実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

新しい生活Ⅱ 実戦教師塾通信三百二十九号

2013-10-29 10:26:20 | 福島からの報告
 新しい生活Ⅱ

    ~寂しいスタート その2~


 1 「寂しいもんだよ」


「コトヨリさんに話があるんだよ。家まで来てくれない?」
いいんですか、と私は答える。集会所のにぎわいの中で、私は喜び勇んだ。海岸に住んでいたこのおばちゃんは、家が流されたあとには戻(もど)らず、また、高台に建(た)つ復興住宅への入居(にゅうきょ)も選ばなかった。
「子どもに聞いたら『もう海や川のそばで暮らしたくない』って言うからよ」
と、もとの海岸からずっと離れた場所に家を建てた。
 9月に引っ越したあとは、自宅からこの集会所にいつも徒歩(とほ)でおばちゃんは来ている。今までどおり毎日だ。だからこの日は、おばちゃん家まで私の車で行った。
「平屋(ひらや)で小さい家なんだよ」
そう言われても、周り(まわり)の真新しい二階建ての家々と、私には区別がつかなかった。
 以前住んでいた近所の大工さんに頼んだという家は、中に入ると外からは分からなかった違いがはっきりと分かった。私は居間の太い柱に感嘆(かんたん)の声をあげる。
「大きい地震があったらこの部屋に逃げろって大工さんが言ってた」
とおばちゃんが言う。私は自分の家に、柱そのものが見当たらないことを思い出した。
 ここには書けないことだが、集会所で耳にしたいくつかのことを思い出し、
「大変そうですね」
と、私から切り出した。二年前、まだ仮設住宅暮らしが始まった頃、集会所はおばちゃんたちの話し声で賑(にぎ)わっていた。しかし、それは気心(きごころ)の知れた昔からの「ご近所」ではなかった。なにかいさかいがあった場合、長いお付き合いで身につけた流し方を、ここで出来るわけはなかった。そしてさらに、みんなは傷を負(お)った「被災者」だった。新たに負った傷を癒(いや)すだけのゆとりを、みんなは持ち合わせていなかった。そんなことがある度(たび)、みんなは集会所に「行きづらい」気持ちを、ひとりひとり積もらせていたのかも知れない。
「もう私たちは年寄りだしさ」
「寂しいもんだよ」
おばちゃんが言った。
 そんな集会所の会話で、言った方はこんな風に言ったつもりなのだろう、しかし、聞いた方はそうは受け取らなかった、と思える相談ともグチともつかないものを、私はたくさん見て、聞いた。私にすれば、どっちも親切のつもりで言ったはずなのに、と思えることもたくさんあった。仮設が始まってからずっと住んでいる人たちと、あとから入った人たちとの行き違いも大きかった。その度に私は、そうじゃないとか、それは違うと思います、などと言って間に入ろうとした時もあったが、そんなことが彼女たちの役に立つものではない。


 2 「みんなバラバラだよ」

 南はどっちですか、と私は聞いた。おばちゃんは庭の方の窓を指(さ)して、
「こんなちっちゃな庭だけどさ、大根を植えてんだよ」
と言った。そして、真新しい建て売りの家並みを見ながら、
「この辺の家はみんな鍵(かぎ)かけてんだよなあ」
と、しみじみ言う。前住んでたところでは、誰も鍵なんてかけないよ、だから留守(るす)でも勝手に上がり込んでお茶飲んでたんだよ、と懐(なつ)かしそうに言った。私は、少しためらったが、
「今はみんな鍵かけますよ。近くにおつかい行くんでもそうですからね」
と言ってしまった。おそらく、おばちゃんの言う通りだったのだと思うが、留守でも上がり込める家はそんなに多くなかったに違いない。でも、それぞれが馴染(なじみ)の相手と「勝手(かって)に上がり込む」お付き合いをやっていれば、やはり地域全体が「施錠(せじょう)」のない生活になったのだろう。都市が40年前にやめてしまった生活を、この人たちは二年前までやっていたのだ。
「寂しいもんだよ」
おばちゃんは続ける。せっかく仮設住宅で友だちになった人も、前に住んでた場所にみんな戻(もど)るんだよ。私たちは足がないからね、バスで行こうにもいったん駅まで出てからなんだよ。みんな遠くなるんだよ。今はこうして何分か歩けばすむけどね、そうなったらもうお茶飲みだって簡単なことじゃなくなるよ。前住んでた海岸近くの復興住宅に入らないってのは、確かに私が決めたことだよ。でも、ここの周り(まわり)は知らない人ばかりだよ。
 それに、仮設のみんなが、もと住んでた場所にみんな戻るかっていうと違うんだよね。いったんここ(仮設)で気まずい思いをした人たちは、もう戻らない、いや、戻れないよ。ここでついた傷は深いんだよ。またもとのようにご近所を続けようたって、そうは行かないよ。
「みんなバラバラだよ」
「あたしたちは年とってるんだよ」
 そうして、ずっと仲よくしてきた仲間のおばちゃんのことを言う。
「あの人とも遠くなっちゃう」
でも、と私は言う。幸い、というと変だが、仲よしのおばちゃんの復興住宅の進行は遅れていて、来年はまだ完成しない。その間は仮設でのお茶飲み話が出来る。
「まだ一年以上も先のことで悲しむのはやめましょう」
もう少し先になって考えましょうよ、もしかしたらいいアイデアが出てくるかも知れない、と言った。なんの根拠(こんきょ)もない、無責任な言葉でしかないと分かっていても、私にはこんなことしか言えない。なあに、新しいご近所さんにだって、きっと面白い(おもしろい)人がいますよ、とはとても言えなかった。
 私は、いわき市街地(しがいち)での意地悪な言葉を思い出す。

