高原のほとんど何もない荒野を切り開いて作られた都市で、建築家ルシオ・コスタによって設計された。今回は首都中心の「三権広場」に人々が集結し、その周囲に建設された国会議事堂、大統領府、最高裁判所が襲われた。これらの公共建築は、ニューヨークの国連ビルを設計したことで知られるブラジル人建築家オスカー・ニーマイヤーが設計した。このブラジリアは何と1987年に世界遺産に登録されている。世界には歴史地区が世界遺産に登録されている首都はたくさんあるけど、ブラジリアのように建設から30年ほどしかない都市が世界遺産になったのは他にはない。

 ブラジルのように首都を移転した国は世界にはかなりある。というか、日本でも「首都機能移転」が議論されてきた。長い不況が続き、もう議論は終わったかのような感じだが、一応まだ正式に終わったわけではない。もっとも国会である程度ちゃんと議論されたのは20世紀の間で、小泉内閣以後は次第に尻つぼみになって、今は国交省内の担当部局も廃止され専任の担当者はいないのだという。かつては移転先候補として「栃木・福島」「岐阜・愛知」、候補可能性のある地域として「三重・畿央」まで絞られたなんて、もう覚えていない人がほとんどだろう。

 今回は世界で首都が移転した国を見ておきたい。歴史では「昔の教科書と今の教科書はこんなに違う」なんて時々テレビでもやるぐらいだが、案外「地図の知識」は昔のままという人がいる。日本では都市が合併して名前が変わった所が多い。世界でも国がなくなったり、名前が変わったところがある。今でも「チェコスロバキア」があると思ってたり、うっかり「ウクライナを攻めるなんて、ソ連はひどい」なんて口走る人も世の中にはいるのではないか。

 ブラジルと同じく、1960年に首都を移転したのがパキスタン。パキスタンそのものがインドから分離独立した人工国家だが、初めは最大の港湾都市カラチが首都だった。ブラジルが首都を移転したのは内陸部の開発を考えてのことだが、パキスタンも同じように北部に新しく首都を建設した。かつてはサイドプルという小都市だったらしいが、そこに「イスラマバード」(イスラムの町)という宗教的色彩のある都市名を付けた。現在は近隣のラワルピンディと結びついた大都市圏を構成している。イスラマバード自体では人口100万ほどで、パキスタンでは11位の都市になるという。
(イスラマバード)
 もっともブラジルとパキスタンは首都移転から60年以上経つので、僕の時代に学校で使った地図もすでに変更済みだった。だから、むしろ「以前の首都」を知らない人の方が多いかもしれない。それに対して、以下の国々は知らない人もいるかもしれない。知らなくても生きていけるけれども、社会科教員なら知っておきたい。身近にいたらクイズに出して見ると面白いかも。

 まずスリランカである。そもそも国名も1978年に変更したもので、以前はセイロン(島の名前)。首都は最大都市コロンボだったが、1985年にスリジャヤワルダナプラコッテに移転された。これは長くて覚えられない首都名として有名。僕は何とか覚えたけど。英語で表記すると「Sri Jayawardenepura Kotte」で、「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」となる。意味は「聖なる・勝利をもたらす都市・コッテ」で、もともとのコッテに美称を加えた。しかし、当時の大統領ジャヤワルダナの名前がすっぽり入っていて物議を醸した。コロンボ南東部にあって、都市機能としては同一地域とみなして良い。
(スリジャヤワルダナプラコッテ)
 次にアフリカのナイジェリア。アフリカ最大の人口を持つ国で、かつて1967~70年に悲惨なビアフラ内戦が起きた。その後も軍政とクーデタが頻発し、近年は北部でイスラム過激派の攻撃が問題化している。最大都市のラゴスがかつての首都で、今もそう思っている人が多いのではないか。1991年に中央部のアブジャに首都を移転し、中心部の設計を丹下健三が担当した。人口は100万ほどで、ラゴスは800万ぐらいある。ナイジェリアは巨大国家で、ブラジルと同様に首都を中央部に移すのが移転の目的だろう。
(アブジャ)
 次は中央アジアのカザフスタン。ソ連崩壊後に独立し、地名もカザフ読みに変えた。それまでの首都アルマアタはロシア語で、それをアルトマイに変えた。今も最大都市である。アルトマイは南部にあるので、1997年に北部のアスタナに移転した。アルトマイは地震が起きやすいという理由もあったという。人口118万ほどで第2位。首都機能の設計は黒川紀章が担当した。一時はナザルバエフ前大統領の名前から取った「ヌルスルタン」に変更されたが、ナザルバエフの失脚後に元に戻された。
(アスタナ)
 案外知らないのが、ミャンマーの首都移転。昔は「ビルマ」で、首都は「ラングーン」(現在はヤンゴン)だったが、そのまま覚えている人が多いのではないか。今までの各国と同じように、国土の中心部に近いところに首都を置くということで、2006年にネピドーに移転された。ここも人工首都で、やっと人口が100万を越えたようだが、まだ整備は途中らしい。というか、軍政で行政中心部は一般人立ち入り不可という話もあって、普通の意味の首都とは言えない。下の写真はヤンゴンにあるパゴダを模した建築。
(ネピドー)
 さて、今まではすでに移転した国々だが、次に首都を移転する国がインドネシアである。2024年に移転予定だが、今後どう進むだろうか。これは人口最大のジャワ島から、カリマンタン島東部のヌサンタラに移転予定だが、ここでも国土の中心部に移すという意味がある。インドネシアの政情は必ずしも安定しているとは言えず、今後どうなるかは非常に注目される。
 (ヌサンタラ)
 そもそも「首都」とは何か。首都が最大の経済都市じゃない国はかなり多く、アメリカ合衆国やカナダ、オーストラリアなども、政治的事情で決定された「政治都市」を首都としている。しかし、この3国とも移民国家。ヨーロッパの主要国では歴史的に形成された経済、文化的な中心都市が同時の首都となっていることが多い。日本もその中に入るだろう。

