尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「戦前日本の映画検閲ー内務省 切除フィルムからみるー」を考える

2022年10月16日 22時21分47秒 |  〃 (歴史・地理)
 懐徳館庭園を見た後で、国立映画アーカイブに向かった。15日はユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして「戦前日本の映画検閲 ―内務省 切除フィルムからみる―」という上映と講演がある。今は大ホールが工事中で、小ホールだから収容人数が少ない。これは完売必至と見て、発売開始当日にチケットを買っておいた。(今はパソコン、スマホでしか購入できない。)当日は内務省の切除フィルム上映があるというのだから、非常に貴重だ。一体どういうものなのか、気になるではないか。

 まずこのフィルムの出所に関して。これは元フィルムセンター主幹を務めていた鳥羽幸信氏(1916~1992)の寄贈資料にあったものだという。鳥羽氏は、羽鳥天来の名前で無声映画の弁士もしていた人で、かつてフィルムセンターで元気な姿をお見かけしたものだ。1978年のフィルムセンター定年後も、図書館などで無声映画上映会を開いていた。鳥羽氏が寄贈した数多いフィルムの中にあったのが、今回のものだという。しかし、題名がなかったため、これが内務省の切除フィルムだとは近年まで判明しなかった。

 鳥羽氏は戦前に内務省の検閲現場で下僚として勤めていたという。敗戦時に焼却されるものを幾つか持ち出した可能性があるという。稲垣浩監督の名作『無法松の一生』の切除フィルムもあったんだけど、さすがにそれはちょっとなどと語っていた記録があるという。ただそれだけでもないようで、業者が任意放棄したフィルムや業者から譲渡されたフィルムなども混じっている可能性があるらしい。とにかく珍しいものには違いなく、近年デジタル化して、作品の同定を進めてきたという。

 今回はフィルム上映とデジタル上映が連続して行われた。内容は同じだから、まるで大島渚監督の『帰ってきたヨッパライ』みたいな感じの繰り返しである。デジタル映像には、現時点で判明している作品名が付いている。内容的には、事前に予想していたものとはかなり違っていた。戦前の検閲といえば、まずは「国体」(天皇制)だと考える。左翼的、体制批判的な言論を取り締まるのだという、そういう予断があった。確かにマルクス主義の思想書などは伏字のオンパレードである。

 でも、考えてみれば会社組織で製作される映画の場合、最初から上映禁止になると決まってるものは作るはずがない。上映台本の検閲もあるんだから、映像になる段階では体制批判はないのである。今回ほんのちょっとだが、衣笠貞之助監督『日輪』の削除フィルムがあった。これは横光利一原作の映画化で、1926年のキネマ旬報ベストテンで2位になっている。フィルムが残っていないので、今回は非常に貴重だ。卑弥呼を主人公にしているので、天皇制神話に抵触するから検閲されたのかと思っていた。しかし、台本段階でチェックが入り、問題ないように改作されたうえで製作されたのである。公開後に長野県から、この映画を上映して良いのかと問い合わせがあって、内務省は問題なしと回答したという。

 それでも削除されたのは、残虐シーンという理由だった。「残虐」といっても、時代劇にチャンバラは付きものである。普通は日本舞踊のような殺陣(たて)になっているが、監督によってはもっとリアルな描写を求める。どうせ血糊に決まっているわけだが、人間を完全に刺しているようなシーンは削除である。また「風俗壊乱」というか、監督・公開年不明の『志士奮刃』という映画では、武士が女に執拗に襲いかかる。悪い旗本が料亭などで目を付けた女を手籠めにしようとする、そんな感じ。しつこく追い回し、帯がクルクルとほどけていく。別に裸が見えるわけでも何でもないけど、「その後」を連想させるから不可なんだろう。

 上映後に加藤厚子氏の講演が行われた。加藤氏は学習院女子大学非常勤講師で、専門は日本近現代史(戦前・戦中の映画産業と映画統制)とホームページに出ている。この講演は非常に充実していて、内務省検閲の実際が説明された。日本映画の場合は「出願」「査閲」「手続」の3段階で済むが、面倒なのは外国映画である。内務省以前に「税関検閲」があって、どうしても通過出来ないものは「拒否(積戻し)」になるのである。それを避けるために、業者が勝手にフィルムを削除してしまうこともあった。その後、台本を作成し、字幕版を作成した上で検閲に臨み、それを通過した後に最終的な字幕版をもう一回内務省検閲を申請する。

 何という面倒くささであることか。戦前の外国映画はそんな苦労をしていたのである。代表的な映画輸入会社だった東和の資料が川喜多映画文化財団にあって、台本検閲の事情がうかがえる。その結果、後半の外国映画編は「キス・シーン特集」である。では、キス・シーンだって削除されると判っているのに、何故検閲まで残したのだろうか。それは「外国風俗の特殊性」というか、家族どうしでもあいさつとしてキスするんだから、全部を削除できない。そして恋愛映画でも特に扇情的なキス・シーンは削除もやむを得ないが、ある程度清純なものは見逃される場合もあったのかもしれないのである。

 それを予想させるものは、小津安二郎監督の『一人息子』に引用された『未完成交響楽』のキス・シーン削除である。『未完成交響楽』はシューベルトの伝記映画で、シューベルトの実らぬ恋を描いている。日本では1935年に公開され大ヒットした。『一人息子』は小津の最初の発声映画で、東京にいる日守新一のところに飯田蝶子の母が田舎から訪ねてくる。映画に連れて行って、そこで『未完成交響楽』を見るシーンにキスがあり、削除された。という風に「検閲時報」に記載されているという。
(『未完成交響楽』)
 ここで不思議なのは、公開映画に何故キス・シーンがあったのだろうかという点である。実は脚本家廣澤栄氏の回想録に、この映画にキス・シーンがあると友人から教えられ、数年後に東京で見たときにはキス・シーンがなかったという話が出ているという。川喜多財団にも複数の台本があるらしい。大ヒットし、新しい上映フィルムが作られた時にはキス・シーンがなくなった。公開当時はキス・シーンがあった可能性もあるのである。僕が考えつくのは、字幕付き外国映画、特にクラシック音楽の物語を見る層は、特別扱いだったのかもということだ。娯楽映画ではないし、恋人同士が親の決めた結婚で別れる設定である。それに対し、日本映画はもっと大衆が見るものだから、キス・シーンは絶対許されなかったのか。とにかく、未だ解明されない謎である。

 ミッキーマウスのキス・シーンも削除されていたり、いろんな映画が出て来る。解説資料も詳細で、非常に貴重な機会だった。映画検閲のリアルを知る上で、画期的な上映だった。今後ネット上でも公開されるというから、家でも見られるはずである。今後の研究進展を期待したいと思う。
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