黒田長政と愛刀・城井兼光

2010-01-18 11:41:50 | Weblog
若き黒田長政が城井鎮房(宇都宮鎮房)を切り殺した刀は「城井兼光」と銘打たれ福岡市博物館に所蔵されている。黒田武士の研究第一人者本山一城著「黒田軍団/宮帯出版社」によると黒田官兵衛が秀吉より九州平定の功により豊前6郡を拝領したが旧領主城井鎮房は今治転封を拒否し秀吉の怒りを買った。秀吉は命に従わぬ鎮房の成敗を黒田家に命令した。有無を言わせぬ主命により長政は中津城内にて鎮房を謀殺。秀吉は一揆軍の首のすべてを京の秀吉のもとに送らせ首実検をさせた。秀吉は長政のやり口を「いかにも若者らしい!」と讃えたという。丹後国を領有した細川藤孝・忠興(中津城第2代目城主・奥方はガラシャ)父子も同じような方法で旧領主の一色氏を滅ぼしている。こういう暗殺は当時仕物(しもの)と呼ばれ日常茶飯事であった。後に長政が家康に始めて会った時もこの刀を差していたというからよほどの愛刀である。備前長船の名工小松兼光の作。ということで戦国時代の風潮が窺える。黒田、城井どちらが良い悪いではなく戦国時代はかように生きるか死ぬか、やるかやられるかの時代であるとともに主君の命令は絶対であった(肥後50万石を拝領した佐々成政は旧国人の一揆を止められず秀吉に切腹させられた。また関ヶ原後、土佐24万石の新領主となった山之内一豊は相撲大会を催し反抗した旧国人長曾我部の一党を一斉に謀殺した。家康は豊臣恩顧の武将山之内一豊が土佐を治めきれるか試した。治めきれなかったらおそらく領地没収か減封、転封、切腹のいずれかであったろう)。長政の城井鎮房謀殺を後世の者がとやかく言えるものではなく当時としては止むを得ないことであったと推察される。
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