 歴史的に形成された「ロンドン」「パリ」などの首都は移転しにくい。今までの例を見ても、発展途上国が首都を移転することが多い。民主政治が定着していると、あちこちの反対が飛び出してくるので難しい面もあるだろう。日本もかつては「平城京」から「平安京」、そして「東京」へと遷都したが、今後は難しいのかもしれない。
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中公新書『大塩平八郎の乱』を読む

2023年01月03日 22時29分07秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書12月新刊の藪田貫(やぶた・ゆたか)『大塩平八郎の乱』をさっそく読んでみた。あまりにも詳しくて、多くの人になかなか勧めづらい本だったけど、歴史をきちんと考えたい人は頑張る価値がある。自分でも驚いたのだが、大塩平八郎の乱が何年に起きたのか、もう忘れていた。1837年(天保8年)に大坂で起きて、一日も持たずに鎮圧された。もちろん天保時代に起きたことは覚えているけど、考えてみれば詳細はもともとほとんど知らず、授業でも通り一遍のことしか教えてなかった。大坂の事件だから、土地勘がないのである。それにもともとこの事件は乱そのものより、その影響の方に大きな意義があった。

 大塩平八郎(1793~1837)は「大坂町奉行所元与力」であり、「陽明学者」である。それが教科書に出て来る大塩の公式的「肩書き」になる。この「与力」(よりき)というのが判らなかった。どのくらいエラい役職なのだろうか。武士には違いないが、大坂城を守る役職ではない。町奉行所なので、要するに町奉行の下で捜査、裁判にあたる。三権分立じゃないから、大阪府警と大阪地裁の幹部職員レベルだろうか。偉いといえば偉いけど、悪人相手の仕事に飽きていたのも確からしい。
 
 当時の有名な文人、賴山陽(らい・さんよう)が師にあたる儒学者菅茶山の杖を道中でなくした時、大塩が直ちに捜索して見つけ出したというエピソードが出て来る。盗賊方を務め配下の手下もいるから、遺失物を見つけ出すぐらいすぐ出来たのである。大塩には自ら「三大功績」と呼ぶ「業績」があり、それは今から見ればどうかと思うのもあるが大坂市民にも知られた名前だったらしい。しかし狷介な人柄もあって、上司ともいろいろあった。この本には近年明らかになった史料がふんだんに使われていて、ずいぶん当時の奉行所や与力社会の内情が明らかにされている。
(大塩平八郎の肖像画)
 大塩には有名な肖像画があり教科書にもよく出ている。これは江戸後期の知られた画家菊池容斎という人が描いたもので、どういう経緯で描かれたのか不明だという。画家富岡鉄斎旧蔵のものだが、東北大学図書館で「最近原本が見つかった」という。これを見ると、いかにも学問に厳しい文人風である。1824年に独学で修めた陽明学を教える洗心洞を開いた。そして1830年には与力職を養子に譲って隠居した。といっても大塩はただの学者ではない。当時の儒学の総本山である江戸の林家に接近し、経済難に際して1000両もの大金を融通している。独自の人脈、金脈を持っていたのである。そして水戸藩にも接触していた。