「新築(しんちく)の家に引っ越しだってよ」

それがどうした、だからなんだ、と思い出す。


 ☆☆
お醤油やお味噌の支援をしているのはコトヨリさんたちだけだからね、そんなつもりで配ってね、とは会長さんの言葉です。喜びと自覚のもとに配りました。
「雨の中、ありがとうございます」
もうほとんどやんでいた雨。でも嬉しいですね。
「ヤマサしか使わないんです! ありがとうございます」
と言われたのですが、キッコーマンでもこう言ってくれたような気がします。でも、ありがたい。
「『また来る』って言ってください」
とは、以前別な方から言われた言葉です。また言われました。だから「また来ます!」と言いました。
台風がふたつ(27号と28号)近づいていたので、その心配でずいぶん話し込んだ家もありました。そして、ありがとうございます、と言いながらずっとあとをついて来る人。胸を温めながら仮設の間を歩きました。

 ☆☆
「じぇじぇじぇ!」のマー君、やりましたね! どうだ!ってやつで、あの雄叫びみたかった。日本シリーズでの雄叫びは、どっちか言うと、自分へのバカヤロー!みたいな印象でしたね。あとは周囲の雑音(ざつおん)に一喝(いっかつ)ですかね。シリーズ初戦での登板(とうばん)を望まなかったことで、いろいろあったんですねえ。ホント、外野は黙ってろ、ですよ。ワタクシ思わず昨日のスポーツ新聞買っちゃいました。
そして今度は沢村賞!
おめでとうマー君!
今日は東京ドーム。さて、巨人のホームで勝負ですね。
胸を借りて、頭を下げて、巨人をぶっ潰せ!

新しい生活  実戦教師塾通信三百二十八号

2013-10-26 13:15:16 | 福島からの報告
 新しい生活

     ~寂(さび)しいスタート その1~


 1 新たな「気がね」


 復興住宅の受付がこの22日に始まって、クリスマスまで続く。第一仮設住宅に住んでいる方たちは、当然のことだがみんな入居(にゅうきょ)の条件を満たしている。しかし、繰り返すが、復興住宅の完成は一番早くても、沼の内地区の来年4月、久之浜はさらにそこから一年以上も先の完成だ。それでもここ最近、仮設住宅からの転居(てんきょ)が目立っている。それは、市営住宅の抽選(ちゅうせん)があって、それに当たったという人たちやアパートへの移動があるかららしい。
 台風の影響(えいきょう)でいわきは前日から大雨で、仮設でお醤油を配るこの日も雨は本降りだった。私が午前に着いたその時は、ちょうどお醤油の第二便が届いた時だった。大部屋でつい話し込みそうになる私に、コトヨリさんも手伝ってね~ と会長さんが声をかける。慌てる(あわてる)私は、玄関先に戻る(もどる)。
 醤油の整理が終わってひと息つく私は、ふだんと様子が違うことに気づいた。
「今日は珍しく人が多いね。来て良かったよ」
と、医者帰りのおばちゃんが言っている。雨の日なのだ。しかし、今日は集会所に集まった8人ほどのおばちゃんたちは、元気よく話す一方、時おり声をひそめてささやくのだ。私は、聞くともなしに、少し離れたところで話の様子を見ていた。おばちゃんたちはあまり見ない顔もあったが、みんな知っている顔だった。でも、話の内容から推測(すいそく)するに、中の3人ほどはすでに仮設住宅を出ているらしい。つまり、この日はその引っ越し先からここまで来たのだ。雨の中を、だ。せっかく遠くから来たのに、などという声に混(ま)じって、
「余ったお醤油どうすんだっぺ」
という声が聞こえる。
 私の中でジグソーパズルが完成した気分だった。もうここの人間ではない、支援物資(しえんぶっし)はここに届くものだ、その支援をうけていいものだろうか、という思案(しあん)が、引っ越した彼女たちの中で渦巻いて(うずまいて)いるのだ。私は、なんの気がねもいるものか、一体誰に気がねするというのだ、と思った。そして、
「お醤油持ってってくださいね!」
と、わざと大声で言った。ためらう様子の人たちをかまわず、私は彼女たちの買い物袋に、お醤油を突っ込んでしまった。ありがとうございます、いいんですか、と私に言うのだが、そばの役員さんや職員に気づかう様子が、私にははっきり分かった。私は、ああ、この次も来てくださいと言うんだった、と後悔(こうかい)した。私はここ第一仮設住宅の責任者ではない。しかし、このお醤油(お味噌)支援の責任を負(お)っている。冗談(じょうだん)ではない、そんな気がねを許していたら、この支援に参加してくれている仲間に顔向けが出来ない、そう思った。
 彼女たちがどんなことでためらうのか、私には痛いように分かる。彼女たちが、かつてそうしたいと思っていたことに踏(ふ)み出したからだ。そうしたいと思っていても、まだ出来ない人たちがここ(仮設)に残っているからだ。そして、残っている人たちと自分が、同じように支援を受けていいものかどうか迷う(まよう)からだ。二年前を思い出す。

