足利・上
☆初めに☆
何年振りっていうか、叔父の法事か叔母の葬儀以来のはずで、十年以上ご無沙汰の足利詣です。私の両親が結婚したのが5月3日であることは前も言いましたが、ふたりの結婚を祝ういいタイミングだったと思います。
頂いたシャクヤクです。結婚記念日のその日、固かったつぼみは、見事に開花しました。花瓶というには目障りなジョッキ、握りの引き金を引くと泡立つプラスチック製品です。おめでとうございます。乾杯🍺
当然ちゃあ当然なのですが、超久しぶりの足利なわけで、諸行無常という感じになりました。
☆織姫神社☆
夏のような日差しが注ぐ中、懐かしの織姫神社に出向きました。すっかり観光地として有名を得た「あしかがフラワーパーク」には、もともと行くつもりはありません。それなりの知名度があった足利学校と織姫神社は、フラワーパークにドミノでブレイクしたようです。小さい頃です。長い階段を上ると、眼下に足利の町を見下ろす山頂が織姫神社でした。織物は縦糸と横糸で結ばれる男と女のようなもの。それで神社は織姫となった。明治以降、絹織物の人気と需要が急上昇し、群馬は富岡、栃木は足利で増産されます。足利が織姫神社を地の神として確信したのは間違いありません。父や琴寄一族が育った場所からは散歩コースで、早朝の織姫神社からは、低い木立の山頂から薄もやの中に町が一望出来ました。でも、山と川のある町という以外は、すっかり変貌の姿を見せている。静かだった境内では、多くの人々がお参りや撮影に余念がありません。駐車場には横浜や長野ナンバー等がぎっしり停まっている。
229段?の階段を登ってここに着きます。でも、朱塗りの本殿やら欄干やらは一度として見た記憶がない。あるいは、大昔の織姫神社は、本殿も境内もこじんまりとしていたかもしれません。さらに階段を登ったところにある、簡素な鳥居と祠を抱える大山神社まで登って、私たちが愛していた織姫神社はこれかと思った次第です。ホッとして町を見下ろすも、今は高く生い茂った木々の間からやっと見える町は不細工なビル群に埋もれていました。
そして何と言うか、神社の上をさらに登ったところに、レストランが建っていたわけであります。この罰当たりめが! 山頂の神社を人間の建物が追い越す非常識は、レーダー基地建設をした富士山頂しかしなかったゾ。……って、あてにはなりませんが。渡良瀬川と鉄橋(当時は茶色だったと記憶してます)が救いでした。
☆鉄橋☆
渡良瀬川と鉄橋を確かめに行きます。お世話になっている整体院の先生が、思いもかけず「足利は日本で一番いいところだ」と言ったのを聞いたのは、つい先日のこと。どうやら水と空気のことらしく、今はすっかりダメになったよ、という付け足しがあるのです。見るたびに感動していた鉄橋は、隣に新しい橋が出来るのか、周辺の景観の変化と共に無残な様相です。工事中を示すグロテスクなフェンスや足場の中から、昔の記憶をたどります。
父は長男で、目抜き通りにあった米屋を継ぐのが当たり前だったはずです。法学部を目指して東京に向かうことは、家を飛び出すことを意味していた。父と足利に来た記憶がないのは、そのせいだと思います。父は足利に顔向け出来なかった。記憶に間違いがなければ、私が初めて足利に来たのは、父の遺骨を菩提寺に納めた時です。父のとばっちりを食らって米屋を継いだのは、ふたりの弟(叔父)です。大学時代とその後の「活動」のお陰で、父の身体はボロボロだった。こんな生活をしていてはいけないと腰を上げ、父は法律事務所を立ち上げる。運転資金はあとで何とかなるという算段は、自らの死で崩れる。丸ごと残った借金はともかくも、請け負った仕事のキャンセルと事務所閉鎖手続きを真っ先にしないといけなかった。途方にくれる母。様々な種類の客が訪れる毎日。実務処理に明け暮れた叔父は遺骨を納める時も一緒で、常磐線から東武線で足利へ向かう。道行きは長く、6時間と記憶している。駅からタクシーという乗り物を、初めて経験します。黒いタクシーが、巨大な檻のような橋をいくつも潜り抜けるように渡る。鉄橋は当時、列車が通る川にしか架けられないものでした。列車から見える鉄橋は斜めの鉄骨だけですが、タクシーは前方の窓からもその姿を見せていた。そびえる巨大な鉄橋は、賑やかできらびやかだった足利の入口にありました。
納骨を終えて帰るまで、緊張がなかったと言えばうそになるけれど、悲しみに沈むことはありませんでした。今は旧市街となって静かな界隈は当時、元気な品物や声で満ちていました。店の品物は行く先を知っており、それを待っている人がいる。これを「商い」というのか、と思って見ていた気がする。表には米や雑貨を買いに来る人たちが、裏からは炭や薪を運んで来る人たちが出入りしていた。その元気な声が、天気や商売以外の「情報」だった。私は道の向かいにある、たくましい木々に囲まれた神社で従弟たちと遊び、疲れて店に戻るとお盆におやつが載っている。店の前には舗装された!道があるだけではない、耳をすまさなくとも、すぐ近くを通る両毛線の列車(汽車でした)と踏切の警報音が聞こえる。道を少し入ると、白い土塀の壁が続く奥から、機織り機の轟音が聞こえていた。紛れもなく、ここは足利のど真ん中だった。父が死んで、明日をも知れぬ生活に入った私たちの前に、大きな町の不自由ない生活がありました。いや、親戚筋の優しかったことを強調すべきかもしれません。私には贅沢と発見の日々でした。
☆後記☆
すっかりブルーに、のめり込んでしまいました。お付き合いいただき、ありがとうございます。しょうがない、少年期は薄暗い地下道のようなもの(吉本隆明)ですから。またしても、バックナンバーの曲を思い出しちゃいます。
公園の落ち葉が舞って……/駅前のパン屋と踏切の閉まる音(『アイラブユー』)
学生時代、足利から寮に戻ると、店からもらう即席ラーメンを待ち受ける仲間(でないものまで)が、部屋に合掌してやって来ました。いつもふた箱(40個)もらって来るのですが、幾日ももたなかった。それでもみんな持って行くのは一個だったし、盗むようなことは絶対しなかった。確か、サッポロ一番(みそ味)でした🍜
次号は紀行文的内容になるよう、心掛けます。次号も⁈と言わないで。なんせ最後の詣かも知れないんだから✋
☆☆
なんか腹の立つことが続きました。ひとつは、東京15区で立候補した乙武氏への妨害活動。メディアの取り上げ方に異議があるのです。それと、水俣病患者と環境省との懇談。これも取り上げ方です。また、相も変わらぬ敬語の暴走。柏市立高校の問題も、ニュースにあがってました。言いたいことが山のようです。順を追って書こうと思ってます。
皆さ~ん、そろそろ五月病。寝る・食べるを、心しましょうね☺ 最後は我が家のツツジ、今年は満開🌺
藤井・オオタニ両氏から目が離せませ~ん☖⛊🥎👀
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