 そんな大塩が何故武装蜂起に至ったのか。「百姓一揆」も一種の様式化されたもので、江戸時代には武装闘争など誰の頭の中にもなかっただろう。まさに島原の乱(1637年)以来、200年目の大反乱であり、大坂で市街戦が行われたのは大坂夏の陣以来である。そこへ至るには大きな心理的ステップがあったはずである。それは著者にも完全には不明だが、恐らく当時の「天保の飢饉」が背景にあっただろうとする。単に困っている人がいるというレベルの問題ではなく、儒学には「国家の指導者が間違っているので、天が代わって罰を与える」、つまり「天譴論」的な考えがある。そして陽明学だから「知行合一」である。
(大塩平八郎の乱を描いた当時の画像)
 ただそのようなタテマエだけではなく、実際には当時の大坂政界の動きと密接に絡んだ「私怨」もあった。特に大坂東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)を襲撃するという明確な目的があって、奉行の巡行が予定されていた2月19日早朝に決起することになった。跡部は旗本ではあるが、実は唐津藩主水野忠光の6男で、時の老中水野忠邦の実弟だった。大塩の乱は単なる大坂での暴発に止まらず、幕閣中枢を指弾するものだった。大塩は飢饉中に大坂から米を江戸に送ろうとする幕府の方針を批判していた。そして様々ないきさつから、今までの奉行との関係も悪くなっていたのである。

 しかし乱そのものはあっという間に終わってしまう。昔の保元の乱平治の乱、あるいは昭和の二・二六事件などより、ずっと小さかった。砲を借りだして実際に町中に発射し大火事となったので、本来救うべき対象の町民に大きな犠牲が出た。奉行所関係者に死者はなかったのに対し、火事による町民の犠牲者270人以上、大坂の5分の1を焼き7万人が焼け出されたという。参加者は洗心胴門人の他に関係する村々から動員されたものを合わせて総勢300人を越えなかった。本当は被差別民の動員を計画していたらしいが、そのことをどう考えるべきか。やはり大塩は「支配者」の側であり、支配者内部の矛盾だったというべきか。

 大塩は反乱終結後も40日余り潜伏して逃げ延びた。昔はその理由が判明していなかったが、近年になって大塩は決起前日に江戸に建議書を送っていたことが判った。それは中身にお金があると思われて、飛脚に開けられて箱根で捨てられた。それが見つかって、伊豆代官の江川英龍に届けられ書き写された。それが発見されたのである。大塩は江戸に送った建議書が取り上げられ、返事が来ることに期待を掛けていたのである。それは甘い幻想だったが、単なる武力放棄に止まらない政界工作も志向していたのである。
(渡辺崋山「鷹見泉石像」=国宝)
 興味深いエピソードは多いが、当時の鎮圧側の総責任者というべきは、大坂城代の土井利位(どい・としつら)だった。古河藩主で後の老中、というよりも雪の結晶を研究した「雪の殿様」として有名な人である。そして家老として土井に仕えた鷹見泉石も大坂にいた。有名な渡辺崋山の「鷹見泉石像」で知られる。この絵は描かれた時代が一番新しい絵の国宝に指定されている。絵の中で鷹見が持っている脇差しは大塩の乱鎮圧の功に対して土井から拝領したものなのだという。

 大塩平八郎の乱はすぐに終わったし、乱そのものはむしろ傍迷惑なものだった。「救民」を掲げて、かえって多くの難民を生んだ。だが焼け出された市民の中にも、大塩を崇める声が高かったという。この後、同様な小規模の乱が相次ぐが、大塩の影響だろう。そういうこと(権力機関襲撃)が出来るんだというモデルケースになった。日本においては、この乱がバスティーユ監獄襲撃のようには広がらなかった。しかし、幕末の「世直し」運動の源流になったということは言える。
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カタールに夏冬はあるのかー乾燥帯の気候を考える

2022年11月13日 22時44分28秒 |  〃 (歴史・地理)
 サッカーワールドカップのカタール大会が近づいて来た。今回は開催時期が暑い時期を避けて11月~12月に行われること、そして小国カタールだけで試合を行うために移動時間が少ないことなど、かつてなく異例な大会である。西アジアから北アフリカに広がるイスラム教国家で開催されるのも初めて。(なお、よく「中東」(Middle East)と呼ぶが、これはヨーロッパから見た時の言葉だから、日本人が使うのはおかしい。授業では「西アジア・北アフリカ」ということが多い。)

 カタールの面積は11,427km2で、世界158位(数え方は様々だが)。日本は377,974km2で世界62位。カタールの近辺ではクウェート(17,818km2)より小さく、レバノン(10,452km2)より少し大きい。日本で言えば、秋田県の面積(11,638km2)とほぼ同じぐらいで、秋田県だけでワールドカップを開くと思えば、いかに小さな地域で行う大会かが想像出来る。

 ここでは気候の問題に絞って考えてみたい。ワールドカップは今まで6月~7月に開かれてきた。これはヨーロッパのサッカーリーグの終了後になる。しかし、今回はカタールの猛暑を避けて、11月開催に変更された。そうするとヨーロッパのシーズン中になり、日本代表でもヨーロッパのクラブ所属の選手はまだ集結していない。どこの国もケガ人が多く、チームとしての完成度には問題があるだろう。だから、番狂わせが多い大会になるかもしれない。