○避難(ひなん)指示の出ていない30キロ圏外(けんがい)から避難する時の「お隣さん」への気がね
○遠くに避難していた人が避難所に「入居」する時の気がね
○避難所から「みなし仮設」=アパートに引っ越す時の気がね

これらがもちろん、「残された人たち」からされた冷たい仕打ちの結果だ、というわけではない。みんなそう思うのだ。
 私が集会所でお醤油を渡していた時、第一仮設の会長さんは、少し離れたところにいたが、この様子は見ていたはずだ。なんの言葉もなかった会長さんだが、オレが支援しているわけじゃねえから何とも言えねえけど、という言葉でも良いから欲しかった。とにかく彼女たちが居づらい気持ちになるようではいけない。仮設の空気がこんなに重くなってはならない。会長さんとはこういうことで、しばらく話して行かないといけないようだ。


 2 「新築の家だってね」

 仮設住まいをしていない市街地(しがいち)の人たち、いや、もっと正確(せいかく)に言えば、被災が軽微(けいび)だった人たちは、まったく別な考えや気持ちを持っている。私はいらだちを感じつつ、それらにいちいち反論(はんろん)しないといけなかった。
「仮設から今度は新築(しんちく)の家にに引っ越すんだってね」
『そういう人もいるというだけの話です』
「広い土地を四人(四世帯)仲間で買って、それを分けるんだってね」
『そんなことを出来る人たちがどれだけいると思ってるんですか』
「支援されてっからね」
『大変だから支援があるんですよ』
 無責任で意地悪(いじわる)な言葉たちは、なんの容赦(ようしゃ)もない。彼らは仮設に住む人たちの「新しいスタート」を、なぜか歓迎(かんげい)しないのだ。何度も書いたが、いわき市の公共施設や病院、そしてゴミや上下水道を、双葉(ふたは)地区の人たちが使用することについて、「住民でもないのに」という反発がずいぶんあった。これらは双葉地区の人たちへの感情であった。彼らが仕事も住まいも奪(うぱ)われただけだったら、この感情はきっと生まれなかった。双葉地区の人たちには「補償金(ほしょうきん)」という名の、「お見舞い」や「生活費」が出ている。仕事のない人たちが、お金を持って「遊技場(ゲームセンター)」に出向く姿は、あてどなく「放浪(ほうろう)」するようにしか見えないに違いない。そんな中バッシングが始まったのだ。何度書いても「原発の残したもの」は深い、と思わない訳にはいかない。
 そして今度は、同じいわきの人間たちの「新しいスタート」にもチャチャを入れる。
 「さもしい」と呼ぶにふさわしい人たちは、きっとこれからも変わることはない。私たちは「ご縁(えん)がある」人たちとつながっていけばいい。


 3 『福島民友』

①核のゴミ
 国会で東電の社長が言ったものなのだが、ニュースになってない気がする。高濃度(こうのうど)の汚染瓦礫(おせんがれき)を、原発敷地内(しきちない)で処分する方針を明らかにした。初めてのことだ。今もまだ、
「放射能で汚染したものはみんな原発のあるとこに持ってけ」
なる主張をしているやつらがいるが、こいつらは原発を廃炉(はいろ)にして「安全な」状態にしないと、それさえも出来ないということをまだ分かってない。覚えているだろうか。「廃炉40年」である。そして、あの広大(こうだい)な敷地は、ますますタンクの増量(ぞうりょう)で狭(せま)くなっているのだ。

②燃料取り出し
 全国ニュースではこれから出ると思う。来月の8日から、4号機の使用済み核燃料の取り出しが始まる。当初は来月中旬(ちゅうじゅん)以降の予定だった。もちろん格納容器(かくのうようき)からの取り出しではない、核燃料プールからの取り出しである。地震によって燃料プールが崩壊(ほうかい)し、大惨事(だいさんじ)になるのを避けるためである。しかし、一応確認するが、この取り出された燃料は、小泉元首相が再確認してくれたように、「行き場(捨て場)がない」。再処理施設として位置づけられていた青森県六ヶ所村の工場は、再処理が保障されない今のままでは、きっと「受け入れない」。


 ☆☆
お醤油配布の様子、次にします。とりあえずこの場を借りて、支援者のみなさんに御礼申し上げます。ありがとうございました。すでに送ったものですが、みなさんの写真を載せます。外は雨。いつもと撮影(さつえい)場所が違います。モデルたちは、大部屋にまだ5人ほどいるのですが、シャイな彼女たちは撮影をいやがり、顔を見せません。
           
