関が原の合戦と石垣原の合戦

2012-09-15 08:02:31 | Weblog

(関が原の合戦と黒田軍)

 

1600年(慶長5年)9月15日は石田三成率いる西軍と徳川家康の東軍が天下分け目の戦をした関が原の合戦の日である。

丁度其の日、奇しくも黒田如水軍と大友軍が戦った「九州の関ヶ原」といわれた別府石垣原の合戦で大敗した大友義統が降伏した。

大友家は鎌倉幕府の守護として400年間豊後の地を治めていた名門でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、敵前逃亡(諸説あり)の咎で領地召し上げられ毛利家に預けられていました。石田三成が決起したとき天下分け目の大きな戦が起こるだろうと読んだ黒田如水や大友家の家臣方は東軍につくように進言しますが豊臣家から西軍に付けば旧領を再び与えるとの甘言をうけたため義統は西軍に付いた。鉄砲や槍などを与えられ豊後に着いた義統は東軍の杵築城を攻めた。杵築城から援軍の要請を受けた黒田如水は中津で兵を挙げ大友軍と石垣原で戦うことになった。

大敗した大友義統は頭を丸め黒田如水の前に降伏し、400年続いた名門大友家は滅んだ。大将の時代を見る器量が無かったのかもしれない。しかし、後世からは如何とでも言える。もし、関ヶ原で西軍が勝利していたら(後世の戦争歴史家は関ヶ原の布陣を見た時、西軍勝利の布陣であると言ったという説がある)、もし義統が東軍についていたら歴史は如何様になっていただろうか?と考えてみるのも歴史を学ぶものの楽しみではある。

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