 ところで疑問を持つ人はいないだろうか。この地域は基本的には砂漠気候である。エジプトカイロ近郊のピラミッド、あるいはサウジアラビアメッカ(イスラム教の聖地)などを思い浮かべる人も多いと思う。そうすると、何か一年中暑いイメージがあるのではないか。カタールには夏と冬の違いがあるのだろうか。猛暑を避けて日程を動かしたという以上、はっきりとした季節変化があるはずである。それは一体どんなものなのだろうか。そこでカタールの首都ドーハの雨温図を見てみたい。
(ドーハの雨温図)
 雨温図というのは、月ごとの平均気温を折れ線グラフで、平均雨量を棒グラフで一つに示すグラフである。これが世界の気候を分類するときの基本になる。グラフから読み取るのが生徒は大体苦手なんだけど、非常に大切なものである。こうしてドーハの雨温図を見てみると、気温は夏冬がはっきりする「富士山型」を示している。ドーハの平均気温は7月が最高で34.7度。平均というのは朝夜を入れての温度だから、これはたまらない。平均最高気温を見ると、6月から8月は40度を超えている。それが11月の平均気温は24.2度12月は19.2度まで下がってくる。やはり6~7月から11~12月に移したのは正しかったわけである。
(カイロの雨温図)
 ドーハの雨量を見ると、夏はほとんどないが、冬は結構降っている。といっても年間75ミリぐらいだが、多分ペルシャ湾に面している影響があるんだろう。これでは砂漠気候を教える時にドーハは不適当である。だから教科書ではよくカイロの雨温図が載っている。この図を見れば、一年を通して雨はほとんど降らないことが理解出来る。しかし、夏と冬はくっきりと分かれているのである。一年中暑い地方というのは、赤道直下に近いシンガポールなどが代表である。熱帯の熱帯雨林(ジャングル)気候になるが、下の雨温図を見れば一目瞭然だ。
(シンガポールの雨温図)
 ついでに東京を見てみると、気温は富士山型、雨量は毎月かなり多く、中でも秋が多い。年にもよるが、普通は秋に台風が来て大量に雨を降らせるのである。東京は「温帯」の中の「温暖湿潤気候」になる。南半球の温帯だと、夏冬が逆になるから気温のグラフが逆になる。テストで南半球のグラフを出すと、間違えやすくなるものである。
(東京の雨温図)
 じゃあ、どうして砂漠気候には夏と冬があるのだろうか。それは乾燥帯は中緯度地方だからだ。地球の気候は簡単に言えば太陽の影響だから、太陽に一番近い赤道直下が一番暑くなる。地球は傾いて自転しているから、赤道付近以外では「太陽に近い季節」と「太陽に遠い季節」が生じる。今年の夏は猛烈に暑かったが、それでも秋分を過ぎ冬至が近くなるにつれ、日没も早くなってきた。そうなるとやっぱり半袖が長袖になり、やがてセーター、コートが必要になってくる。

 東京の緯度は北緯35度41分。これはイランの首都テヘランとほぼ同じである。北アフリカになるが、アルジェリアの首都アルジェ(36度46分)やチュニジアの首都チュニス(36度48分)などは、むしろ東京より北になるのである。鹿児島の緯度は北緯31度35分で、カイロの緯度(30度2分)とそれほど違わない。沖縄県の那覇は26度12分、石垣島は24度20分である。ドーハは25度18分で、鹿児島より南、那覇と石垣島の中間あたりである。沖縄、特に先島諸島は暑いし、亜熱帯という言葉もあるが、それでも温帯。夏と冬ははっきりしている。カタールも沖縄あたりと同じ緯度なんだから、当然夏と冬があるわけである。

 赤道付近で熱せられた大気が乾燥して中緯度地方に降りてくるから、アフリカの中緯度地方にはサハラ砂漠など乾燥地帯が生じる。同じことがアジアで起きても良いはずだが、アジアでは季節風(モンスーン)の影響が強く、太平洋からの水蒸気をたっぷりと含んだ風が夏に吹き付けるから、夏には雨量が多くなる。それが西アジアと東アジアを分けている。アジアの西からヨーロッパが小麦の粉食、アジアの東が米の粒食になるのも、この雨量の違いによる。
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「戦前日本の映画検閲ー内務省 切除フィルムからみるー」を考える

2022年10月16日 22時21分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 懐徳館庭園を見た後で、国立映画アーカイブに向かった。15日はユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして「戦前日本の映画検閲 ―内務省 切除フィルムからみる―」という上映と講演がある。今は大ホールが工事中で、小ホールだから収容人数が少ない。これは完売必至と見て、発売開始当日にチケットを買っておいた。(今はパソコン、スマホでしか購入できない。)当日は内務省の切除フィルム上映があるというのだから、非常に貴重だ。一体どういうものなのか、気になるではないか。