そして、今回のこの「寂しい」話、実はまだ続くんです。この先がもっと寂しい。聞いてほしいです。次回です。

 ☆☆
楽天、一位指名の松井を取っちゃいましたね。スゴイ! 上昇気流ってあるんですねえ。これで楽天は松井が二人。「リトル松井」って、大リーグに移った時の松井(稼頭央)を思い出しました。桐光学園の松井にとって、マー君は「あこがれの投手」なんですねえ。やっぱり「看板(かんばん)」があるかどうかはデカイや。良かった良かった。
さあて、今日の日本シリーズどうなる? 則本ですわ。楽しみですねえ。

〈新〉と〈旧〉  実戦教師塾通信三百二十七号

2013-10-23 11:32:31 | 子ども/学校
〈新〉と〈旧〉ⅩⅠ

      ~「希望のありか」補足~


 1 訣(わか)れた〈場所〉


麦わら帽子はもう消えた
田んぼの蛙(カエル)はもう消えた
それでも待ってた夏休み    (吉田拓郎『夏休み』)

姉さん先生もいない、トンボも逃がしたのに帰って来ない、という喪失感(そうしつかん)で歌われたこの歌は、1972年のものだ。しかし、これらは自分が捨ててきたものをも意味している。水撒き(みずまき)もセミ取りも、私たちの歩いて来た道の途中で置き去りにしてきた。
            
東京駅に着いたその日は
私おさげの少女だったの
胸ポケットにふくらむ夢で
私買ったの赤いハイヒール
そばかすお嬢(じょう)さん 故郷(ふるさと)なまりが
それから君を 無口にしたね
         (松本隆・作詞『赤いハイヒール』歌・太田裕美)
この詩を読めば分かる。私たちは自分の「故郷なまり」を隠す(かくす)よう、一方的に強いられたわけではない。自分を閉じ込めると引き換えにしてもいい、自分の欲望があったからだ。己(おのれ)の出生を拒(こば)んで東京の人間に「なりすまし」、故郷から遠ざかろうとしたのだ。私たちは、故郷への思いより、都市・東京への思いが強かった。しかし、捨てきれない望郷(ぼうきょう)の思いは募(つの)った。

今年はひとりぼっちで
年を迎(むか)えたんです
除夜の鐘(じょやのかね)が寂(さび)しすぎ
耳をおさえてました
家さえ飛び出なければ
今頃みんなそろって
おめでとうが言えたのに     (松本隆『春よ来い』)

家を捨てたんじゃなかったのか
家を捨てたんじゃなかったのか  (吉田拓郎『大阪行きは何番ホーム』)

 東日本大震災が襲(おそ)ってからずっと、避難所でもイベントでも、必ず歌われてきたのが「ふるさと」だ。しかしこの歌を聞くたび、私は何かしら居心地(いごこち)の悪さを感じないわけにはいかなかった。おそらく、ここで歌われている「ふるさと」は、震災よりずっと前になくなっていたからだ。実際、
「(ふるさとが)おかしくなったのは、あの頃だ」
と、お年寄りが言うその頃は、もう半世紀も逆上った頃を指していた。
 私たちは故郷を捨てて旅立ち、そしてある時はその置いてきた場所に身悶え(みもだえ)した。しかし、その時すでに、その故郷も昔の形を持っていなかったはずだ。


 2 解答4「変わることのないもの」

 私たちは震災直後、その東北のお年寄りを中心とする姿に胸打たれた。重苦しく切ないものではあったが、それは私たちにある「懐かしさ」を思い起こさずにはおかなかったはずだ。何度も言うが、その姿があって私たち首都圏の人間の「節制(せっせい)」があったのだ。私たちは黙々(もくもく)と歩き、動かない電車を待つ間も、通る人の道を空けた。緊急避難(きんきゅうひなん)を余儀(よぎ)なくされた食事中のレストランだったが、翌日(よくじつ)、多くの人が支払いに出向いた。これらすべてのお手本は、おそらく東北の人たちの姿にあった。
 一応書くが、もちろんカッコいい話ばかりではない。被災地での泥棒(どろぼう)の横行、避難所(ひなんじょ)での場所取りをめぐる混乱。また、ある避難所を訪れた首都圏の金満野郎(きんまんやろう)は、文字通り「札びらをまき」、それに群がる被災者を「見物」して、
「なんだかんだ言って、結局みんな金なんだ」
とうそぶいたという。
 しかし、結局それらは「一瞬(いっしゅん)の風」でしかなかった。風はおさまって、もとの落ち着きを取り戻した。私たちは間違いなくあの時、動かしがたい強いものを見ていた。確かに今がいい世の中とは思えない。しかし、絶望や投げやりに身を任(まか)せることはない。震災で私たちはそれを教えられた気がする。日本が変貌(へんぼう)し、モンスターのような姿になっていることも確かだ。しかし同時に、
「日本、まだ捨てたもんではない」
ことも確かなのだ。昔、私たちはどんなにひもじくとも、年の暮れにはまっさらな障子紙(しょうじがみ)を買って張り替え、お飾りを下げた。そんな「なににも代えがたい」ものを私たちはたくさん持っていた気がする。しかし、ガラスやカーテンの登場で障子紙が消え、灯油やガスの登場で「薪(たきぎ)拾い」も必要なくなった。「なににも代えがたい」ものも、「必要」の外に出てしまえば忘れられた。では、年ごと/季節ごと、そしてもしかしたら毎日繰り返される「なににも代えがたい」と思っていることはないのか。たくさんある。
 私たちは毎年、新年になれば正装(せいそう)し、神社/寺を訪れる。そして、
「今年こそは/今年も」
と手を合わせてお願いをする。普段からは考えられないその姿を見て、外国の人間はびっくりするという。一説には、こんなまとまりある姿を見せる日本人に、
「危ない」
と思う向きもあるようだ。
 初詣(はつもうで)ばかりではない。私たちは、
「今年も○○がやってくる」
という気持ちを持っている。そこにはお祭や春の桜、そして「お盆」や「お彼岸(ひがん)」がある。そして、子どもが誕生(たんじょう)すれば、「入学式」「運動会」、また、クリスマスやお正月を伴う「冬休み」がやってくる。確かに今風(いまふう)な「入学式」には、パツキン(金髪)の父母がいるけれど、正装したみんなは「この日を待っていた」。「なににも代えがたい」ものを私たちは未だにたくさん持っている。

