尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

トンデモ小説「道草」-漱石を読む⑧B

2017年11月05日 21時21分22秒 | 本 (日本文学)
 「こころ」と一緒に、漱石全集第8巻の後半に入っているのが「道草」という小説である。次がいよいよ未完に終わった「明暗」だから、「道草」は漱石にとって完成された最後の長編小説ということになる。だけど、これは非常にとんでもない小説だった。今読むとビックリすることばかり。漱石の「自伝的作品」と言われているけど、読んでいても全然面白くならない事にも驚いた。

 「道草」は1915年(大正4年)6月3日から9月14日まで朝日新聞に連載された。漱石がイギリスから帰り、東京の駒込に住んだ1903年(明治36年)頃が描かれている。もう少し後の出来事も書かれているらしいけど、多少のフィクション化が施されているものの大体は自伝的なものと言うことになっている。漱石は幼いころに養子として他家で育てられた時期があるが、その頃の養父、養母が別々に彼のところに金をせびりにやってくる。(養父と養母は大昔に別れている。)

 もうその養家とは完全に切れているはずなのに、やってくると金を渡さずにいられない。姉とその夫、兄もこの問題で相談するけど、世に成功しなかった人ばかりで充てにならない。主人公の健三は、実生活上に役に立たない男で、妻との日々も冷え切っている。そういう日々が克明につづられていくけど、こんな話が面白いわけがない。冷徹なリアリズムで、自己とその周りの人物を描写するというのも、大事なことではあるだろう。でもなんでこんな話を書くのか、まったく判らない。

 小説そのものはけっこう読ませるんだけど、読んでる方が不快になるのである。多分この小説が書かれた時代とは、女性問題などに関するコードが完全に違っているんだろうと思う。「満韓ところどころ」に全く中国人側の視点がないように、「道草」にも女性読者に読まれるという意識が全くないんじゃないだろうか。妻が教養がない、バカだといった感じの表現で貫かれている。

 一例を挙げると、「93」から。
 四五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁から庭に飛下りた。彼が再び座敷へ上って来た時、細君は思いもかけない非難を彼の顔に投げつけた。
 「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」
 なぜ子供の安否を自分より先に考えなかったかというのが、細君の不平であった。とっさの衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評が加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚いた。
 「女にはああいう時にも子供の事が考えられるものかね」
 「当り前ですわ」
 健三は自分がいかにも不人情のような気がした。(引用終わり)

 このとき漱石には三人の女児があった。女の子が三人続いたのである。その時の健三は「一番目が女、二番目が女、今度生まれたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。しかし、それを生ませた自分の責任には思い至らなかった。」地震が起きたのは、三女が生まれてすぐの時期だった。

 自宅に小さなわが子が三人、それも一人は生まれたばかりの子どもがいて、地震が起きて「とっさの衝動」で自分の事しか考えないというのは、むしろ不幸なこととしか思えない。普通の人間としての感情が素直に出てこない状態である。いや、人間には究極的なエゴイズムがあるから、本当に家が壊れるぐらいの地震だったら、それはどうなるか誰にも判らないかもしれない。でも、普通は子どもの事を考えるでしょう。少なくとも、こういうことを文章にはしないに違いない。

 漱石の家庭生活については、昔からいろいろ言われている。漱石夫人「悪妻説」というのが昔からある。特に教育もなかったので、日本最高級の知識人である夫からすれば、それはつまらないことも多かったんだろう。昔の人の事はよく判らないので、これ以上書いても仕方ない。漱石は特に自分が女性差別主義者だと思ってなかっただろう。「世の通念」のままだったのだと思う。夫婦間や親兄弟がうまくいかないというのは、別に珍しいことでも何でもないけど、今じゃ読めないという話。

 漱石は1896年6月に、中根鏡子と結婚した。熊本時代である。鏡子は1877年生まれだから、ちょうど10歳年下になる。没年はなんと1963年で、85歳でなくなった。第二次大戦後まで生きて、僕と時間が重なるというのに驚き。それにしても、東京五輪の前年まで生きてたのか。漱石との間には、筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子の2男5女が生まれた。

 鏡子の父、中根重一は、結婚当時貴族院書記官長をしていた。今で言えば、参議院事務総長で、まあそれほどすごい高級官僚というほどでもないけど、一応安定した地位にあった。でも4年で、政変に伴い辞職。その後投資に失敗して窮迫したように「道草」で描かれている。貴族院書記官長というのは、全部で9人しかいなくて、前任が金子堅太郎。中根が2代目で、4代目に柳田国男が務めたことで知られている。大体、その後に貴族院議員にしてもらった人が多いのに、中根は選ばれなかったと「道草」に書かれている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ナラタージュ」、原作と映画 | トップ | ロシア革命100年を考える »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本 (日本文学)」カテゴリの最新記事