実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

2020師走(2) 実戦教師塾通信七百三十四号

2020-12-11 11:08:26 | 福島からの報告

2020師走(2)

 ~双葉郡に分け入って~

 

 ☆初めに☆

いわき四倉の干物屋「ニイダヤ水産」は、今年もなんとか年を越せそうです。肝心の魚があがって来ないのよ、と嘆く事務員さんです。いわゆる「常磐もの」と呼ばれる茨城/福島/宮城沖で捕れる魚、それがさっぱりダメなんだそうです。一方、店内には「干物女子応援隊」の色紙が貼ってありました。ずっと前に来た新潟大学からのボランティアが、つい最近駆けつけてくれたといいます。大学の時に来てから5年ほど経ってます。おそらくは20代後半に差しかかった5人ほどの女子が笑っていました。

楢葉の渡部さんからいただいた煮物。こんにゃくはご近所の農家の手作りだそうで、優しい食感と出汁が中までしみこんで……美味しい。

この10年間感じ続けてきた楢葉町、そして双葉郡の場所を確かめるため、普段行かない場所に足を踏み入れました。熱心な読者しか覚えてないと思いますが、楢葉歴史資料館から郷土資料が送られて来ました。「中世」の部分が実に魅力的なものでした。南北朝から原発まで続く道という私の勝手な妄想を、歩きつつこの目で見たいと思ったのです。

 

 1 高岡城

 少し歴史をおさらい。天皇親政(しんせい)を立ち上げるため鎌倉幕府を倒して、いわゆる建武の新政を興(おこ)した後醍醐天皇が足利尊氏によって倒される。その後、吉野の南朝と京都の北朝に分かれて南北朝となる。当たり前のことだが、この影響が全国に及んでいた。いわき久ノ浜から広野/楢葉までの楢葉郷、そして富岡から南相馬までの標葉(しねは)郷は南党(南朝方)だった。南党の勢いは、楠木正成/新田義貞たちの敗走とともに衰える。しかし、その後もこのエリアの南党勢力は、新しい幕府に追随しようとしない。海道(「浜通り」と言い替えても可)一帯は同盟を結んでいた。「海道一揆」と呼んでいる。これを岩城(いわき)氏が追撃する。

 いわきから国道6号線をくだり広野町に入ってすぐ、浅見川沿いに左に折れる。この川を挟んで戦闘が展開される。

やがて高岡城址が見えだす。高岡城は岩城氏が楢葉氏を攻略するための城だった。

城には狭い山道から入るのだが、この頃の城が山城と言われるように、石垣を主としたものではない。基本は土塁である。登るに従い道はもう獣道のようで、いつ熊が出てもおかしくない。

林道がさらに濃く狭く暗くなる中を登ると、祈念碑のある山頂にたどり着いた。頂上から広野の海が見えるが、そこからも軍勢が押し寄せたという。

この戦いがどのように現在に繋がっているのか、その入り口はまだまだ遠いのだろう。

 

 2 親切な人々

 高岡城は広野町教育委員会で尋ねた。それだったら事前に知らせてくれれば案内差し上げたのにと残念そうに言い、親切に地図を出して教えてくれた。もうなんにも残ってなくてとか、車の置き場所なら心配することはありませんという言葉を、半ば不安に思いながら私は出発した。

 説明によればこの辺だと思いながら車を転がしていると、その様子を遠巻きにする立ち話中のおばちゃん二人組がいた。すみませんとあいさつし、高岡城の所在を聞けばビンゴだった。車のナンバーを見て、柏から来たのかいと言う。委員会の人と同じく、行ってももう何もないよと言い、車はどうすればいいでしょうかと聞けば、ここに置いとけばいいと言う。大丈夫よと、もう顔は笑っていた。それから私は山歩きで汗をかいたのだ。

 やっぱり来て良かったと思った。師走の暖かい日差しが注いでいた。

 

 ☆後記☆

一昨日はジョンレノンが亡くなって40年の命日でした。もちろんイマジンを聴きました。

今年も敬愛する岩手の先輩から、リンゴが送られて来ました。

折原浩が「伝習館」講演のため宇都宮大学に来て、今日で50年です(ブログ114号参照)。林学科共闘委員会の先輩方、そして教育共闘の仲間たち、みんな元気ですか。

☆☆

リンゴの岩手の先輩から入ってきた岩手県知事の情報を、次回に若干しようと思います。それと、同じく前回の「慰安婦問題」は、少しばかり訂正をしようと思います。朝鮮半島の専門家からアドバイスが入ったのです。

☆☆

来週の土曜日、子ども食堂です。チラシでは「会食」を予定していましたが、同じくチラシにただし書きしたように、「配布」となりました。クリスマスデザートも用意します。良かったらどうぞ。

 


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