 最近実によく見かける光景が、レストランでスマホと向かい合っているカップル。あるいは、居酒屋(いざかや)で携帯のゲームをしている若者グループ。どれも思い出したような会話があるだけだ。「静か」が基本。私はこれらを見ると、よく釣りをしている人たちを思い出してしまう。圧倒的(あっとうてき)にシニア世代のこの人たちは、この「仲間同士」で、ほとんど会話をしない。たまにする会話、おそらくは魚や天気や身体の話。それを見れば、やはり仲間なのだ。必要な関係とその空間。そう言えば、ゲームソフトにも「釣り」があるんだとか。私が手賀沼でトレーニングする時、そのかたわら彼らを観察(かんさつ)している感じでは、仲間に入らずひとり釣りを楽しんでいる人もいる。しかし、魚がそこにいるからという理由もあるだろうが、周りの釣りグループと、つかず離れずの距離を置くのだ。彼もおそらく、
「ひとりではない」
のだ。
 絶望する前に、よく見たい。そこにはきっと、
「変わることのないもの」
が息づいているはずだ。


 ☆☆
少し前から、割に初歩的(しょほてき)な漢字にもカナをふるようにしています。このブログが、小中学生の目にも触(ふ)れていると聞いたからです。ハードな内容が多いのですが、嬉(うれ)しいことです。それで前回「齟齬(そご)」にカナをふらなかったのはミスでした。もう有名な「答弁言語」だったもので、うっかりしました。指摘(してき)を受けて気がつきました。

 ☆☆
やりましたね、楽天。万歳、東北!
星野監督と巨人の因縁(いんねん)がずいぶん話題になってます。プロ野球入団時、星野監督が選手として巨人に入れなかった「無念」は知りませんでした。でも、星野監督を「巨人の監督として抜擢(ばってき)」という声が、「巨人の監督は巨人出身のものに限る」という声に消されたのは覚えてます。
楽天!
「胸を借りて、頭を下げて」
巨人をたたきつぶせ!

 ☆☆
福島に出発します。次回は福島の報告になると思います。そのあとから何回か、「武道」を連載(れんさい)します。先日の「同門会(?)」で話していたら、まだ書いてないことを思い立ちました。関心ない人ごめんなさい。

〈新〉と〈旧〉 実戦教師塾通信三百二十六号

2013-10-19 16:34:24 | 子ども/学校
 〈新〉と〈旧〉Ⅹ

     ~「希望のありか」最終回~


 1 解答その2「スタートライン」


 私たちの子どもへの願いは、と問われたら、私たちは迷わず
「子どもたちが幸福でありますように」
と答えるはずだ。ではもう少し具体的に、「わが子の幸福」に対してどうか、と問われたら、
「自分の力で、自由に歩き、食べ、生きること」
と答えるのではないだろうか。どんな大人になって欲しいか、の問には、
「周りに迷惑(めいわく)にならなければいい」
あたりだろうか。そんなに多くを望まないはずだ。幼い子どもの姿は、親/大人を「何も要らない」ハートにする。だから、シンプルで多くを望まない。金持ちになって、有名になって、ビッグになろうぜという類は、実はむしろ少数派(しょうすうは)だった。私たちが抱いていたのは、こんな「幸福」だったのだ。
 ところが、私たちはいつの間にか、この願いに様々な衣(ころも)を着せ始める。
「外に行かないで本ばかり読んでる」
「外で遊んでばかりいる」
「肉ばかり食べる」
「勉強しない」
「運動が出来ない」
そして、
「友だちがいない」
「悪い友だちと付き合ってるみたい……」
「行ける高校がない」(これ、親のよくこぼすグチです。通訳すると「大した高校に行けない」という意味)