 まずこのフィルムの出所に関して。これは元フィルムセンター主幹を務めていた鳥羽幸信氏(1916~1992)の寄贈資料にあったものだという。鳥羽氏は、羽鳥天来の名前で無声映画の弁士もしていた人で、かつてフィルムセンターで元気な姿をお見かけしたものだ。1978年のフィルムセンター定年後も、図書館などで無声映画上映会を開いていた。鳥羽氏が寄贈した数多いフィルムの中にあったのが、今回のものだという。しかし、題名がなかったため、これが内務省の切除フィルムだとは近年まで判明しなかった。

 鳥羽氏は戦前に内務省の検閲現場で下僚として勤めていたという。敗戦時に焼却されるものを幾つか持ち出した可能性があるという。稲垣浩監督の名作『無法松の一生』の切除フィルムもあったんだけど、さすがにそれはちょっとなどと語っていた記録があるという。ただそれだけでもないようで、業者が任意放棄したフィルムや業者から譲渡されたフィルムなども混じっている可能性があるらしい。とにかく珍しいものには違いなく、近年デジタル化して、作品の同定を進めてきたという。

 今回はフィルム上映とデジタル上映が連続して行われた。内容は同じだから、まるで大島渚監督の『帰ってきたヨッパライ』みたいな感じの繰り返しである。デジタル映像には、現時点で判明している作品名が付いている。内容的には、事前に予想していたものとはかなり違っていた。戦前の検閲といえば、まずは「国体」(天皇制)だと考える。左翼的、体制批判的な言論を取り締まるのだという、そういう予断があった。確かにマルクス主義の思想書などは伏字のオンパレードである。

 でも、考えてみれば会社組織で製作される映画の場合、最初から上映禁止になると決まってるものは作るはずがない。上映台本の検閲もあるんだから、映像になる段階では体制批判はないのである。今回ほんのちょっとだが、衣笠貞之助監督『日輪』の削除フィルムがあった。これは横光利一原作の映画化で、1926年のキネマ旬報ベストテンで2位になっている。フィルムが残っていないので、今回は非常に貴重だ。卑弥呼を主人公にしているので、天皇制神話に抵触するから検閲されたのかと思っていた。しかし、台本段階でチェックが入り、問題ないように改作されたうえで製作されたのである。公開後に長野県から、この映画を上映して良いのかと問い合わせがあって、内務省は問題なしと回答したという。

 それでも削除されたのは、残虐シーンという理由だった。「残虐」といっても、時代劇にチャンバラは付きものである。普通は日本舞踊のような殺陣(たて)になっているが、監督によってはもっとリアルな描写を求める。どうせ血糊に決まっているわけだが、人間を完全に刺しているようなシーンは削除である。また「風俗壊乱」というか、監督・公開年不明の『志士奮刃』という映画では、武士が女に執拗に襲いかかる。悪い旗本が料亭などで目を付けた女を手籠めにしようとする、そんな感じ。しつこく追い回し、帯がクルクルとほどけていく。別に裸が見えるわけでも何でもないけど、「その後」を連想させるから不可なんだろう。

 上映後に加藤厚子氏の講演が行われた。加藤氏は学習院女子大学非常勤講師で、専門は日本近現代史(戦前・戦中の映画産業と映画統制)とホームページに出ている。この講演は非常に充実していて、内務省検閲の実際が説明された。日本映画の場合は「出願」「査閲」「手続」の3段階で済むが、面倒なのは外国映画である。内務省以前に「税関検閲」があって、どうしても通過出来ないものは「拒否(積戻し)」になるのである。それを避けるために、業者が勝手にフィルムを削除してしまうこともあった。その後、台本を作成し、字幕版を作成した上で検閲に臨み、それを通過した後に最終的な字幕版をもう一回内務省検閲を申請する。

 何という面倒くささであることか。戦前の外国映画はそんな苦労をしていたのである。代表的な映画輸入会社だった東和の資料が川喜多映画文化財団にあって、台本検閲の事情がうかがえる。その結果、後半の外国映画編は「キス・シーン特集」である。では、キス・シーンだって削除されると判っているのに、何故検閲まで残したのだろうか。それは「外国風俗の特殊性」というか、家族どうしでもあいさつとしてキスするんだから、全部を削除できない。そして恋愛映画でも特に扇情的なキス・シーンは削除もやむを得ないが、ある程度清純なものは見逃される場合もあったのかもしれないのである。

