慶長五年(1600年)九月、上方(かみかた・大坂)より三成蜂起の情報が早船で届く。黒田官兵衛(如水)は如何に動いたか?
黒田家譜十二巻には 『~只今城普請も無益なり、修理をやめさせ、いそぎ陣用意すべしとぞ仰ける。~其後勘定奉行杉原氏を召て、蓄をける金銀の員数をはかりて、天守より金銀多く取出させ、広間につみをき、~奉公に出べきいふ者あらば、貴賤をえらばず、此金銀を与えて召抱べしとて~都合三千六百餘人かかへたりける。
~如水は諸勢に先立ちて、中津川より一里半東なる、広き原の少高き所に、床机を立て、腰をかけ、総勢の備押を見給ふ。一番に母里太兵衛一備、二番に黒田兵庫助~都合其勢八千餘人、いづれも一備一備引分れて、しづかにおさせ、其の行列を見給ふ。如水の本陣の勢千餘人、すべて九千餘人なり。~如水の床机に越しかけて下知し給ふ所を、後年如水原と号す。』
大坂で三成蜂起の報をいち早く早船で知った如水は船で国東半島を巡り豊臣方の富来城などを探察し細川領の杵築城に上陸し三成蜂起を伝え城の守りを堅固にするべしと伝え引き返す。中津城では篭城すべしという重臣たちを説き伏せ傭兵し総勢九千余人の兵を指揮していよいよ九州の豊臣方(三成方)の城を攻めて行くべく陣立てをしたのだ。
今から丁度412年前の九月、中津には如水の乾坤一擲の号令が如水原の原野に響き、勇み昂ぶった兵の勝鬨の声が辺りを圧していたのである。