 私たちのスタートラインはシンプルで雄弁(ゆうべん)なのに、子どもが成長するに連れ、思わず身構える(みがまえる)。外から家に帰って来る子どもたちは、その都度(つど)、表(おもて)にあった輝き(かがやき)ばかりでなく、汚れ(よごれ)を持ち帰った。私たちは道の険(けわ)しさに、不安のあまりおしゃべりになった気がする。そうしていつの間に、子どもたちへの、
「自分の力で、自由に歩き、食べ、生きて欲しい」
願いを忘れそうになった。そして、忘れもした。
 私は、スーパーでも電気量販店でもどこでもいいが、そこでたまさか、ひとりせわしく動き回り、なにかをぶつぶつつぶやいている若い子を見かけると、少し嬉(うれ)しくなる。その子の周囲に親を見ることもない。そして、その子は商品売り場を周りながら、嬉しそうに笑っている。それを見ると私は、やっぱりいいな、と思うのだ。ひとりで出掛け(でかけ)、自分で選んで買うという、そんな行為(こうい)にいたるまでの数々の苦難(くなん)を思い、良かったね、と思う。その姿は、私たち大人の願いの、シンプルなスタートラインを思い出させるからだ。
 解体された家族や町は、パソコンやネットを始めとする、情報社会の中に拡散(かくさん)している。家族や町は「取り戻す」ものではない。それはもうその解体されたものの中にしかない、という理由で不可能なのだ。多分、その中に飛び込むことでしか、私たちは道をたどれない。
 ドラマ『なるようになるさ』に対して最後に言えば、そんな現実に、
「置き去りにされた私たち」
がいるのであって、そこには向かって行く以外にないのだ。もう一度その現実を、
「(過去まで)引っ張って来よう」
「取り戻そう」
というのは、むだで無責任な行為と言っていい。現実は「奪い返す」ところにはない。原発でも明らかではないか。「(汚れた)海/土を取り戻そう」とは言うが、それは今までとはまったく違った社会でないと、不可能だ。産業も地域も、人間(関係)も文化(科学)もだ。
 シンプルな願いを手放さない、私たちの手だてはあるのだ。


 2 解答その3「食う/寝る」

 私の仲間が言っていたが、
「子どもが子ども時代を子どもらしく」
生きられたら、子どもたちはもうそれだけで、次への一歩を踏み出せる。堂々(どうどう)とした大人になれる。大人になることに対して、抵抗(ていこう)もなく、むしろ憧れ(あこがれ)さえ持って大人になれる。その手がかり、そして<手続き>は、シンプルで、そしてそれゆえに私たちの生きる根幹(こんかん)にかかわるものだ。
「食う/寝る」
がその根幹を支えている。私たちの「幸福」がシンプルだったように、それを支えるものもシンプルだからだ。毎日の平凡な繰り返しの行為は、私たちの願いを支えていた。それが私たちの持っていた「幸福」を支える。子どもたちがどんな「食事」をし、どんな「眠り」を手にするのか、それが大切だ。
 私は以前、ここで使った『へへののもへじ』(福音館書店発行・高梨章/林明子著)の一節(いっせつ)を、再び引き合いに出さないわけには行かない。
             
たべる
しゃべる
すぐ さわぐ
たおして
こぼして
ちらかして
あかんぼ いやいや
ぼくは にやにや
ぱぱは ひやひや
まま てんやわんやの
ゆうごはん

 こんなに平凡で幸福な食事の風景を、いま日本の家庭のどれぐらいで見られるのだろう。しかし、ないはずはない。母の胸から離脱(りだつ)し、テーブルの上で食事をするという、とんでもなく画期的(かっきてき)な変化。その始まりは、子どもにとって、不思議で好奇(こうき)に満ちた、そして厄介(やっかい)な出来事だった。大人にしてみれば、
「なんでも」
「たくさん」
「きれいに」
食べて欲しい、という願いはあった。しかし、それらのひとつひとつを「出来る/出来ない」ことが幸福でもあったはずだ。ほら、幸福はここに、という『青い鳥』の話は本当だ。
 では、母(あるいは父)と、子どもひとりでは幸福の食卓は不可能なのか。そんなことはない。また、
「お母さんの手作りが一番よ」
とは、旧いドラマなら出てきそうなセリフだが、そうではない。事情が許さず、コンビニやスーパーの見切り品になる場合だってある。それだと食卓は寒々とするのだろうか。そんなはずはない。そりゃまあ、前にも書いたように、手作りの料理の匂い(におい)と温もり(ぬくもり)が、家中を満たしているのがいい。それは仕方がない。というか、それが一番。しかし、
「お母さんの作ったシチューが冷蔵庫に入っていますので、温めて食べてください」
という置き手紙(メールだったりして)が続く家では、「お母さんの手作りが一番」というわけには行かない。それなら、
「間に合った!」
などと言って、夜も近いスーパーの惣菜売り場(そうざいうりば)で、親子大騒ぎし、慌(あわ)ただしく食卓に向かう。こっちの方が、よっぽど幸福だ。時間のない親子だ、きっとテレビを消した食事なのだろう。それがいい。そして、二人のおかずに「今日の出来事」が加わらないはずがない。
 ほら、幸福はここに。