 それを予想させるものは、小津安二郎監督の『一人息子』に引用された『未完成交響楽』のキス・シーン削除である。『未完成交響楽』はシューベルトの伝記映画で、シューベルトの実らぬ恋を描いている。日本では1935年に公開され大ヒットした。『一人息子』は小津の最初の発声映画で、東京にいる日守新一のところに飯田蝶子の母が田舎から訪ねてくる。映画に連れて行って、そこで『未完成交響楽』を見るシーンにキスがあり、削除された。という風に「検閲時報」に記載されているという。
(『未完成交響楽』)
 ここで不思議なのは、公開映画に何故キス・シーンがあったのだろうかという点である。実は脚本家廣澤栄氏の回想録に、この映画にキス・シーンがあると友人から教えられ、数年後に東京で見たときにはキス・シーンがなかったという話が出ているという。川喜多財団にも複数の台本があるらしい。大ヒットし、新しい上映フィルムが作られた時にはキス・シーンがなくなった。公開当時はキス・シーンがあった可能性もあるのである。僕が考えつくのは、字幕付き外国映画、特にクラシック音楽の物語を見る層は、特別扱いだったのかもということだ。娯楽映画ではないし、恋人同士が親の決めた結婚で別れる設定である。それに対し、日本映画はもっと大衆が見るものだから、キス・シーンは絶対許されなかったのか。とにかく、未だ解明されない謎である。

 ミッキーマウスのキス・シーンも削除されていたり、いろんな映画が出て来る。解説資料も詳細で、非常に貴重な機会だった。映画検閲のリアルを知る上で、画期的な上映だった。今後ネット上でも公開されるというから、家でも見られるはずである。今後の研究進展を期待したいと思う。
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ちくま新書『氏名の誕生』、常識を覆す日本人の名前の歴史

2022年10月05日 21時02分46秒 |  〃 (歴史・地理)
 尾脇秀和氏名の誕生』(ちくま新書、2021)を読んだ。2021年5月に出た本だが、何だか難しそうで今まで読まなかった。読んでみたら難しくはなかったけど、何しろ内容が複雑で細かすぎて困ってしまう。現実の歴史が複雑なのでやむを得ないのだが。一般的には読みにくい本だと思うけど、この本を読んで常識的に考えていた「名前の歴史」への思い込みが覆された。尾脇秀和氏(1983~)は佛教大学大学院博士課程修了後、現在は神戸大学経済経営研究所研究員と出ている。

 一般的な「常識」とは、日本人には「」と「」があるというものだろう。「姓」は親から受け継ぐもので、「名」は子どもが生まれた時に親が付ける。「名」は後に自分で変えることも不可能ではないが、「姓」の方は結婚に伴って変わることはあるが、自分で好きなものに変更は出来ない。もちろん芸名やペンネームは別である。スポーツ選手や芸能人には「イチロー」とか「夏帆」など(または小雪とか奈緒とか…)名前だけで活動してる人もいるが、そういう人でも本来「姓」は持っている。

 そのような名前の構造は大昔からのものである。それは教科書に出てくる人名が「藤原道長」とか「織田信長」などと記載されていることで判る。これは普通に考えれば、現在「姓名」と言ってるものに近い。中には「雪舟」や「良寛」、あるいは「世阿弥」のように名前だけの人もいるが、これは俗名ではない。また女性は「紫式部」「清少納言」のように本名が判らない人もいるが、「北条政子」「日野富子」の例もあるから原則的には姓名がある。

 一方、江戸時代には百姓町人は姓を持たなかった。明治になって「四民平等」になって、「身分に関わらず名字を名乗れる」ようになった。もっとも一番上の天皇家になると、姓はなくて名前だけになる。つまり、皇族、僧、女性及び被支配階級には姓がないか判らない場合があるが、支配階級である貴族や武士(武士もまあ貴族だけど)は皆姓名を持っていた。そして近代になって、全国民が姓を持つようになったのである。これが僕が何となく思っていた「常識」というものである。
(尾脇秀和氏)
 昔から僕には疑問があった。つまり「大岡越前守忠相」(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ)と言うときの、「越前守」とは何だろうか。あるいは忠臣蔵に出て来る浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)とか「吉良上野介義央」(きら・こうずけのすけ・よしなかorよしひさ)の「内匠頭」「上野介」とは何か。「上野」(こうずけ)は昔の国名で、今の群馬県である。(「毛野」の地域の中で、都に近い方が「上野」、遠い方が「下野」(しもつけ)である。両方合わせて呼ぶときは「両毛」と言う。)「」は「守」に次ぐナンバー2という意味だから、上野介というのは今で言えば群馬県副知事になる。

 吉良義央は群馬県に何か関係があるのか。もちろん何も関係ない。吉良氏の領地は三河(愛知県)であって、上野ではない。では正式に朝廷から任官されているのか。あるいは江戸時代は朝廷の権威が失墜していたから、幕府が任命していたのか。それとも武士たちそれぞれがカッコいい名前を付けたくて、芸名みたいに勝手に名乗っているのだろうか。というような疑問を持っていたのである。これはやはり朝廷から「正式な任命」があったのである。もっとも朝廷が勝手には出来ない。幕府が取りまとめて、朝廷はそれに基づき、定員を無視して任命するのだという。しかし、もちろん武士の側は手数料というか、それなりの謝礼をしなければならない。これが下級貴族の貴重な収入になる。

