尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』(池上彰、佐藤優)を読む

2023年08月14日 22時48分15秒 |  〃 (歴史・地理)
 講談社現代新書の池上彰・佐藤優氏の対談『日本左翼史』シリーズは3冊で終わりかと思ったら、2023年7月になって戦前編が出た。『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・転向』と題され、対象の時代は「1867ー1945」となっている。戦後を扱った3冊は先に読んで、3回ほど感想を書いた。『「左翼」は復活するのか』『「講座派」「労農派」論争を越えて』『「清張史観」の克服を』である。僕は先の三部作を面白く読んだので、4冊目の今度の本も早速読んでみた。

 今度出た4冊目になる完結編は、相変わらず該博な知識を披露しながら独自の近代左翼史を展開している。歴史の流れに関しては、ほぼ定説が出来ているので、それほど新しい感じはしない。だが、大きな見通しや個別の人物論はなかなか読ませる。近代史に関心がある人は興味深く読めると思う。前3冊を読んでない人は、むしろこの4巻から読み始めて時代順に読んでいく方が良いかもしれない。まず、明治初期には左翼、右翼は未分化で、新宗教」という方向性もあったと鋭い指摘をしている。

 幕末から明治初期の時代は、後に「教派神道」とまとめられる天理教金光教大本教などが一斉に登場した時期として知られる。そのことは70年代に「民衆史」が注目された時代に多くの人が関心を寄せていた。「左翼」は「文明開化」で入ってきた欧米の新思想を日本でも実現しようとした。「右翼」は「富国強兵」で可能になった強大な武力で近隣諸国を侵略する方向に進んだ。どちらも「明治維新」による「近代化」を前提として、新しい国家を建設しようとする点では共通している。しかし、民衆の中には「近代化」そのものへの拒否感も強かった。それらの人々の拠り所となったのが、新しい宗教だったのである。

 その後「松方デフレ」によって階級分化が進んで、それが近代化と左翼運動をもたらす。佐藤優氏の特徴は「自由民権運動」を「負け組による権力闘争」として、日本左翼の源流とは言えないとみることである。僕はそれは言い過ぎで、やはり「自由民権運動」は左派系民衆運動の初期形態として良いと考える。「左翼」は社会主義や労働運動を意味する政治用語ではない。いずれ国会を開設することは共通していても、時期をめぐって対立がある場合、早期開設派を左派として問題ないだろう。士族層が中心とは言え、全国に広がった反政府運動である。中江兆民を通して、初期社会主義につながるという通説通りで良いと思う。

 その後は、明治末の初期社会主義と「大逆事件」による「冬の時代」、ロシア革命と「アナ・ボル論争」日本共産党の結成と「転向」の問題と順を追って、快刀乱麻を断つごとく日本左翼史の問題点が解明されていく。戦後編ですでに展開されているように、「基調報告」担当である佐藤氏は「労農派中心史観」である。講座派=日本共産党は、「コミンテルン日本支部」であり、日本事情を詳しく知らない担当者が作った方針を掲げていた。そのため、当時では無謀な「天皇制廃止」を全面に押し立てて、大衆組織を引き回した上に壊滅していった。まあ、そういう指摘は事実だから、労農派をより高く評価するのは当然か。

 全部書いてても長くなるだけだから後は簡単にするが、人物としては高畠素之(たかばたけ・もとゆき、1886~1928)の評価が興味深かった。初期社会主義に関わった後、得意のドイツ語を駆使して『資本論』の全訳を初めて行った人物として知られている。次第に国家社会主義に近づき、むしろ右翼思想家になったことでも知られる。早世したこともあり、僕はあまり関心を持たなかったが、この人はソ連を国家社会主義として評価したんだという。高畠が長生きしていたら、五・一五事件や二・二六事件はもっと凄惨なものになっていただろうとまで言っている。通説的には過大評価だろうが。
(高畠素之)
 もう一つは「転向」の問題で、この問題はある時期まで非常に大きな意味を持っていた。思想の科学研究会の共同研究「転向」が刊行されたのは、1959年から1962年のことだった。この「転向」というのは、1933年に獄中にいた日本共産党の最高指導者だった佐野学鍋山貞親が、それまでの党の路線を批判して天皇制の下での社会主義革命を目指すと声明を出したことに始まる。その後、続々と獄中で「転向」が相次ぎ、ほぼ8割ほどが従来の路線を離れた。一方、徳田球一志賀義雄ら「非転向」を貫いた党員もいて、戦後になると「獄中十八年」を生き抜いた英雄として迎えられた。
(佐野、鍋山の転向声明を報じる新聞)
 この「転向」をどう考えるべきだろうか。天皇の下の社会主義革命をその後も追求した人などいないだろう。戦後まで生き延びた鍋山貞親三田村四郎田中清玄などは、政財界の黒幕的な右翼として生きることになる。一方、非転向なら良いわけでもなく、「転向」が突きつけた「外国盲従的な党体質」は戦後の共産党に引き継がれてしまった。獄中を生き抜いた徳田も志賀も、結局は除名されている。結局、自由な思想競争のない中で、権力に強いられた「思想変更」には問題がある。

 戦後になると、今度は右から左への「転向」が起きる。そして、高度成長の中で再び左翼陣営から自民党支持者に変わる人々が出て来る。若い時に全学連指導者だった人が、やがて政界、財界、学界で右寄りのリーダーになるのは、むしろ通常のコースになった。90年代以後は、特に湾岸戦争以後に左派から右派に軸を移した人がかなりいる。(教育学者の藤岡信勝などは典型的である。)教員組合のリーダーだった人が管理職になったら、文科省・教育委員会の言いなりになることなど見慣れた風景である。「転向」は戦前だけの問題ではなく、「権力」行使がソフトになった現代にあっても、問い直すべき論点として続いていると思う。
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