 ☆☆
どうも尻切れ(しりきれ)トンボになったっぽいです。まだ書きたいことが残っているので、なんか「補足」が必要になりました。次の機会でちゃんと締(し)めたいと思います。どうぞ、引き続きご愛読願います。

 ☆☆
柏市内のT中学校の二年生が今年の二月に自殺しました。そのことが、9月と10月に千葉版のニュースに出ました。市教委が両親の要請(ようせい)を受けて、この10月、生徒にアンケート調査を行うというもの、そして、公表するまで八カ月を要した理由は「両親の『そっとしておいて欲しい』意向(いこう)による」というものでした。10月の報道では、原因調査をしなかったことを市長はおわびし、市教委と両親のコミュニケーションにずれがあったという見解を載せています。
まだ詳しい(くわしい)ことは分かりませんが、現場も含めて、あちこちから聞いた話によると、この自殺した生徒は、一月の転入生だったということです。つまり、転入して一カ月後の事件です。よっぽどのことが一カ月の間にあったのか、別な理由によるのかは、現場の様子を聞いた限りではまだはっきりしません。ネットも検索(けんさく)しましたが、下品な言葉や罵り(ののしり)ばかりで、参考になりません。まずかったと思うのは、教育長の、両親との「齟齬」という言葉でした。つまり「行き違い」ということです。それならそう言えば良かった。この「齟齬」は、歴代の首相が使ってきました。近いところでは今年の七月に復興庁の大臣が、福島原発の汚染水問題について、「齟齬」なる言葉を使っています。大体があんまりほめられない「いい訳(わけ)」の意味で使われています。「これを使ったらいい訳」のような気分が、この下品なネットの徘徊者(はいかいしゃ)にはあったのでしょう。まあとにかく、誠意ある今後の対応を待ちたいと思っています。

 ☆☆
楽天、勝利! 日本シリーズに王手をかけましたね。
頑張ろう東北!
あと一勝だ!

〈新〉と〈旧〉  実戦教師塾通信三百二十五号

2013-10-16 10:59:56 | 子ども/学校
 〈新〉と〈旧〉Ⅸ

    ~「希望のありか」その5~


 1 多くの<手続き>


 考えてみると、このシリーズを始めたきっかけは、TBSドラマ『なるようになるさ』だった。それがもうとっくに終わって、連続ドラマは秋ものに変わっている。
 そう思うと、さっさと結論を言ったらどうだという、またしてもお叱り(おしかり)を受けるのももっともだ。出てきそうでなかなか出ない結論に、しびれを切らしたようです。申し訳ない。なので、というか、二回しか見なかったこのドラマを振り返りつつ、結論を書いておこう。
 このドラマの主人公(綾だったか、浅野温子)のセリフは、強烈に残っている。

○子どもなんていうものは、放っておけばいいのよ
○みんなそれぞれ悩(なや)んで大きくなるのよ

 セリフの正確なところははっきりしないが、脚本家橋田寿賀子のこういうメッセージは、単純明解だった。これは間違ってない。しかし、肝心(かんじん)なのは、仮にこういう思いを持っていたとして、それがままならない現実を、私たちは抱(かか)えている。それがドラマで示されたのだろうか。その思いを貫く(つらぬく)ためには、数多くの<手続き>が必要なはずなのだ。それは例えば、「母親」とか「妻」、あるいは「大人」とか「教師」という「仮面」をはがそうとしても、その下に次々に現れる「仮面」に、自分自身で驚き、とまどう経験に似ている、と言ってもいい。思うことで思いが通じるほど、現実は甘くないことを私たちは知っている。その<手続き>は「大変なこと」なのだ。それを分かってない(と、私は思った)から、このドラマは「旧い」と言った。シビアなことでも、コメディにすることは不可能ではない。このドラマは、いや、「旧い」橋田寿賀子にはそれが出来なかった。