 そして驚くべきは、武士の世界の常識では「大岡越前守」というのが「名前」だと認識されていた。「忠相」というのは、「名乗」(なのり)と呼ばれて、サイン(花押)の上に書き足すときしか使わなかった。一応皆名乗を持っているはずだが、中には本人が忘れてしまうぐらい使われなかったんだという。こうして、何か偉そうな昔の官名を名前に使う武士の流儀が下々にも影響していく。○○左衛門とか、○兵衛とか、本来は天皇直属の近衛兵を意味する官名が庶民の名前に使われるようになるのである。
(大岡越前守忠相)
 もっとも朝廷から正式に任命された官名を持つのは、大名や旗本などの上層武士に限られる。陪臣(大名の家臣)が持てるものではない。だから、そういう人は格好良さを求めて、「守」のない国名だけ名乗ったりする。幕末の禁門の変を主導した長州藩家老に「福原越後」「国司信濃」という人がいるが、こういう場合は勝手に付けてるんだろう。かくして、名前は漢字を組み合わせて格好を付けるという意識が確立した。市川團十郎は10男ではないし、岡本綺堂の捕物帳の主人公半七も7男ではない。

 ここまでで長くなっているが、もうちょっと。実は大問題があって、武士の常識は朝廷の常識ではない。それは当然だろう。越前守を任命するに当たっては、越前守以外の名を持つ人物が申請する必要がある。というか、そもそも「姓」以前の「本姓」がある。例えば徳川氏は「源氏」である。吉良氏はもともとは足利氏から出ていて本姓は源氏になる。「源義央」が「上野介」に任命された。そして、このような朝廷流が本来の方式であるとする「復古思想」が幕末に優勢になっていき、ついには王政復古となる。しかし、ここでまたまた混乱が起こってくるのである。朝廷流を押し通そうと思っても、無位無冠の下級武士がのし上がって、名前の呼び方が大混乱になるのである。

 本書に大隈重信の場合が出ている。「大隈」(苗字)「八太郎」(通称)「菅原」(姓)「朝臣」(尸)「重信」(実名・名乗)となる。「尸」は「し」で、「かばね」のこと。これでは複雑すぎるので、結局何段階かを経て「姓」「尸」は廃止し、苗字の後に通称か名乗を付けることに統一した。西郷隆盛の「隆盛」は名乗を取り、後藤象二郎の「象二郎」は通称を取った。

 そして、この方式を全国民に強制することになった。それは陸軍卿山県有朋の「徴兵事務の都合」という主張によるものだった。農民は以前からムラ共同体の中で「苗字」があった例が多いが、町人の中には長屋の住人に赤穂義士の姓を割り振ったなんてケースもあったと出ている。それは1875年(明治8年)2月13日の「苗字強制令」によるのである。
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E・H・カー『歴史とは何か 新版』(近藤和彦訳)を読む

2022年09月22日 23時37分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 E・H・カー歴史とは何か 新版』(What is History?、岩波書店、2022)を、つい読みたくなって買ってしまった。買った以上は読まないともったいない。で、読んだんだけど、相当後悔した。本体価格2400円、370頁を越える本を、いまさら僕が読まなくても良かったと思う。いつもはそういう本はスルーするんだけど、この本に関しては考えるべき点が多いので、書き留めておきたい。この『歴史とは何か』という本は、1962年に清水幾太郎訳で岩波新書から出版された。もう非常に有名なベストセラーで、70年代ぐらいまでは歴史を学ぼうとする学生なら大体読んでいると思う。僕ももちろん読んで、大影響を受けた本である。

 それが新しく訳し直された。訳者の近藤和彦氏は、元大洋ホエールズの野球選手じゃなくって、イギリス史が専門の歴史学者である。岩波新書に『イギリス史10講』があるが読んでいない。著者のカーは生前に第2版を出そうとして、未完に終わったという。その草稿も掲載されている。さらに自伝や詳細な補注まで付いていて、詳しすぎるから注はもう読まなかった。これはもともと6回に渡る講演の記録で、カーはところどころでくだけた表現、内輪受け的なエピソードを披露している。近藤氏はそこで原文にはない、[]という文字まで入れている。テレビの視聴者参加番組で、観客に拍手を求める合図をしている感じ。ここが笑いどころですよって示すとは、実に斬新な訳だと事前には思ったけれど、読むとやり過ぎ感も感じるところだ。

 著者のE・H・カー(1892~1982)は、『危機の二十年』(岩波文庫)や大部のロシア革命史3部作(『ボリシェヴィキ革命』『一国社会主義』『ロシア革命の考察』で、みすず書房から分厚い本が6冊出ている)で知られる。すべてE・H・カーとなっているが、イニシャル部分は「エドワード・ハレット」だと今回知った。元はイギリスの外交官で、ソ連寄りと見られて次第に居づらくなったらしい。1936年に辞任して外交を論じるが、戦時中は情報省に務めた。戦後は研究者として人生を送ったが、年譜を見ると女性問題でずいぶん苦労したことが判る。ずっとロシア革命史を研究した人である。