 2 解答その1「なぜ?」という<手続き>

 一つ目は、「なぜ?」と問い続けることである。なんだそんなことか、と言われそうだ。今まで繰り返して来たことなので、また言われそうだ。しかし、この「なぜ?」を通してしか私たちは「見る」「考える」ことを出来ない。もう一度このことを考えてみよう。
 まず、私たちが子どもたちに「なぜ?」と思うことの中に、それが
○取り越し苦労(とりこしぐろう)
だったと思うことがある。「なぜ立てない?」「なぜ話さない(言葉が出ない)?」「なぜおむつが取れない?」等々。願いに近い、少しばかりの不安を抱えながら、私たちはそのハードルを越えて来た。そして気がつくと、その都度
○「親というもの」になっていた
気がする。この場合の「なぜ?」は、「考える」というより「見守る」ことだった。この「見守る」姿勢を、私たちは段々出来なくなっていく。そしてその結果、良くないことだが、不安な現実に向き合うのでなく、その不安、あるいは願いを子どもに向けるようになっていく。
「どうして九九が出来ないの?」
「どうして友だちとうまく行かないの?」
と思うだけならまだいいが、子どもに言うようになる。その不安を子どもが持っているなら、子どもとともにそれらに向かうがいい。その結果、それらをマスターするとか、またいつかとか、あきらめるとかいう結論を得ることが出来る。あきらめるというのが本人に最悪な結果だったとしても、親/大人は、
「人間/人生では『出来ない/仕方のない』ことがあるのだ」、そして、
「チャンスはまた来る。いまは『出来ない/仕方がない』だけだ」
というサポートが出来る。そして、それらが大したことではないことを、親/大人の愛は示すことが出来る。
「オマエのことを大好きだよ」
という心は、何よりも強い。本当はこれが一番の「模範解答」だ。
 一方、その「九九」やら「友だち」への不安を、親の方で思い入れを強くしてしまうと、子どもの方では「九九」や「友だち」と、そこに「親の愛」からの不安が加わる。やがて、親の陰りを帯びたこの「なぜ?」は、
○この子は一体どうなるのでしょう?
という不安に成長する。いつの間にか、「願い」はすっかり姿を見せなくなる。不幸だが、実はこれをほとんどの親が経験する。
 親の誰でもが経験するこの問は、
○どうにもしょうがない
○なるようにしかならない
○そっとしておくしかない
という三つの答でしか、大部分が対処出来ない。
 私のところまで相談に来る方や、私の本の読者の多くが、
「答を教えて欲しい」
「答が書いてない」
と言う。しかし、そうではない。私は今までこんな風に「答」を書いている。それが答になっていない、という気持ちも分かる。私に不満(?)を送る人は多分、細木数子や美和明宏のように「こうしなさい」と指示されることを望んでいる。でも大体がそんなまやかしは、次の疑問や不安に役に立たなくなる。だからこそそういう業界はもうかるのだが。
 例えば、早めの歩行訓練をすれば、ウサイン・ボルトのように駿足(しゅんそく)になるだろうか。そして「黄金のGT-R」をプレゼントされるだろうか。そんなはずはない。大昔にいっとき大流行した「歩行器」は、もう博物館入りとなっている。はいはいから捕(つか)まり立ち、そして歩行へ、という自然な成り行き(なりゆき)が、平衡(へいこう)感覚も含めた脳の発達など、すべてにわたって身体によい、と見直されたからだ。私は、幼児を英語塾に通わせるママどもや、小学生を空手道場に通わせて満足そうな母ちゃんたちを、
「早期(そうき)教育信仰(しんこう)」
に侵(おか)され、気持ち悪いと思うだけだ。英語だろうが日本語だろうが、言葉は文化そのものだということを、この幼児向け英語塾に通っている親は分かってない。ことはビジネス英語ではないのだ。この子どもたちは、それこそ、このママどもが言うはずの「大切な小さな幼児期」を、庭でも砂場でもなく幼稚園でもない、「英語塾」に通わせている。度し難い(どしがたい)とはこのことだ。空手で言えば、子どもなんて、小さい時はうんちまみれ、もう少し大きくなったら、泥や雪にまみれるがいいのだ。三歳からトランポリンをやっていれば、内村選手になれるとでも思っているのか。
 と、こんな風に字数がどんどんかさんでしまう。どうやら今回は「解答(です。ホントに)その1」で終わってしまう。


 3「この子は一体どうなるのでしょう」

 シリーズの前回で書いたように、大人が抱える不安は、大体が大人自身の不安である。しかし、それは、
「放っておけばいいのよ」
ではすまない。これは、私の言う
「なるようにしかならない」
「そっとしておくしかない」
というのとは少し違っている。私たちの時代と社会は、
「どうなっているのか」
が、分からないことには「放っておけない」現実となっているからだ。
 障害者の会に顔を出しても、かつて受け持った「発達障害」を持った子の親の口からも、
「この子は一体どうなるのでしょう」
という言葉を決まって耳にする。私はその言葉を耳にするたび、ああそうなんだ、みんな同じことを思うのだ、と考えないわけには行かない。障害児を持った親の口からは、
「『普通』の子はまだいいんです」
という言葉が、残念だが、多い。しかし、「不幸の比べっこ」はみんなどこでもやっている。私はこの言葉を聞くたびに、
「もっと大変な人がいる」
という言葉がまったく役立たずで、愚劣(ぐれつ)であることを知るのだ。


 ☆☆
台風、どうやら遠ざかりました。今日、千葉県柏市の学校は休校です。被害の蚊帳(かや)の外にいる連中は、部活もねえしと、勇んでなにをやっていることでしょう。先生たちも休めればいいんですがねえ。

 ☆☆
空手の同門会と言ったらいいか、二十年ぶりかな、私を「囲む会」をやってくれました。話しているうちに、
「昔の話はいいから」
と思っている(言ってませんよ)私がいました。そんな自分に私自身驚きました。空手から遠ざかっているみんなが、でもなにかを持ち続けていることに少し熱くなった私です。そして、子育てを始めたみんなが持っている思いや不安を知らされ、おおいに熱くなった私でした。五時間じゃ全然話し足りねえ、そう帰りの電車で思いました。
「また囲ませてください」
が嬉しかったです。
『久保田』の「万寿(!)」プレゼントされました。