 つまり、E・H・カーは日本で普通の意味で言われる「歴史学者」とちょっと違っていた。何しろ1950年代に1917年のロシア革命を研究しているのだから、日本の感覚だとまだ歴史ではない。今で言えば、80年代、90年代の問題である。日本で言えば、中曽根政権から小泉政権あたりまでを研究対象にする。世界ではレーガン政権とかイラン・イスラム革命、湾岸戦争からイラク戦争などである。日本では「政治学」とか「国際関係論」などと呼ばれて、法学部に置かれることが多いだろう。「歴史学科」にも現代史はあるけれど、まだ高度成長期あたりまでしか扱わないことが多いのではないか。そのことは読んだ当時は全く意識しなかった。僕にとって「ロシア革命」は歴史以外に何物でもなかったからである。
(E・H・カー)
 昔読んだときにどこに影響されたのだろうか。それは以下のような部分だった。今回の訳文で言えば、「歴史とは、歴史家とその事実とのあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去とのあいだの終わりのない対話なのです。」「過去は現在の光に照らされて初めて知覚されるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」

 つまり「すべての歴史は「現代史」である」のだ。これが判るか判らないかで、単なる歴史マニア(歴史上の「事実」のコレクター)か歴史研究者かが分かれるだろう。今まで教えた中でも、歴史が好きという生徒はかなりいた。中には織田信長の誕生日はいつかなどと聞いてくるのもいる。そんなものを知るわけがない。知りたければスマホでWikipediaを検索すれば済む。(天文3年5月12日〈1534年6月23日〉だった。)そんな些事はどうでもいいから、「織田政権の日本史における意義を論ぜよ」などと聞き返したいところだが、もちろん「人を見て法を説け」である。いやあ、すごいねえ、そんなことまで知ってるんだ、先生も知らなかったよと答えておくわけである。
(岩波新書版『歴史とは何か』)
 前回の訳者の清水幾太郎は、刊行当時は「進歩的文化人」の代表格と見られていただろう。60年安保の時、雑誌「世界」に「今こそ国会へ」という論文(というか檄文)を書いた人である。しかし、僕の時代には文春から出ていた保守系誌「諸君!」で日本核武装論を論じる右派になっていた。戦時中は戦争を鼓舞していたから、2度「転向」した人である。それはともかく、訳文自体は判りやすかったと思う。でも、多分高校生から大学生で読んだはずだが、こんな難しい本がホントに判ったのかと疑問に思う。判らないところは飛ばして読んで、判ったところだけ記憶出来るのも若さの特権だ。

 歴史は「確定された事実」の集積だとする詰まらない実証歴史学者がいっぱいいた。一方で、歴史は「下部構造に規定された上部構造の変革という階級闘争」だとするマルクス主義者がいた。カーは両者と違う見方を示しながら、「歴史は偶然か必然か」「歴史は個人が変えられるのか」「歴史は進歩しているのか」などを論じていく。これらは今でも考えるべきテーマだと思うが、扱う人物が古すぎる。ヘーゲルマルクスフロイトはいいが、モムゼン、マイネッケ、ギボンなら名前を知ってるけど、他にもう忘れられた歴史家がいっぱい出て来る。

 しかし、当たり前だけど、ハンナ・アーレントミシェル・フーコーフランツ・ファノンウォーラーステインなどは出てこない。フェミニズムやアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの歴史研究の動向も出てこない。ロシア革命は視野に入っていたが、すでに起こっていたアジア、アフリカの独立革命は論じられていない。もちろん、当時の段階でうっかり毛沢東スカルノナセルなどを論じていたら、今では読むに値しない本になっていたかもしれない。

 でも「あらゆる歴史は現代史である」なんて、僕には今さら当たり前すぎる。今「歴史とは何か」を問うならば、僕にとっては隣接諸学との関連性を考えることなしには済まない。文化人類学、民俗学、社会学、考古学、地理学、経済学、社会心理学、宗教学などなど。また従来の「歴史」から疎外された人々をどのように「私たちの歴史」に組み込んでいくかも大問題。僕の若い頃には映画史そのものが「学問」の対象ではなかった。今では映画史の中で隠されてきた「女性映画人」の役割が研究されている。まあ、そういう問題である。

 「歴史とは何か」という問いそのものに、バイアスがあった。「同性愛者にとって、歴史とは何か」「ハンセン病患者にとって、歴史とは何か」「琉球王国にとって歴史とは何か」…様々なヴァリエーションがある。それが今になって判ってきたことで、もう僕にはカーの本は役立たない。しかし、これほど立派な翻訳もないし、初学者には一度は挑むべき本ではないかと思う。
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